32:ディオが幸せになりますように(8)
じっとしていられなくなって、メリッサは自分の部屋を飛び出した。廊下を駆け抜けて、経理の部屋の扉をノックする。
「アシュード!」
「……メリッサか。どうした?」
部屋の奥にいるアシュードが、訝しげな視線を寄越す。メリッサは他の机で作業している新人たちに軽く頭を下げた後、ささっとアシュードのところまで移動した。
「ディオが、お母さんのところに帰っちゃうかもしれないの」
「……そうか」
アシュードは特に驚いた様子もなく呟いた。それから徐に立ち上がると、メリッサの手を取って歩きだす。
「後、頼むぞ」
部屋にいる新人たちに声を掛け、アシュードはそのまま部屋を出る。メリッサは手を引かれるまま、その後に続く。繋いでいる手が大きくて温かくて、なんだか安心する。そんな自分がなんとなく恥ずかしくて、メリッサは目を伏せた。
二人は魔術師団の建物の最上階にある空き部屋に入る。ここには誰もいない。
「……メリッサ」
このところ、メリッサを目にするたび赤面していたアシュード。今日はなぜか全く赤くなることなく、普通の顔をしている。いや、それどころか、渋面を作っている。
「どうしたの、アシュード。なんか、いつもと違う……」
「こんな時に言うのはどうかと思ったんだが。でも、今しかないから」
雨の音が一層強くなった。部屋の中がふっと暗くなる。
「僕がメリッサ、お前のことを好きだって言ったのは本当のことだ」
「え……」
部屋が暗くて、アシュードの表情がよく分からない。しかし、その声色は固く、言っている内容とはちぐはぐだ。メリッサはどう反応して良いのかが分からなくなり、目線を下に落とした。黒っぽい色のカーペットが、暗い部屋をさらに暗い印象に変えていく。
「でも、お前は、この僕だけは絶対にありえないと、そう言っていたらしいな。まあ、十二歳も離れているし、当然か」
「そ、そんなの、誰に聞いたの」
「クリス王子、ガント、ロイの三人から」
あのちびっこ三人組の口は、とても軽いらしい。メリッサは思わずため息をついてしまう。
「あの三人を責めるなよ。僕が無理矢理聞き出したようなものだ。でも、もう良いんだ。僕はお前を諦める。もう、お前を困らせたりしない」
「……どういうこと?」
「僕はこの魔術師団の経理を辞める。エマ様も結婚を早めたいと言っているし、すぐにでも結婚することになるだろう」
ぴかっと空が一瞬光る。窓からその光が入り、アシュードの姿がくっきりと見えた。続いて大きな雷の音。
「……ちょっと待って。なんでそうなるの? ディオもいなくなるのに、アシュードまでいなくなっちゃうなんて、そんな」
「じゃあ、お前はこの僕の気持ちに応えられるのか?」
アシュードはそう言うやいなや、メリッサをぐいっと引き寄せた。甘い香りがふわりと鼻をくすぐってくる。メリッサは反射的に身を捩った。
「……そ、そんなの、よく分からないよ! 離して!」
「やっぱり、応えられないんだろう? ……分かっていたさ」
アシュードはあっさりメリッサを手放した。そして、くるりと背を向ける。
「メリッサ、悪いな。散々僕を頼れと言ってきたが、これからはもうお前のことを支えてやれそうにない。誰か別の、本当に頼れる奴を探してくれ」
「アシュード……?」
「ディオがいなくなる寂しさを埋めるのは、僕じゃない」
また、雷が鳴った。アシュードはそれ以上何も言わず、部屋を出て行ってしまう。
メリッサはひとり部屋に残され、打ちつける雨の音をただ聞いているしかなかった。
*
「……夢」
見慣れた天井が目に入ってきた。眠りながら泣いていたのか、起き上がった途端、ぽたぽたと布団に雫が落ちた。
夢で良かった、なんて呑気にしてはいられない。なぜなら、その内容は全て現実にあったことだから。ディオの母親が訪ねてきたことも。アシュードが魔術師団の経理を辞めることも。全部、現実のことだから。
メリッサは軽く髪を梳いて、二つに結う。アシュードのくれたシャンプーのおかげで、この頃は髪の調子が良い気がする。つやつやとした黒髪が、さらりと揺れた。冷たい水で顔を洗い、泣いていた跡を綺麗に流す。
今日はディオを母親の元へ帰してやる日である。話し合いの結果、ディオは母親と共に暮らし、魔術師団へは平日の午後に魔法を習いにくることになったのだ。
「ディオ、おはよう!」
メリッサはディオの部屋の扉を開けて、声を掛ける。こういう生活も今日で終わりだ。ディオは可愛らしい寝顔でむにゃむにゃ口を動かしている。
「ディオ、起きて。今日はお母さんのところに帰る日でしょ!」
「……んむー」
ディオの体を揺さぶると、小さな口から不機嫌そうな声が漏れた。こんな声を聞くのも、今日が最後。メリッサは目を閉じて、しっかりとその声を心の中に刻み込む。
「ほら、アシュードがくれたセーター着るんでしょ?」
「きるー」
ディオが目を擦りながら起きてきた。メリッサは寝癖のついた髪の毛を、優しく撫でて微笑んだ。ディオはいきなり頭を撫でられて、目をぱちぱちさせていたが、すぐにふにゃっと笑った。
「めりっさ、おはようなのー」
朝食の後、ディオの荷物を纏める。お気に入りの絵本やおもちゃ、服などもどんどん箱に詰めていく。ディオも鼻歌を歌いながら手伝ってくれた。
作業が終わると、あとは母親を待つだけとなる。ディオは片付いた部屋を隅から隅まで珍しそうに見回っていたが、不意にぱっと顔を上げた。
「そうだ! あしゅーどに『またね』っていわないと!」
ディオはメリッサの手を取って、ぴょんぴょん跳ねながら走りだす。母親と暮らせるようになるのが余程嬉しいのだろう。ずっと上機嫌だ。
「めりっさ、はやく! あしゅーど、まってる!」
「いや、待ってはいないと思うけど……」
メリッサはそう答えながらも、少し早足になってしまう。経理の部屋に着くと、ノックもそこそこに扉を開けた。
「あしゅーどー!」
ディオが元気良く部屋に駆け込もうとして、ぴたりと止まった。きょとんとした顔で、部屋の奥を見つめている。
いつもアシュードがいた部屋の奥の机には、誰もいなかった。
「……アシュード様なら、昨日でお辞めになりましたけど」
新人が言いにくそうに、小さな声で言った。
「見合い相手の方に煩く言われていたみたいで。急に辞めることになったんですよ」
「え、でも、予定では一週間後に辞めるって……」
「それが、早まったみたいで。ああ、ディオくんとメリッサさんによろしくって言ってましたよ」
アシュードが使っていた机はすっきりと片付いている。いつも書類が山のように積み重なっていたのに、今は一枚もない。主のいないその席は、どこか物寂しい。
「めりっさ、あしゅーどは?」
「……ここには、もういないんだって。辞めちゃったって」
「ざんねん……」
メリッサは苦笑しながら、しょんぼりするディオを抱き上げた。そして、新人たちにぺこりと頭を下げて、経理の部屋を出た。ディオはメリッサにぎゅっと掴まって、ぐすぐすと鼻を鳴らし始める。アシュードに会えなかったのがショックだったらしい。
「ディオ、泣かないで。ほら、お母さんのこと考えてごらん? 嬉しいでしょ?」
「……うん」
ディオやメリッサに何も言わず去っていったアシュード。あまりの勝手さに、少し腹が立つ。こんなにディオに懐かれておきながら、さっさといなくなってしまうなんて。




