くらげは拾得物に含まれます 2
煉瓦造りの集合住宅にたどりついたユーディットは、三階の自宅へと階段を駆け上る。
扉を開けて中に入ると、腕も広げられない狭い玄関で、まだ布に吸われていない肩の雨粒を払い落とした。
そして中に入って急いで着替える。
濡れたままにして風邪をひいても、診てくれる医者もほとんど逃げてしまって居ないのだ。
一瞬、熱でぼんやりしたまま『その日』を迎えるのもいいかもしれないなんて思ったが。
人ではなくなったせいか、魔術師の前進速度は遅く、王都まで来た頃には風邪が治って爽快な気分になっているかもしれない。
ユーディットは寝台へぼてっと転がる。
そして天井を睨んでいたユーディットだったが、不意に袋が斜めに傾ぎ、こぼれ落ちてきたものに目を止める。
「そうか、本」
これは衛兵に届けなくてはならない本だ。こんな立派な装丁の本なら、かなり高価なはず。
でもふいに、本を読んで過ごすのもいいとユーディットは思いつく。
そしてなにげなく枕の横に落ちた黒い本を手に取り、今日の暇つぶしにと中身に目を通し始めた。
本の内容は、少し奇妙なものだった。
***
それは魔術が忌まれていた時代の話。
ある魔術師が、国を滅ぼそうとしていた。生きとし生ける者全てを光に変えてしまう術で。
騎士アーベルは、そんな故国を救うために遙か北へと旅立ち、暗い山道へと分け入った。
そこは聖山フォルクレス。
彼は山頂に棲むという、賢者の知慧を得ようとしていたのだ。
故国では魔術が忌まれていたせいで深い知識を持つ者はなく、他国の魔術師達に故国を救う手助けを頼むも、力不足だからと全て断られてしまった。
しかしアーベルの願いを断った中の一人が、彼自身が魔術を得る方法を教えてくれたのだ。
それが聖山フォルクレスの賢者に会うことだった。
やがてアーベルの青い瞳に、闇に包まれた森の中に灯る、小さな明りが見える。
近づけば、そこには大樹の下に座る老人がいた。薄汚れたフードから、白い髭だけがのぞいていた。
「ご老体にお伺いしたいのですが、この山の頂には……賢者がいるというのは本当ですか」
尋ねたアーベルに、老人はうなずくことはなかった。
「お前は何を求めて来た?」
逆に問われ、アーベルはしばらく考えた。
それを尋ねるということは、賢者がいるからだろう。
「僕は、光の魔術を止める術を求めて来ました」
「それは魔術でしかなしえないことだ。お前は魔術を求めるのか」
「……必要とあれば」
アーベルもまた、今まで魔術を使う人間を避けて生きてきた。だから抵抗はあるが、故国を……家族や友人達を救う方法がそれしかないのなら、迷う必要はない。
「お前の求めるものは、この山の頂きにあるだろう。そこへ至る道へ行くには、まず覚悟を見せよ」
「覚悟を?」
「魔術を得ることは、人の世から外れるのと同じ。その決意を見せよ。お前の求めるものを得るために、己を捨てる覚悟があることを証明するのだ」
ゆらり。
老人の背後にあった木が、蛇のように枝を唸らせはじめる。
枝の先端は鋭く、やがて鎌首をもたげた蛇が襲いかかるように、アーベルの胸に向かって飛び込んできた。
胸に衝撃を受ける。
息が詰まるような感覚とともに、アーベルの視界が真の暗闇にとざされる。
「僕は……殺されたのか?」
戸惑う彼の耳に、老人の声が届いた。
「闇を感じよ。絶望の果てにあるものを見いだせ、さもなくば闇に飲まれるだろう、二人とも」
***
「え? 二人……?」
本の中にでてきたのは、騎士アーベル一人だけだったはず。
ユーディットは目を開いた。
そこでようやく自分が眠っていたことを自覚する。
例の本は開いたまま、枕元に投げ出されていた。どうやら、読みかけたところで眠ってしまったらしい。
ということは、直前まで読んでいたように錯覚していたのは夢だったようだ。
「ていうか、山登る前に殺されるってどんな話? あーあ」
上半身を起こし、大きく伸びをしたユーディットに、同意の声がかかる。
「確かに僕も刺されるとは思わなかった……けど、登るためには逆らっちゃいけないんだよね。ちょっと面倒」
ふうっとため息をつく人を見て、ユーディットは寝台の端まで一気に退いた。
だってありえない。
扉はきちんと鍵をかけた。雨が降っているから窓も開けていない。
だというのに、金糸銀糸が目に目映い緋色の服をまとった琥珀色の髪の青年が、部屋の中にいるのだ。
煉瓦をむき出しにしてると寒いから、端切れで作った手製のタペストリーを壁に掛けた部屋の中、あきらかに高級な服を着ているその人は……激しく周りの光景から浮いていた。
「だっ、だだだだ、誰っ!? なんで、どうして、うちの家に入ってるの!」
叫ぶと、青年は驚いたように目を見開く。
それが本当に「なんでそんなこと言われるんだろう」と、不思議そうな表情だった。
しかも青年の顔が夢の中の騎士アーベルにそっくりだったから、ユーディットはなんだか悪い気がしてしまう。
自ら魔術師になってでも家族や友人を救いたいという騎士アーベルに、自分を重ね合わせて感情移入していたのだ。
そんな気の毒な人を、傷つけてしまったような妙な罪悪感が湧いた。
一方の青年は、ふと辺りを見回してようやく得心した表情になる。
「ああ、そうか。そういう術だったんだ。やだなぁ、僕の行動どこまで読まれてたんだろ。でもまぁいっか、うん」
「ちょっ、自己完結する前にこっちにも説明して! っていうかアンタ誰!?」
どうやら青年は状況を把握しているようだが、ユーディットの方はさっぱりだ。
説明しろと彼女が訴えると、青年はうんと頷いてほほえんだ。
「助けてくれてありがとう。僕はジークリードっていうんだ」