8:この人には傍にいてほしい(8)
「もう、仕方ないなあ。じゃあ、ちょっとだけだよ? 邪魔になりそうだったら、すぐに帰るよ?」
「……うん!」
ぱああと顔を輝かせて、ディオがソファを下りた。そして、さっきメリッサが片付けたばかりの絵本を引っ張り出す。あまりの変わり身の早さに、メリッサは呆れながらも感心した。
「めりっさ、はやくいこう! あしゅーど、まってる!」
「いや、待ってはいないと思うけど……」
両手で大事そうに絵本を抱えて、ディオは部屋を飛び出した。そして、経理の部屋とは反対の方向へと駆けだそうとする。
「ディオ、そっちじゃない。こっちだよ」
「こっちかあ!」
「ちょっと待って。廊下は走っちゃ駄目」
今にもすっ飛んでいきそうなディオの首根っこを掴んで、引き止める。ディオは青い瞳を眇めてメリッサを見上げた。
「ディオ。そんな顔しないの。良い子にしないと、連れて行ってあげないよ」
「……おれ、よいこにする」
神妙に頷いて、ディオは姿勢を正した。良い子アピールのつもりらしい。
メリッサは大きくため息をつくと、アシュードのいる部屋へと歩きだした。ディオはその後ろをぴょんぴょん跳ねながらついてくる。意味のよく分からない歌まで口ずさみ、実に楽しそうである。
経理の部屋の前に着くと、メリッサは扉をノックした。部屋の中から「どうぞ」という声がしたので、ゆっくりと扉を開ける。すると、ディオが部屋の中に飛び込んでいった。
「あしゅーどー!」
「あ、ディオ! 待ちなさい!」
部屋の奥の机にいたアシュードが顔を上げた。駆け寄ってくるディオに驚いて目を丸くする。
「どうした、ディオ。……ぐはっ」
ディオは全力でアシュードにぶつかっていった。その結果、どうやらアシュードの鳩尾に、ディオの頭が良い感じに入ったらしい。アシュードのそこそこ良い見た目の顔が、一気に歪む。
「こら、ディオ! 良い子にするって約束だったでしょ!」
メリッサが慌ててディオを引き剥がすと、ディオは悪びれずにへらりと笑った。
「ほら、アシュードにごめんなさいは?」
「ごめんなさーい」
「……いや、大丈夫だ。気にしなくて良い」
腹をさすりながら、アシュードは答えた。ディオはそんなアシュードに向けて、持ってきた絵本を見せる。
「あしゅーど、これ、よんでー!」
「ん? 絵本か?」
アシュードは絵本を受け取ると、パラパラとページをめくる。
「精霊祭の話か。懐かしいな、僕も読んだことがある」
「よんでー」
「分かった。読んでやろう」
アシュードは机の上の書類を軽く片付けると、ソファの方へと移動する。そして、ソファに腰掛けると、ディオを手招きして呼び寄せた。ディオは嬉しそうな顔をして、アシュードの膝の上に乗る。
「アシュード、仕事は良いの?」
「ちょうど休憩でもしようと思っていたところだったんだ。問題ない」
アシュードはメリッサにも傍に来るよう呼び寄せた。メリッサは少しためらったが、おずおずと近寄る。
「メリッサも座れ。この僕の隣に」
「べ、別に、座らなくても大丈夫だし」
「いいから。ほら、ここ」
アシュードが自分の隣をぽんぽんと叩いて促してくる。メリッサは遠慮がちに、アシュードから少し距離を空けて腰を下ろした。
「そんなに遠かったら、絵本を一緒に見られないだろう。もっとこっちに」
「だ、大丈夫だし! 見えるし!」
「本当にメリッサは素直じゃないな。……仕方ない」
そう言ってアシュードは、ディオを抱っこしてメリッサの方に寄った。太腿がぴったりくっつくくらいまで寄ってこられて、メリッサの顔が真っ赤に染まる。
「ちょっと、アシュード! 近すぎだし!」
「これくらい近付かないと見えないだろう? さあ、読むぞー」
メリッサの訴えは軽やかに退けられ、絵本の読み聞かせが始まってしまった。
「昔むかし、まだ魔法がこの世界になかった頃……」
アシュードの読み聞かせは、とても上手だった。ディオは目を輝かせて、絵本に描かれた精霊の絵を見つめ、お話を楽しんでいる。メリッサもつい、アシュードの声に聞き入ってしまった。
人間が幸せになれるようにと願いを込めて、魔法を授けてくれた精霊のお話。十二月には、その精霊に感謝を捧げる精霊祭が行われるようになった、というところで終わる。
「せいれいさんは、すごいんだなあ」
「そうだな。十二月になったら、ディオも精霊祭を楽しむんだぞ。この僕と一緒に!」
「うん! おれ、たのしむ! でも、どうやってたのしむのー?」
精霊祭では、いつも親しくしている人に贈り物をするという慣習がある。家族や友達には、緑色のリボンをつけた贈り物をあげるのだ。ちなみに、恋する相手や伴侶には赤いリボンをつけた贈り物をするらしいが、メリッサはまだそういうのを見たことはない。ちょっと寂しい。
「じゃあ、みどりいろのりぼんをつけたのを、あしゅーどにあげる」
「ふっ。じゃあ、この僕もディオに贈り物をしてやろう!」
「めりっさは?」
「あたしもディオに贈り物をあげる。心配しないで」
ディオは頬を薔薇色に染めて、目をきらきらさせた。小さな拳を上下にぶんぶん振って、待ちきれないとじたばたする。
「じゅうにがつって、いつ? あした?」
「……今は八月だからな。あと、四ヶ月は先だな」
「ええー」
大袈裟にディオは肩を落とした。絵本の精霊の絵をぺたぺたと触りながら、ため息をついている。
「まほうで、じゅうにがつにしたら、だめ?」
「駄目よ。時を操る魔法は、とっても難しいんだから」
「ざんねん……」
しょんぼりしたディオの頭を、アシュードが笑いながら撫でた。頭を撫でられて嬉しかったのか、ディオの顔が少し明るくなる。
「めりっさは、あしゅーどにもおくりものする? あかいりぼん?」
「な、なんであたしが赤いリボンの贈り物をしなきゃいけないのよ!」
「めりっさとあしゅーどは、なかよしだから?」
間違っても、アシュードに好きな人や恋人用の赤いリボンの贈り物なんてやるものか。そう思ってアシュードをちらりと見上げると、アシュードは真剣な顔をしてメリッサを見つめていた。翠の瞳が思ったよりも近い。
「お前ももうすぐ十六歳だろう。結婚だってできる年齢になるんだよな。……いつまでも赤いリボンと無縁なのは笑えないぞ」
「大きなお世話だし! そういうアシュードは、赤いリボンの贈り物、されたことあるの?」
「……ないな!」
とても清々しい笑顔で言うアシュードに、メリッサは呆れた。二十七歳にもなって、一度も赤いリボンに縁がない人間に言われたくない。