2:この人には傍にいてほしい(2)
数日後。メリッサは経理担当のいる部屋の前に立っていた。手には経理に提出するように先輩から押しつけられた書類が握られている。
ゆっくりと深呼吸をして、扉をノックする。部屋の中から「どうぞ」という声がした。メリッサは扉を開けて、おずおずと部屋の中を覗き込んだ。
「ああ、メリッサか。何をしている。早く入れよ」
「……アシュード!」
噂で新しい経理担当が入ってきたとは耳にしていたが、実際にこの目で見るまでは信じまいと思っていた。しかし、そこにいるのは確かにメリッサのよく知る男だった。部屋の奥にある机で、大量に積み重なった書類と格闘している姿に、つい、ほっとしてしまう。
「本当にここにいるとは思わなかった。断るかもって言ってたし」
「僕にとって、かなりの好条件を引き出せることになったからな。……で、何だ? 僕の素晴らしい仕事ぶりでも観察しにきたのか?」
「そんな訳ないし。書類を出しにきただけだし」
手に持っていた書類を突き出すと、アシュードは一瞬眉を跳ね上げたが、すぐにその書類を受け取った。
「魔導具の購入申請書か。……分かった」
アシュードはひとつ頷いて、引き出しの中から判子を取り出した。そして、ぽんと判を押す。
「……え? 良いの?」
「ん? 何がだ?」
「だって、今までの経理担当の人は、すぐに判子なんてくれなかったから」
判の押された書類を受け取りながら、メリッサは首を傾げる。
「あれ? そういえば、他の経理の人は?」
「……あいつらは、とりあえず謹慎中だ」
「謹慎……?」
どうやらこれまでの経理の人間は、まともな仕事ができていなかったらしい。魔術師団に与えられた予算を勝手にごまかしたり、横領したり、とやりたい放題やっていたようだ。
「はっきり言って杜撰すぎる。あんな奴らはいない方がましだな」
「そうなんだ……」
「そんなことより、メリッサ。お前、他の魔術師たちと上手くやれていないみたいだな」
メリッサはびくりと体を震わせた。口を噤み、アシュードから目を逸らす。
確かにアシュードの言う通り、メリッサは魔術師たちから距離を置かれていた。親しい人間なんていらないと、周りに冷たい態度ばかりとってきたからだ。でも、それは自分で選んだことだ。放っておいてほしい。
というか、冷たい態度をとり続けているのに構ってくるアシュードのような人間が稀なのだ。
「仕事にも支障が出ているんじゃないのか? 大体その書類だって、わざわざお前が持ってこないと駄目なものでもないだろう」
「……アシュードには、関係ないし」
メリッサは床に視線を落とし、スカートを握り締める。書類も一緒に握ってしまったため、くしゃりと小さな音が鳴った。
「……泣いているのか?」
「そんな訳、ないし」
そう言って唇を噛み締めると、目頭が熱くなる。そんなメリッサに、アシュードは小さくため息をついた。そして、ポケットの中から包みを取り出して、メリッサに差し出す。
「まあ、これでも食べて元気を出せ」
やけに可愛らしいデザインの包みを手のひらに乗せられて、メリッサは涙を引っ込めた。
「いちご味のマカロン? 今の季節にはなかなか手に入らないやつ!」
「高かったんだぞ、それ。大事に食べろよ」
アシュードに頭をぽんぽんと撫でられる。小さな子どものような扱いにメリッサは少し頬を膨らませたが、マカロンを口にするとすぐに機嫌は直った。
「うん、おいしい。さっきの失言については許してあげる」
「お前、本当に可愛くないな」
アシュードが渋面を作り呟く。そこに、扉をノックする音が響いた。「どうぞ」とアシュードが入室を促すと、白髪頭に長い髭の老人が入ってきた。朗らかに笑っているこの老人は、魔術師団長のヒューミリスである。メリッサの師匠でもある人だ。
「魔術師団長。何か?」
「ワシの可愛い弟子が『可愛くない』と言われた気がしてな」
「……地獄耳」
「ん? 何か言ったか、アシュード」
「いえ、何でもありませんが」
メリッサはアシュードと師匠の何とも言えないやり取りを傍観する。とりあえず、マカロンがおいしい。メリッサは甘酸っぱいものが好きだ。いちご味は特にお気に入りで、いくつでも食べられる気がする。
「メリッサ、アシュード。今日は二人に頼みたいことがあるんじゃよ」
「あたしとアシュードに?」
メリッサは首を傾げて、師匠ヒューミリスを見る。師匠はメリッサと目を合わせ、にこりと微笑んだ。
「東の方にある小さな町で、奇妙なことが起きているらしいんじゃ。町の人が何者かに操られているのではないか、と。今朝、連絡があった」
「……魔法が悪用されているということ?」
「じゃろうな。魔術師団としては、一刻も早く調査に向かい、事態を収めなくてはならん。二人とも、行ってきてくれるかの?」
このメイフローリア王国で魔法を使えるのは、王族や上位貴族といったごく一部の人間だけだ。そういった人間は、魔力があると分かった時点で、魔法の使い方を徹底的に教え込まれる。魔力が強すぎる子どもに対しては、魔力抑制装置をつけたりもするのだ。だから、ほとんどの貴族は子どもに魔力があるかどうか、生まれてすぐに確認する。
しかし、稀に平民の子どもが魔力を持って生まれてくることがある。平民は魔法に対しての知識をあまり持っていないのが普通だ。そのため、魔力を持って生まれてきた平民の子どもは無自覚に魔法を使ってしまい、時に大事件を引き起こしてしまう。そういった事件を解決しに走るのが、魔術師団の大切な仕事のひとつなのだ。
「今回も犯人は子どもなのかな?」
「おそらく。しかも、かなり強い魔力の持ち主じゃろうな。他の魔術師では抑えることができんかもしれん。……メリッサ、頼りにしておるぞ」
「うん、分かった。行ってくる」
こくりと頷くと、アシュードを見遣る。アシュードは眉間に皺を寄せ、考え込んでいた。
「それは僕も一緒に行って良いものなのか? 僕は魔力なんてほぼないようなものだから、何もできないぞ」
渋面のまま、アシュードは腕を組む。師匠ヒューミリスは、そんなアシュードににこりと笑いかけて言う。
「メリッサがこの魔術師団の中で信頼している人間は、ワシとアシュードくらいじゃ。今回ワシは少し忙しくて一緒には行ってやれん。しかし、十五歳の可愛い女の子をひとり行かせるのも心配じゃ。そうなると、必然的に一緒に行くのはアシュード、おぬしになるじゃろう?」
「いや、ちょっと待って、師匠。それじゃ、あたしがアシュードのこと頼りにしているみたいに聞こえちゃう。大丈夫、あたしひとりでも立派にやってみせるし」
熱くなる頬に動揺しつつ、メリッサは訴える。しかし、そんなメリッサを見て、アシュードが偉そうにふんぞり返った。どことなく機嫌の良さそうな、それでいてすごく意地が悪そうな笑いを浮かべている。
「そうか。僕しかいないのなら仕方ない。ふっ。この僕が! 一緒に行ってやろう!」
「お断りだし!」
メリッサは真っ赤になって、アシュードの鳩尾を目掛けて拳を繰り出した。しかし、その拳はあっさりと捕まってしまう。アシュードは捕まえた拳をそのままぐいっと引っ張って、自分の方に引き寄せた。