試着
一方通行の細い路地を進んだところにある、一棟のレオパレス。場所が辺鄙すぎるせいか、入居者の姿も疎らだ。生活音もほとんどなく、灯りが零れる窓も少ない。櫛の歯が欠けたようである。
「……着いた」
部屋の主の長谷川がドアの前に立つ。
「さて」
腰のカラビナから二本の鍵を取り、一本を鍵穴に挿した。一本は自宅用で、もう一方はサークル部屋のだ。
「ただいま」
返事がないことは承知の上の習慣だ。慣れた手つきで壁の照明スイッチに指が触れる。間なくして、部屋に明かりが灯る。ベッドの枕元に小笠原満男が笑顔で立っている。
「よいしょ」
ベッドに本日の収穫物である紙袋を置く長谷川。ベッドに腰掛け、向かいの壁際に置かれた冷蔵庫からドクターペッパー缶を取り出す。
「……ふぃ」
プルタブを押し上げ、中身を一口だけ喉に流す。ドクターペッパー特有の風味が鼻腔を擽った。
「それで、これだよな……」
ちらりと紙袋を見遣る。中からは灰色の毛皮がこちらを覗いていた。
「何となく使えそうな雰囲気と値段で即買いしちゃったけど、実際、これは何なんだ?」
毛皮を紙袋から引っ張り出すと、照明の下で広げてみた。青白い光に照らされて、毛皮は灰色というより銀色に近い色を放っていた。商店で見たときと印象が違う。
「本当に、これは何?」
長谷川が広げてみたもの、それはよくわからない形状をしていた。四角い一枚の毛皮の中央には、頭が通るほどの穴が開いていた。
「ここから頭を通して、羽織るのか?」
長谷川は、店に向かう道中に閲覧していたAmazonのサイトを思い出した。サイトには、着ぐるみのようなコスプレ衣装があった。その衣装に、首回りを覆うケープのようなパーツがあったはずだ。その要領で、長谷川は毛皮の穴に頭を潜らせた。
「……こんな感じか?」
クローゼットを開き、姿見の前に立つ。シャツの上に毛皮のケープが被さる。ワイルドなファッションのコーディネートだ。
「いや、これだと服の上から毛が生えていることになるな」
長谷川はシャツのボタンを外し、シャツに掛かっている毛皮をシャツの中に入れて体裁を整えた。毛皮が長谷川の素肌に密着する。
「意外と触り心地がいいな、これ」
ざらざら、ごわごわとした嫌な感触がなく、毛皮の裏面は優しく肌を包む。
「次はこれだな」
毛皮のセットの一つ、アームカバーとレッグウォーマーだ。長谷川はシャツとジーンズを脱ぎ、それらを腕と脚に通した。
「アームカバーにしちゃ、長いな。脚のも」
そのパーツは二の腕の半分まで覆い、脚も膝よりかなり上までを覆うものだった。しかし、ケープと同様に、素肌に触れても快適な感触であった。異物感や違和感など、ネガティブな感覚はない。更に、腕や脚を曲げても関節の動きを阻むものでもなかった。
「不思議な造りだな、この毛皮」
何か特殊な素材で作られているのだろうか。フリーサイズにしてはオーダーメイドのように、長谷川の体にフィットする。
「あっ、こんなのもあったんだ。でも、これは……」
長谷川は装着を躊躇った。出てきたもの、それはアダルトグッズにありそうな物体だった。
「これもセットのうちだよな……装備、してみるか」
好奇心が羞恥に勝り、長谷川はボクサーブリーフを脱ぐ。そのパーツはアダルトグッズ、むしろゲイ向けのジョークグッズにありそうなものかもしれない。毛皮で出来た下着だ。しかし、下着にしては構造がおかしかった。前部と肛門の部分に穴が開いており、しかも、動物のような尻尾がついていた。
「この穴に通すんだよな……」
恥ずかしがりながら、長谷川は下着の穴に陰茎を通して装備した。肛門付近に開いた穴から尻が覗く。その尻を尻尾が撫でる。何とも不思議な感覚だ。そして勿論、先程までのパーツと同様に嫌な感触はしない。布製の下着よりはツルツルとしているが、寧ろそれが癖になりそうなほどだ。
「……やっぱり、これは恥ずかしいな」
脱ぎ捨てたボクサーブリーフを毛皮パンツの上から穿く。陰茎だけが露出していると、流石にアブノーマルな趣味を持たない長谷川では我慢が出来ない。毛皮と尻尾でボクサーブリーフが不恰好に膨らむ。
「変態趣味なのを買っちまったな、友里恵を笑えない」
穴に通した陰茎が付け根を刺激されて、血流がそこに注がれる。
「……これだよな、あとは」
怪しげな店で購入した怪しげなアイテムも、漸く最後の装備品を残すだけとなった。
「これ、これだよ」
頭部、マスクだ。よくある剥製は頭部にも詰め物や眼球のレプリカがあしらわれて、観賞用の置物以外の用途は無いはずだ。しかし、陳列棚でこの頭部は空洞の瞳で長谷川を見つめていた。
「タオル、これを取ると」
形状の保持のために詰められたタオルを引き抜く。タオルを取り去っても、頭部はある程度の強度を保っていた。骨董品のように脆くはなく、寧ろ、奇妙な弾力があった。
「ん? これ、タグか?」
詰められていたタオルに、古い紙片が付いてきた。紙片はセロハンテープで留められているが、経年による粘着力の低下でタオルの繊維に絡め取られてしまっている。
「んん? 何て書いてあるんだ? まあ、いいか」
紙片には、見たことがない文字で何かが書き込まれている。英文にすらアレルギー反応が出る長谷川、よくある洗濯方法の注意書の類いとして紙片を処理することにした。
「それで、やっぱり、これ……被れるよな?」
長谷川の見立て通り、アイテムはマスクのような構造をしていた。成人男性の頭部を包める程の大きさがある。
「よっしゃ」
長谷川は頭部のパーツに自らの頭を突っ込んだ。
「で、と」
姿見に自身を写す。首から下はボクサーブリーフを穿いた、素肌に毛皮の防寒着を纏った変質者が現れる。しかし、頭は獣という風変わりな出で立ちだ。長谷川は姿見に近寄り、目の位置などを調整した。
「……こんな感じか」
姿見の前で、変身した姿を軽く眺める長谷川。
「流石に変態だな、これは」
毛皮が覆わない部分からは、持ち前の生白い肌が覗いている。しかも、鍛えてもいない貧相な腕や腹が毛皮の持つ野性味と相性が悪かった。
「何か着れば少しは……」
そう思い立ち、長谷川は普段から寝間着にしているジャージを装備の上から着る。就寝に備えて、少し大きめのサイズのジャージだ。ジャージのズボンに足を通し、上着も纏った。上着のファスナーは毛皮が胸から覗くように、臍より少し上の位置で止める。
「……なるほどな、なかなか良いじゃないか」
独りごちると、腰に片手を当ててまじまじと自らを見つめる。ジャージを着た獣人が都内のレオパレスに誕生した瞬間だった。
「これ、良い感じだ。ハロウィンに使えるわ、これ」
言葉がマズルの中で反響する。全ての肝となる、マスク。保管状態が悪かったにしろ、マスク内部は埃臭くも獣臭くもない。視界も良好、サイズも不思議と長谷川に合ったものだ。細かに採寸でもしたかのように、額や頬に隙間なくフィットする。被り心地は期待より良いものだった。
「……がおー」
両手を振りかざしてそれらしい表現をしてみる。鏡の中には衣を纏った獣人が立っている。まるで、ファンタジーの世界から抜け出たようだ。
「……って、ふふっ」
別人、というより種族まで変わった姿に何とも言えない感覚を覚える。胸の奥底に変身願望でも押し隠してきたのだろうか、マスクの下でにやけ面を止められなかった。
「ふふっ、さてと」
ベッドに寝転がり、スマホを弄る長谷川。そのまま何事も無かったかのように、日常の何気ない動作に移行した。そのときは何故か、獣人の装備を脱ぎたくなかったというより、自身が何かを身に付けているという意識が無かった。
「あれ、何かもう眠い……?」
時刻はまだ23時。普段から就寝は遅い長谷川だが、突然の眠気に襲われた。
「うそ、まだ日付が変わる前だろ……?」
いつもなら、スマホでサイトを閲覧しているうちに寝落ちしてしまう。しかし、瞼が言うことを聞かない。
「寝るか……」
照明のリモコンで明かりを消し、スマホも画面をオフにした。
「……………………」
部屋が暗闇に包まれるや否や、長谷川は眠りの世界に旅立った。
『……き……だれ』
「……ん?」
寝息を立てはじめた長谷川の脳内に何者かの声が響いた。
「んぁ……?」
『きみは……誰?』
声が段々とはっきりしていく。長谷川は夢でも見ているのだろうと思い、その声で目覚めることはなかった。
「長谷川……」
『ハセ、ガワ?』
「ん……」
『ハセガワ、僕に体をくれる?』
唐突に意味が分からない問いを投げ掛ける声の主。しかし、長谷川は煩わしさからか、問いに対して深く考えていなかった。
「んああ……」
『くれるんだね? 本当に?』
「ああ……んん」
眠りながら、長谷川は首を縦に振った。肯定の意味だ。
『ありがとう。きみの体、僕、貰うね』
「うー……ん」
『ありがとう。本当にありがとう。これで、僕も……』
声が止んだ。声の主はどこかへ消えたようだ。
「んん……」
声が止んだ直後、長谷川の体表が熱を帯びた。しかし、その熱でも目覚めることはなく、長谷川は夢路を辿り続けた。