くらげは昼の空に舞い上がる ３
しかしよく見れば、少年が着ている服の型や刺繍などに見覚えがあった。
薄暗くて今はわからないが、色は濃緑だろう。レーヴェンスの騎士の装いだ。
では別口の用件で、こんな場所へ来た騎士だろうか？
とにかく彼を説得しなければ、この場から王都へ連れ戻されそうだ。なにせたまたま見かけた民間人を、不審に思って追いかけてくるような人だ。
王都へ戻ればすぐ魔術師ベルタに捕まる。それだけは勘弁してほしかった。
だから即席の嘘を口にする。
「えと、国境の近くに親戚がいるんです。戦場が近づいて危ないけど、病気で身動きするのも大変な人なので、避難の手伝いに行く途中だったんです。そしたらこの町の近くで、荷物を人に全部とられてしまって……」
これで荷物も何もない状況だということも、既に避難させたという町にいる説明もつく。
「ここまでは馬で？ 他の村から来たにしても、女一人で旅ができる状況じゃないだろう？」
少年は、すぐに騙されてはくれなかった。
「その……。同じ村の人だったんです。自分も同じ方向の親戚をたずねるから、途中まで連れて行ってやるって。だけど」
説明しながら、ユーディットはさらに考える。
言葉だけでは足りないかもしれない。ならば他にどうするか。普通こんな状況になれば、普通の女の子なら涙の一つも出てくるのだと思う。
が、ユーディットはなかなか泣けないのだ。父の死を知らされた時から、小指をぶつけたってなかなか涙が出てこない。
（何か、何か泣ける思い出はなかったっけ）
必死に思い出す。
父親との思い出は、心が温かくなってしまってダメ。母親との思い出は小さい頃すぎて、霞んでよく覚えていない。
悩んだ末に、ユーディットは近所に棲んでいた猫が亡くなった時のことを思い出した。
白黒のノラ猫で、飼ってやろうとすると逃げてしまう。
けれど餌だけはねだりにやってくる、ぶすくれた顔をしていたものの可愛い猫だった。
父親のいた部隊が全滅したと聞いた時も、むすっとした顔でやってきて、珍しく逃げずに一晩側にいてくれた。
ユーディットが泣けないかわりか、ほんの一粒だけ涙をこぼしてくれて。
宝石みたいな透明な雫がほろりと落ちる様子に、初めて猫が泣くのを見て、胸の痛みが少しだけ和らいだのだ。
けれど数日後、王都を逃げ出す人々の馬車にひかれたのか、道ばたであの猫の遺骸を見つけて――。
「おい、泣くな」
目の前の少年が慌てはじめたので、ようやくユーディットは自分の目が潤んでいたことに気付く。
涙がこぼれるほどにはならなかったけれど、それでも少年相手には十分だったようだ。
少年はおろおろとしながらも、ユーディットを立ち上がらせようとした。
「とにかくここにいても仕方ない。俺と一緒に、部隊が逗留してる家がある。そこに来い。朝までは保護してやるから」
ぐいぐいとユーディットの腕を引く少年に、彼女はうなずいた。
そして心の中で名前すらつけることができなかった猫に感謝した。ありがとう。おかげで宿の心配はなくなった上、疑いも消えてくれたみたいだ。
「とにかく乗れよ」
先に馬上へと戻った少年がそう言ってくれた。どうやら馬に乗せてくれるらしい。歩き回った上、全力疾走したユーディットには有り難い申し出だ。
が、不意に少年は気付いたらしい。
「ああ、もし乗れないなら手伝う」
一般庶民はあまり馬には乗らない。乗る機会もない。農耕馬を持つ家や牧場主ならば別だろうが。
それに気付いた少年が降りようとしたのだが、ユーディットが止める。
「大丈夫」
一言答えて鞍を掴み、少年が足を外してくれた片方の鐙を踏み台にして、馬上に横座りする。
少年が馬を歩かせ始める。
「馬に乗れるのか？」
「歩かせるのがせいぜいで、走らせるのは無理です」
なにせ子供の頃に数度乗った程度なのだ。兵士だった父親の上役らしい騎士が、戯れに自分の馬に乗せてくれただけで、まともに訓練したわけでもない。
その話をすると、少年はユーディットに触れないよう気を付けて手綱を操りながら尋ねてきた。
「そうか、父親が兵士なのか。ではその父親は……」
「国境の戦いで、わりと初めの頃に部隊ごと全滅したので」
「…………そうか」
少年は暗い声で相づちをうつ。
「それでは、一人で行くしかなかったか」
「あなたは、この町の避難状況を調べに来たんですか？」
先ほど、自分の部隊が別の場所にいると言っていた。そこにユーディットを保護してくれるとも。
「俺は、後方部隊から外されたんだ」
ちらりと振り返れば、少年は歯がゆそうな表情をしていた。
「せめてと思って、戦場に近い場所から順次、住民を避難させてる。後は陛下が移民を受け入れてくれるよう、隣国へ要請している件が上手くいくのを祈るしかない」
「要請、してるんだ」
確かに、このままでは王国が滅ぶ。
王国の端へ逃げても、隣国に虐殺される不安はぬぐえない。
魔術師に対抗できないのなら、人々を助けるために王自らが足掻いてくれているのなら、滅び行く国の運命に一筋の光があるように感じられた。
「そういえば、うちの国って、敵国に対抗できる魔術師っていないんでしょうか」
王様のことを知っているのだ、きっと魔術師のことも詳しいだろうと軽い気持ちでユーディットは尋ねた。
「魔術師はいくらか居るが……。敵国の術は強力だからな。俺の兄上でも、さすがにどうにもできなかったんだ」
少年は悔しげな表情のままだったが、ユーディットは驚く。
「お兄さんは魔術師なんですか？ すごい人なんですね」
ジークリードの魔術師になる方法、の話を聞く限り、少年の兄も過酷な体験をしたはずだ。
すると少年は、嬉しそうでいてそれを隠したがっているような笑みを浮べた。
「ああ。兄は……王太子ジークリードなんだ」
ユーディットは自分の耳を疑った。
「……は？」
