27:ディオが幸せになりますように(3)
「ああ、でも、あくまでこれはお願いだから。メリッサちゃんが嫌なら、別に言う通りにしなくても良いのだけれど」
エマの白くて長い指が、ダークブラウンのテーブルの縁をなぞる。メリッサはエマの向かいの椅子に腰掛けているのだが、なんだか落ち着かない。
「アシュード様には、秘密にしておいてほしいのだけれど」
可愛らしく小首を傾げたエマの銀髪が、さらりと流れる。濃いグレーの瞳が、メリッサを映している。くるりと上を向いた睫毛がぱさぱさと動く。
「でも、言わないほうが良いのかしら。どうしましょう」
どうしましょう、はこちらの台詞である。さっさと用件を言ってもらいたい。メリッサは無意識に前髪をいじる。数本の毛が抜けた。
「気を悪くしないでね。私も悩んだのよ。こんなこと、私の我が儘でしかない訳だし……」
メリッサは天井を見上げた。暗い焦げ茶の天井の隅に、蜘蛛の巣を見つけてしまった。魔術師団を訪ねてくる人は少ないので、掃除が甘くなっていたらしい。一応ここはお客様をもてなす応接室なのだから、後で掃除をしておこうと思う。
「恥ずかしいわね、もう良い大人なのに」
うふふと上品に笑うエマ。メリッサは心の中で、師匠に訴えたくなった。師匠はこの前、メリッサがいきなり用件から話し始めることを注意してきたが、なかなか本題に入らない人もよろしくないのではないだろうか。エマの話し方はなんだかもやもやする。
「メリッサちゃんみたいな小さな女の子相手だと、上手く話せないわね。困ったわ」
「あの!」
メリッサは耐えきれなくなって、声をあげてしまった。アシュードはいつもこののんびりとしたエマの話し相手をしているというのか。あの男、実はすごい人間なのではないだろうか。少しだけ、尊敬してしまう。
「エマさん。早くそのお願いというのを言ってくれませんか?」
さっさと話を進めたくて、冷たい言い方になってしまった。エマが眉を下げて申し訳なさそうな顔をする。なんだかメリッサがエマをいじめているみたいだ。ちょっと苛々してしまう。
「あのね、もうアシュード様に甘えるのはやめてほしいの」
「……はい?」
漸く聞き出せたエマの「お願い」。メリッサは思いきり不愉快な声で答えてしまった。
「いや、あたしはアシュードに甘えてなんかいませんけど。というか、あっちがあたしに絡んでくるんですけど」
眉間に皺を寄せるメリッサ。そんなメリッサの表情を見て、エマは困ったように笑った。
「……私、メリッサちゃんのこと、少し調べさせてもらったの。アシュード様とどういう関係なのか、気になったから。親戚の子かなと思っていたのだけれど、貴女って孤児だったのね」
「それが何か?」
「親に捨てられて、五歳まで孤児院で育った。でも、その孤児院の人を魔法で操るなんていう恐ろしい事件を起こしたのよね? 高い魔力を持っていた貴女は、運良くこの魔術師団に引き取られた。そして、何の罪にも問われず、普通に生きている」
「何が言いたいんですか」
確かにメリッサは孤児院の人を魔法で操ってしまったことがある。でもそれは、その人が孤児たちに暴力を振るおうとしたので止めただけの話である。人を操ったのは、その一度きりだ。
「私は魔法なんて使えないから。貴女みたいな子がアシュード様の傍にいると、恐くて恐くて仕方ないの。アシュード様も可哀相だわ。いつ魔法で操られるか、分からないもの」
「……あたし、アシュードを魔法で操ったりなんかしたことないです! これからも、そんなことしないし!」
思わず立ち上がって反論する。魔法を使う者は、自分勝手な理由で魔法を使ったりしない。そんなことをする人間は、精霊が魔力を奪いにくると言われている。まあ実際には、魔法を使って悪事を働いた人間には、魔力を抑制する枷がつけられるのだが。
この世界で魔法は案外自由に使えない。これは魔術師の常識である。
しかし、魔術師ではないエマには分かってもらえないようだ。
「ごめんなさいね、メリッサちゃん。でも私、本気でアシュード様と結婚するつもりなの。アシュード様にも、もちろん貴女と縁を切るように言ったのよ? なのに、彼ったら、『絶対にメリッサと縁は切らない』なんて言うものだから」
メリッサは不意に涙が出そうになった。エマの言うことに腹が立ったからなのか、アシュードが言ったという言葉が嬉しかったからなのか。どちらかなのかは分からない。たぶん、両方なのだろう。
「アシュード様も変な人よね。未来の妻になる女性のお願いも聞いてくれないんですもの。彼の良いところなんて、顔とお金くらいよね」
エマは優しく穏やかな笑みを浮かべている。メリッサはそんなエマが少し恐ろしくなった。
アシュードは確かに変な人だけど。あの男の良いところは顔とお金じゃない。いや、顔とお金も良いところなのだろうが、そこだけではないのだ。あの男はひねくれているが、意外と優しいのである。偉そうだが、面倒見は良いのである。
そういったアシュードの中身も知らないで。こんな人にアシュードを取られるなんて、冗談じゃない。アシュードの隣に立つのは、ちゃんとアシュードのことを理解している人であるべきだ。メリッサは背筋を伸ばし、エマを見据えた。
「あなたみたいな人に、アシュードは渡さない。絶対、絶対、結婚なんてさせないんだから!」
「あら、恐い。魔法で操るつもりなのね」
「こんな程度のことで魔法なんて使わないし。魔術師を舐めないでよね!」
勢いよく言ってのけたメリッサに、エマはくすくすと笑いを漏らす。どこか余裕ぶった笑いだ。
「メリッサちゃんみたいな小さな女の子には、無理だと思うけれど……」
この人は敵だ。メリッサはこの人だけには負けたくないと、拳を強く握る。アシュードには悪いが、この話、破談にしてやる。メリッサの紅い瞳に、熱い闘志の炎がめらめらと燃えあがった。
*
とは言ったものの。学校に行くか行かないかで微妙な関係になってしまったアシュードに、どう話をすれば良いのか。メリッサは頭を抱えていた。
エマの突撃から二週間。あっという間に十月も終わろうとしていた。
「めりっさ、どこかいたいの?」
悩みすぎてぐったりとしているメリッサに、ディオが心配そうに声を掛けてきた。この子は本当に良い子だ。可愛い。
「ううん、痛くはないよ。心配してくれて、ありがとね」
「でも、げんきないよね? あしゅーどとあえないから?」
この二週間、アシュードは忙しいらしく、あまり顔を見せていない。時間が経てば経つほど、エマの話を切り出すのが難しくなっていくような気がする。
「ううう……アシュードめ……」
地を這うような声で唸ると、ディオがおろおろしはじめた。小さな手のひらで必死にメリッサの頭を撫でてくる。慰めてくれているらしい。可愛い。




