杏姫に仕えた日々
「公爵家で働く事は名誉なことだが、いい加減に帰ってきなさい。」
「女の幸せは結婚して子供を産んで、家のために生きることよ…。」
最近、親から届く手紙に頭が痛くなる。
商家の娘として生まれて、確かに私は一般の家より少し裕福だった。小さい頃から祖父母や両親達から毎日のように、将来は家のために嫁いで子供を産みなさいと言われてきた。
最初は、頷いていた。「分かった」と答えると大人たちは嬉しそうに笑ってお菓子や玩具をくれたから。
でも段々とおかしい事に気づいた。自分の人生は自分で決めるべきではないのかと、そう思ったらこの家での生活が嫌になった。
親になんとか頼み込んで、仕事をさせて貰えることになった。多分親としてはさっさと嫁いで欲しいが、最低限の常識を身につけることが出来ると思い許可したのだろう。
「マクレーン公爵家には2人のお嬢様がいるわ、どちらかの侍女になりなさい…家のためにも公爵家の方々に気に入られて来るのよ…。」
少しの間だけど自由を勝ち取ったことが嬉しくて、親の言葉はあんまり頭に入ってこなかった。
この家はとにかく息苦しくてたまらなかった。
マクレーン家の方々はそこらの貴族とは違う雰囲気があった。御主人は十数年前から続く大きな紛争をあっという間に収束させ、褒美として第3王女であった現在の奥様と結婚された。
お二人共とても美しい方で、気品溢れる佇まいを感じさせる。初めての仕事の緊張から目を合わせるのも恥ずかしくなってしまって、せっかくご挨拶に来てくださったのにご迷惑をかけてしまったのは今となってはいい思い出である。
「初めましてリリィよ!キャシーというのね!頑張って!!」
金色の長いふわふわとした髪、宝石のように輝く黄色の瞳、少し赤い頬、大きくて丸い瞳をキラキラとさせて私を見つめる姿は、一瞬天使が現れたのではないかと思っても過言では無いほどに美しかった。
「初めましてリリィお嬢様、よろしくお願いしますね。」
にこりと笑って返事をすると、天使は表情をふにゃりと緩ませて、愛らしく笑い返してくれた。
「まぁリリィ、キャシーとお話していたのね。キャシー貴方には次女の世話を任せます、詳しい仕事の内容は侍女長に聞きなさい。」
奥様がやってきて私にそう告げた。
ーーー次女というと、リリィお嬢様の妹であるお方。入ったばかりなのにもう部屋付きの侍女になれるなんてどうして…?
「キャシーいいなぁ!私の妹のアンのお世話をするのね!!私はなかなかアンに会えないから羨ましいわ!」
(…?姉妹なのに中々会えない?身体が弱い方なのかしら?)
「私が仕えるお嬢様はアンお嬢様というお名前なのですね。」
「ええそうよ!とてもいい子なの!!優しい妹なの!…………ねぇキャシー、あのね…だからね。」
先程までの天使のような笑顔を少し曇らせるとリリィお嬢様は、私に近づいて耳元でそっと呟いた。
「アンを虐めないでね…。」
「リリィお嬢様……?」
………虐める?公爵家のご令嬢であるアンお嬢様を?雇い主の大切なお子様であるお方を?自分よりも幼い子供を???
突然の事に頭がパニックになった、わけが分からない。
リリィお嬢様は、驚いている私の姿に何故かほっとしたように胸を撫で下ろすと
「……貴方はそんな事しないって信じてるもの!」
と言い、遠くから名前を呼ぶ奥様の元へと走り去っていった。
その後侍女長に事情を説明すると、一瞬驚いたような表情をしたが、いつものように冷静を取り戻し、眼鏡をくいっと持ち上げて仕事について説明をしてくれた。
「………これで以上ね。何か質問はありますか?」
「アンお嬢様はどのようなお方なのでしょうか?」
「………そうね、あってみれば分かります。」
質問に対する返事としては不適切なような気もしたが、確かにこれからアンお嬢様のお世話をするにつれて理解していくことなのだから不必要なのだろう。
「わかりました、失礼致します。」
「………キャシーさん。」
「はい?侍女長どうされました?」
「貴方の同僚や先輩方に……何を言われても本気にしないでください。貴方の仕事はお嬢様が健康に育つお手伝いなのですから。」
侍女長はそう言うと、少しだけ悲しそうな顔で私から目を逸らした。
お嬢様のお部屋に向かう、屋敷の構造をまだ理解していないけど分かることがある。
「公爵家のお嬢様が過ごすにしてはおかしいのよね…部屋の場所が。」
先程までいた、豪華な屋敷から少し離れたところにある別棟にお嬢様のお部屋はあると言われたが、はっきり言って私の部屋の方が綺麗なのではないかと思うほどに、貧相で埃まみれの建物だった。
「変わり者のお嬢様なのかしら…?」
指定された部屋の前に来ると、大きく息を吸う………が運悪く埃も一緒に吸ってしまい、ゲホゲホとむせてしまった。
(やらかしてしまった!私ったら本当ダメなんだから…!!)
口元に手を置いてむせこむ、咳のしすぎで涙が出てきた。
「……!?どうなされましたの??」
突然扉が開いた音がしたかと思うと、可愛らしい声が聞こえてきた。
「ゲホゲホッ!!申し訳ございません!ゴホッ!しばしお持ちくださ…ゴホッゴホッ!!」
ようやく咳が止まり、目を開けて下を見るとそこにはとても幼い女の子が私をじっと見つめていた。
リリィお嬢様と同じ金色の髪、リリィお嬢様と違って真っ直ぐなストレートの髪はちゃんとお手入れしていなかったのか毛先が傷んでいる。栄養が足りていないのか髪はパサパサとしていて、肌も青白く、体もひょろりと不健康にやせ細り、着ている服も少し汚れている。
…伸びた前髪が邪魔で表情が隠れているから今、どんな表情をしているか分からない。
(…………まさかこの子が公爵家のお嬢様?リリィお嬢様と違って酷い扱いを受けているの!?前の侍女は?何をしていたの……??)
呆れて声が出ない、お仕えするお方に……幼いお嬢様にこんな仕打ちをするなんて…屋敷の人間は知らないふりをしていたの?奥様と旦那様は??自分の子供がこんな目にあっているのに…。
「……ねぇ?大丈夫………??」
お嬢様は、か細い声で心配するように尋ねてきた。むしろこちらの方がそれを言いたい…貴方は大丈夫かと、大丈夫には全くもって見えないけども。
ーーー次女の世話を任せます。
奥様はお嬢様の名前を言わなかった、このお嬢様は親に愛されない子なのだろう…初対面の私を心配してくれる心優しいこの子を助けてあげたかった。助けられるのは私しかいないと思った。
「初めましてアンお嬢様、私はキャシーです。今日から貴方の侍女になりました…私は貴方の味方です。貴方に酷いことは絶対にしないとお約束します。」
気づけばお嬢様に目線を合わせるように屈んで、少しでも力を入れれば折れてしまいそうな手をそっと優しく包んでいた。
目から涙が溢れてくる、彼女は今までどれほど苦しい思いをしてきたのだろうと思えば、怒りや悲しみが心の底から溢れてくる。
「………やくそくしてくれるの?」
「はい、お約束です。キャシーは嘘が嫌いですので絶対に嘘はつきません!嘘をついたら針を1000本飲みます…!」
「…!痛いわ…それは痛い………そこまでしなくてもいいのよ?」
両手で口元を抑える姿は可愛くて、私はアンお嬢様のことが大好きになった。
それから大変だった、とにかくお部屋を綺麗にして、お嬢様に必要な栄養と生活物品を揃えた。周りの同僚達からは御主人様も奥様もあのお嬢様を見ることは無いから適当でいいのにと変わり者扱いされたけども、私はそんな人間になりたくなかった。
お嬢様も体を崩しやすく大変だったが、段々と元気になっていった。
金色の髪は光るように輝き、肌も赤みを取り戻した、まだ細いけども栄養も足りてきて……何よりお嬢様の可愛いらしい赤褐色の瞳が嬉しそうに私を映し出す瞬間が大好きだった。
「キャシー、見てちょうだい。」
年齢の割に落ち着いているお嬢様だけど、毎日新しい世界に触れていく事を喜んでいる姿は可愛らしくて私の自慢のお嬢様だった。
………でも、奥様も旦那様もアンお嬢様を見ることは無かった。お嬢様は何も言わなかったけども常に両親からの愛を求めていた、何度無視されても拒まれてもひたすらに愛を求める姿は見ているこちらが苦しくて堪らなかった。
「お願いです奥様!お嬢様が熱で魘されているんです!会いに行ってあげてください!お嬢様もきっと元気になります!!」
お嬢様は熱を出す度に、泣きながら「おかあさま、おとうさま…」と両親を呼び続ける。
お嬢様自身は覚えていないのかもしれないけども、私はとても心が痛くなる、普段から我儘も言わず、寂しそうな表情で幸せそうに笑う家族を遠くから見つめるお嬢様は弱った時にしか本当の心を表さない。
「そう、暇があればそちらに向かうわ。貴方もこんな所に来るくらいならさっさとあの子の看病に戻りなさい…。」
冷たくてなんの感情もこもっていないような声に驚く、自分の産んだ娘が苦しんでいる時にさえ、このお方は気にもしていないように答えるのだから…。
実家から帰ってくるようにとの催促の手紙が来る頻度が増えた、お見合いの写真も添えて来ることが多くなり嫌になる。
アンお嬢様も察したのか、私の婚期などを気にしだした。本心で私の未来を案じてくれるお嬢様の目を見ると、やはり1人にすることが出来ない。
それでもその日は強引にやってくる、突然奥様に呼び出された時何となく何を言われるか分かっていた。
「今までありがとうキャシー、貴方のご実家から辞めさせるようにと連絡が来たの…ごめんなさいね。」
「………いいえ、私はアンお嬢様にお仕えできて幸せでした。今までありがとうございます。」
騎士として働く忙しい旦那様に代わって屋敷をとりしきる奥様からの言葉は絶対である。
アンお嬢様の元へと帰る途中、悔しくて堪らなかった。どんな顔をしてお嬢様に会えばいいのだろうと思った。
お嬢様の顔を見る度泣いてしまった私をお嬢様はそっと抱きしめて、背中をさすり続けてくれた。
「幸せになってね、大好きよ」
屋敷を出る日、お嬢様を抱きしめた。小さなお嬢様の肩は少し震えていて、私はお嬢様を1人にしてしまう罪悪感でいっぱいだった。
馬車に乗ると堪えていた涙が勢いよく溢れ出した。窓の外を見るとお嬢様はずっとこちらを見つめていた。今にも泣きそうな顔でずっと見つめている。
「………私は、約束を破ってしまいましたね…。」
実家に帰ると親はもうお見合いの準備を進めていたが、私はそれを強引に突っぱねた。呆れた親を無視して商会を開き、商家の人間として得た知識、公爵家で学んだ経験をフル活用して働いている。最近はやっと軌道に乗り下町では人気になっている。
それに、海沿いの街で交易品を取り扱う店を経営している旦那と結婚してそちらの方に移り住んだ。
親からは勘当を言い渡されたが気にしていない、家で唯一の味方の兄にお嬢様の事を託した。私は私にできる方法でアンお嬢様の未来の幸せを守ろうと思う。
奥様が亡くなったことは、大きな話題になっている。アンお嬢様が心配でたまらないけど、今はまだ会いに行くべきではない気がしている。
アンお嬢様から預かったと兄が手紙を渡してきた。
たった1文だったけど、思わず顔が緩んでしまった。
「針1000本飲む必要はないわ。」
ねぇ、お嬢様。私はもう貴方の侍女ではないけども、ずっと私は貴方を心からお慕いしております。貴方のおかげで私はこんなにも強く、幸せになることが出来ました。
磯の匂いが漂う、素敵なこの街にいつかお嬢様を連れてきてあげたい。
ーーーすうっと大きく息を吸う。あぁ…やっと私は、息ができる。