37:裏話(3)アシュードの特別な人
アシュードには、特別だと思える人が二人いる。
一人は紫色の髪に青の瞳を持つ、五歳の男の子。もう一人は黒髪に紅い瞳を持つ十五歳の女の子だ。
五歳の男の子の方は、名前を「ディオ」という。親に捨てられて一人でいたところを、魔術師団に引き取られた。なぜかアシュードにものすごく懐いてくれ、べったりと甘えてくる可愛い子である。
ディオは父親というものをよく知らないらしい。だから、恐らくアシュードのことを父親のように思っているのだろう。無邪気に抱き着いてくるのは、きっと、今までもらえなかった父親からの愛情を求めているからなのだ。
アシュードも、普通に結婚して、普通に子どもが生まれていれば、このくらいの子どもの親でもおかしくない。実際、同い年の友人たちのところの子どもはこのくらいの年齢だ。もう少し上の子もいるくらいだ。
だから、アシュードもディオのことをなんだか息子のように思ってしまう。アシュード以外の大人の男性を恐がるディオを目の当たりにすると、その思いは強くなる。
「あしゅーどー!」
そう言って駆けてくる姿に、何度癒されただろう。鳩尾に頭突きをされても、顎に頭突きをされても、怒る気になれないくらいに可愛い。
ディオは本当に、アシュードの「特別」だ。
そして、もう一人の「特別」は、名前を「メリッサ」という。三年ほど前に出逢った、可愛らしい美少女である。
この少女、見た目は本当に愛らしい。さらさらの黒髪を高い位置で二つに結いあげ、大きな紅い瞳をいつもきらめかせている。不意に見せる微笑みは、その辺の男の心を全て持っていくだろうと思えるほどの可愛らしさだ。
ただ、性格が問題で、とことん素直じゃない。
今でこそ少し素直な面も見せるようになったが、出逢ったばかりの時は本当にひどかった。
「兄、邪魔!」
これが、メリッサがアシュードに向けて放った第一声である。しかも、憤怒の表情で。
甥っ子の泣き声が気になって様子を見に行っただけなのに、ひどい扱いだった。なぜよく知らない美少女に「兄」と呼ばれるのかも謎だった。まあ、後で確認すると「だって名前知らなかったし」と言われたが。
そんな素直じゃない美少女も、根気よく関わっていると少しずつ態度が軟化してきた。他の人には見せない柔らかな表情などを見せるようになる。
それが楽しくて。つい、ちょっかいを出してしまう。
まるで、もう一人妹ができたみたいだった。今は異国にいる妹も、どちらかというと頑固で素直じゃない面があった。だから、冷めた態度をとられることには慣れていた。
そういえば、変わり者の妹ユリが「メリッサちゃんを愛でたい」とよく言うのだが、最近、その気持ちがアシュードにも分かるようになってきた。
頬を染め、恥ずかしそうに目を逸らして「ありがとね」と呟くところとか。
いちご味のお菓子に目を輝かせ、にこにこしながら頬張るところとか。
不安そうにしている時に手を握ってやると、あからさまにほっとした顔になるところとか。
全てが可愛くて、愛おしい。
甥っ子たちのおかげで、自分のほのかな恋心に気付いたあの時から、想いはどんどん膨らんでいく。もう妹だなんて思えなかった。
十二歳の年の差は埋まらないのに。だから、きっと、いずれ諦めることになるだろうと分かっていたのに。
メリッサを、本気で、愛してしまった。
そんな中、気を紛らわせるためだけに始めた見合いの話が、なぜか順調に進んでいく。見合い相手のエマは、きちんと書類を交わし正式に婚約したいと何度も言ってくるようになった。アシュードはそれを、のらりくらりと躱す。
しかし、いつまでもそうしてはいられなかった。エマの両親からも煩く言われるようになり、十二月中には正式に婚約の書類を交わすことになってしまった。
「正式に婚約するんですもの。そろそろ魔術師団を辞めて下さいますよね、アシュード様?」
エマは笑顔でそう言った。エマは魔術師に偏見があるようで、アシュードが魔術師団で働くのを嫌がっていた。ずっと辞めろ、辞めろと言われるのを無視してきたが、もう逃げられそうになかった。
メリッサともう、会えなくなるかもしれない。
アシュードは最後に足掻くことにした。メリッサに自分の気持ちを打ち明け、受け入れてもらえるのならエマとの婚約は断る。しかし、メリッサにその気がないなら、もう諦めてエマと結婚してしまおうと。
メリッサの答えは「よく分からない」だった。可もなく、不可もない答え。時間に余裕があれば、アシュードも粘っただろう。メリッサに好きになってもらえるようにアピールだってしただろう。ただ、もう時間切れだった。
アシュードは予定より早く魔術師団を辞めた。メリッサから逃げるように、最後の挨拶もせずに去った。
アシュードの「特別」な女の子。そっと、心の中で別れを告げた。
魔術師団を辞め、家で父の仕事の補佐をするようになった。結婚すれば、父の仕事を引き継ぐことになる。その予行演習も兼ねて。
「アシュード様、街に行きませんか? 私、最近話題のカフェに行ってみたくて」
今日もエマがにこにこ笑いながら、デートに誘ってくる。ここ最近は毎日だ。
「すみません、エマ様。まだ仕事の途中なんです。また今度にしてもらえませんか」
「まあ、アシュード様ったらそればっかり! 冷たいですわ!」
エマが銀色の髪をふわりと揺らし、拗ねた顔をする。アシュードはため息をつきたくなるのを抑え、頭を下げる。
「本当にすみません。この埋め合わせは必ず」
「約束ですわよ、アシュード様。……あ、私、欲しいアクセサリーがあるんですけれど!」
仕事中のアシュードの邪魔をするように、エマは話し続ける。アシュードはエマの話を半分聞き流しながら、仕事をするしかない。なんだか、すごく疲れる。
今と比べれば、魔術師団の経理の仕事は面白かった。魔術師団長は「経理のことに関しては、全てアシュードに任せる。好きなようにやって良い」と言ってくれていたのだ。大変だったが、やりがいも大きかった。
まあ、正直に言うと、魔術師団の経理担当をやってほしいと言われた時は、断ろうと思っていたのだが。予想以上に待遇が良かったため、つい話に乗ってしまった。
仕事中にディオが突撃してくるのも、いつの間にか楽しみになっていた。いつ来ても良いように、仕事はいつも前倒しで進めていたくらいだ。エマと違って、邪魔だと思ったことは一度もない。
アシュードは、ディオやメリッサとのやり取りを思い出して、小さく笑った。
「……アシュード様? 私の話、ちゃんと聞いてます?」
エマがむっとした表情で近寄ってきた。アシュードは慌てて「もちろんです」と返す。面倒臭いなと心の中でぼやきながら。
「私、旦那様から溺愛されている花嫁になりたいのです。だから、早く私のことを愛して下さいね、アシュード様」
アシュードの膝の上にエマが乗ってくる。ディオと違って重い。エマがつけている香水の臭いがきつくて、思わず咳き込みそうになった。
エマが擦り寄ってくるのを、ただ黙って我慢する。結婚したら、これも普通のことになるのだ。そのうち慣れるだろう。
「……そうですね。エマ様を愛せるよう、僕も努力します」
「あら、人を好きになるのに努力というのはおかしいですわ。ふふ、アシュード様って、本当、変わった人ね。貴方と結婚したい女性なんて、私くらいしかいないんじゃないかしら」
くすくすと笑いながら、エマが唇を寄せてこようとする。アシュードはそれをそっと避けた。
「正式に婚約するまで、こういうのはちょっと」
その途端、エマは不機嫌になった。あっさりと膝から下りると、アシュードに背を向ける。
「アシュード様、やっぱり冷たいですわ! 嫌いになりそうよ!」
エマはそう言い捨てて、部屋から出て行く。これはまた、後でご機嫌取りをしに行かなくてはいけないパターンか。もう、本当に面倒臭い。
アシュードは一人、大きなため息をついた。
アシュードには、特別だと思える人が二人いる。
一人は息子のように可愛がっている五歳の男の子。もう一人は女性として本気で愛してしまった十五歳の女の子だ。どちらもアシュードにとっては可愛くて、大切で――……。




