33:ディオが幸せになりますように(9)
「少しお散歩をしてから帰ろうか。手を繋ごうね」
五歳のディオをずっと抱っこして歩くのは、さすがに辛い。そっと下ろして手を繋ぐ。ディオは涙を手のひらでぐいっと拭って、鼻をすすった。
「めりっさ、いきがしろいね! みてー」
「ふふ、寒いもんね。もうすぐ雪も降るかもね」
「ゆきー?」
「うん。雪も真っ白なんだよ。魔法で、ちょっとだけ見せてあげる」
いつもなら、こんなことで使ったりしない魔法。でも、今日はディオが旅立つ日。特別である。
メリッサは手のひらを窓の外に向け、集中する。薄暗い灰色の空から、ちらほらと雪が降り始めた。ディオが窓に鼻の頭をくっつけて、「ほわあ」と感嘆の声をあげた。
「ディオ、ここ廊下だから。廊下の窓にディオの鼻の跡が残っちゃうよ」
「えへへー」
決して褒めた訳ではないのだが。ディオは照れてもじもじしている。可愛い。
ディオは雪を見ながら、はあっとガラスに息をかける。そうやって白く曇ったガラスを、小さな指で突いて遊ぶ。きゅ、きゅ、とガラスが鳴った。ディオは目を輝かせて、また息をかけてガラスを曇らせる。
「めりっさ、みててー」
小さな指が、白く曇ったガラスに文字を書き始めた。メリッサはディオが文字を覚えていたことに少し驚く。ところどころ間違っているが、なんとか読める文字が並んだ。
『めりっさ、でぃお、あしゅーど』
その文字は完成してすぐに、すっと消えてしまう。仲良く並んだ三人の名前が跡形もなく消えて見えなくなると、ディオがメリッサにぎゅっと抱き着いてきた。
「おれ、すぐにあいにくるから。よいこでまっててね、めりっさ」
メリッサは潤んだ瞳を見られないように、ディオをぎゅっと抱き締め返した。
「じゃあねー!」
ディオは左手に縫いぐるみを持ち、右手をぶんぶんと振った。小さな背中にはリュックを背負っている。母親の隣で頬を紅潮させているディオは、とても幸せそうだ。
持っている縫いぐるみは、誕生日にちびっこ三人組が選んでくれたもの。ロイが「ぬいぐるみがいいの!」と喚き、ガントが「かっこいいやつがいい!」と主張し、クリスが「じゃあ、これで!」と決断した逸品である。
額に角が一本生えた奇妙な動物の縫いぐるみ。アシュードが真顔で「ディオ、本当にこれで良いのか」と聞き、ディオがこくりと頷いていたのを思い出す。
「お世話になりました。では、失礼いたします」
ディオの母親がぺこりと頭を下げて、ディオを連れて去っていく。ディオは何度も何度も振り返りながら、手を振っていた。メリッサは建物の入り口に立って、ディオが見えなくなるまで見送った。
「……行ってしまったのう。メリッサ、中に入ろう。風邪をひいてしまう」
師匠ヒューミリスが、メリッサの肩を軽くぽんと叩く。メリッサは黙って頷いた。
「ディオに師匠を辞めること、言わなかったんじゃな」
メリッサの隣をゆっくりと歩きながら、師匠が呟いた。
そう。メリッサは今日でディオの師匠を辞めることになっていた。四月からメリッサは王立ステラ学園に通う。そのため、ディオがやって来る予定の平日の午後には魔術師団にいられない。いろいろ話し合った結果、王宮勤めをしている優秀な女性魔術師が、メリッサの代わりにディオの師匠をやることに決まったのだ。
「アシュードもいなくなっちゃったんだよ? あたしまで師匠を辞めるって知ったら、ディオ泣いちゃうよ。また、ディオの気持ちが落ち着いた時に話すから」
「メリッサは優しい子じゃな」
師匠は小さな子どもにするように、メリッサの頭をよしよしと撫でてくれる。メリッサはきゅっと一度目を固く瞑った後、勢いよく顔を上げる。そして、にこりと笑ってみせた。
「なんか、いきなりアシュードもディオもいなくなっちゃうから驚いちゃったけど。二人とも、幸せになるんだもんね。喜ばないと駄目だよね。あたしは元の生活に戻るだけだし! また、一人で頑張るよ!」
ぐっと両手で拳を握り、ふんふん鼻を鳴らす。師匠がほっとしたように穏やかな笑い声をあげた。
ディオの師匠になる、と宣言してから約三ヶ月。結局、弟子を独り立ちさせるまで育てることはできなかった。中途半端な結果になってしまったのは、本当に悔しい。
アシュードのことに関しても、偉そうに「アシュードは渡さない」なんて言ったくせに、何もできないまま終わってしまった。アシュードに「好きだ」と言われたのに、自分の気持ちがよく分からなくて、上手に応えることができなかった。
メリッサは何をやっても中途半端なのかもしれない。
それでも。
メリッサの傍には、まだ師匠ヒューミリスがいてくれる。親に捨てられて、孤児院に入れられて。「ひとりぼっち」だったメリッサに手を差し伸べてくれた人が、まだ傍にいてくれるのだ。きっと、これは、とても幸せなことなのだ。
「あたし、もっと、もっと頑張るし!」
いつかまた、弟子を持つことになったら、その時は絶対最後まで面倒を見る。
いつかまた、誰かに「好きだ」と言われたら、その時はちゃんと自分の気持ちを伝える。
そういうことがきちんとできる大人になりたい。
空っぽになったディオの部屋の扉を閉じる。パタンと乾いた音が、寒く冷えた廊下に響いた。
*
年末も近いということで、今日は魔術師総出で大掃除をする日である。お客様を迎える応接室に蜘蛛の巣があるくらい、ここの人たちは掃除が苦手だ。とにかく溜まりに溜まった汚れを、少しでも綺麗にしておきたい。
「先輩! もっと雑巾は固く絞って下さい! びちゃびちゃじゃないですか!」
「ええー? 水分が多い方がよく汚れが落ちそうだしー」
「あ! 埃を落とすのは上の方からにして下さいね。そう、もっと上からです!」
メリッサは先輩魔術師たちに指示を出しつつ、魔導具を磨いていた。魔術師たちは面倒臭そうな顔で、だらだらと掃除をする。
「ねえ、やっぱりこの魔術師団の建物を掃除してくれる人を雇うべきじゃない? 私たち魔術師には、こういう作業向いてないのよー」
結婚したばかりだという先輩魔術師が、雑巾をぷらぷらさせて嘆く。こんなやる気のない先輩と結婚したという相手の人を、メリッサはちょっと尊敬する。
「メリッサはこういうの得意だよね。良いお嫁さんになりそう」
「いや、そんな相手いませんから。無駄口叩いてないで、頑張ってください!」




