くらげは闇を捕食する 2
「たぶん、これが最後だと思う」
本の中でユーディットを迎えてくれたジークは、手をひいてユーディットを先へと導く。
その手は温かくて優しい。
けれどその先へ進んでも戻っても、彼の手はいつか冷たく変わってしまうのだ。
「騎士アーベルは、闇と同化する……ってどういうこと?」
ユーディットは本の中に入るために読んだ一節を思い出した。これから起るのは、その同化だろう。
「なんだろうなぁ。闇になる体験でもするのかな?」
ジークは本の中に入る前のことが嘘のように、元のふわんとした雰囲気を取り戻していた。
けれどユーディットが心の波に耐えきれずに手をつよく握れば、彼も応えるように力をこめてくれる。
それが嬉しかった。
同時に哀しい。
こんな風に手を握ってほしいと思うのは、父以来だった。側にいなくなったら、自分はどうなるんだろうと考えると怖い。
ユーディットは父が死んだ時の事を思い出した。
知らせに来てくれたのは、お城の伝令の人だった。
聞いた後しばらくの間、扉を開けたまま呆然としていた。いつ伝令の人が去ったのかも覚えていなかいほど。
その後、とりあえず扉をしめて、ソファに座った。
それから父の使っていた部屋を見て、もう誰もその部屋を使わなくなるんだと思うと、寂しさと怒りがこみあげて。
復讐したいと思った。
けれど伝説の炎妖王の魔術師を自分が倒せるわけがない。
――わたしにできることって何?
何もない。
そう気づいてからは、ただ運命の日を待つだけの毎日だった。その日がきたら、もう寂しい思いはしなくてよくなるから。
また寂しくなるんだろうか。それだけで済むのだろうか。
「ねぇジーク」
ふと周囲を見回せば、既に辺りは闇に沈んでいた。
「え……」
鼻の先も見えない闇。ジークの姿も見えず、ユーディットは焦った。
が、足を止めると手をひかれた。
「手、つないだままだった」
ユーディットは良かったと思った。でなければ一人きりにされてしまうところだった。
まだ、ジークは傍にいてくれる。
「すごい暗くなっちゃったね。これが闇と同化するっていうこと?」
話しかけたユーディットだったが、いつまで経っても返事がかえってこない。
「ジーク? ジーク聞こえてる?」
不安になって、ついジークの手首をつないでいなかった左手でつかむ。するとジークは握る手に少し力をこめてくれた。
確かにジークはそこにいる。
(落ち着け、落ち着け……)
ユーディットは深呼吸をした。
これは魔術書の試練だ。
今までもジークと一緒に乗り越えてきた。今度のは闇に同化すると言っていたから、こんなふうにジークの姿が見えないのだろう。声が聞こえないのも、関連した作用に違いない。
とにかくユーディットは歩くことにした。
ジークが手を引いてくれているのだから、道の心配はしなくてもいいはずだ。
しばらくはそうして耐えた。
けれどだんだんと不安になる。
いつまで経っても晴れない闇。聞こえない声。
そのうちに、本当にこの手を握っているのはジークなのか、疑いそうになる。
もし全く別な人の手だったらどうしよう。そう思うだけで、指先が震えた。
「なんかもう、だめ」
どうにかしてジークの手の先だけでも見えないだろうかと、ユーディットは掴んでいた手を引き寄せる。腕を抱きしめるようにして頬が触れるほど近づいても、何も見えない。
恐い。
だんだんと足まで震えてきたユーディットは、次の瞬間はっと息をのんだ。
抱えたジークのはずの腕が、ぼんやりと光っていた。
白く、時々赤や青の色が混じる光は淡く、この闇に勝てないのか彼の腕そのものは服すら見えない。けれど輪郭が浮かび上がっていた。
どこかで見たことのある光り方だ。
「くらげだ……」
闇夜に、こんな風に光るくらげの群れを見たことがある。星空に浮かぶ光るくらげは、少し悔しいくらいに綺麗だった。
しかしくらげのように光ってみせようなどと考えるのは、ジークしかいない。
ユーディットは思わず吹き出してしまう。
傷ついて、だから孤独を消せなくて、でも自分で自分をそれに気付かないように変えてしまった、家族を愛している優しい人。
声も聞こえないけれど、そのゆったりと明滅する光がユーディットを心配しているように見えた。
「うん……大丈夫」
傍に居るんだと信じ直すことができたユーディットは、光るジークに答えた。
そうしてから、もしかすると彼も自分の声が聞こえないかもしれないと気づく。
ジークのおかげで平気になったと、伝えたい。
でも手を握るだけでは、不安になったときと同じだからジークにはわからないだろう。
その時思い出したのは、馬車の中でジークが指先に口付けたことだった。
どうせ暗いからと思うからだろうか。恥ずかしいとは思わなかった。
ユーディットはそっとジークの手を持ち上げ、彼がそうしたようにゆびさきに口づける。
ジークの手が、驚いて震える。
うっかり離してしまったら、見つけられない。そんなのは嫌だったから、しっかりと掴んで離さないようにする。
でもすぐに彼は驚きを治めたようだった。そっと、手を、腕を辿るようにしてユーディットの輪郭をかくにんするように肩を撫で、そして抱きしめてくる。
何度も感じてきたジークの暖かな腕の中に、ユーディットは泣きたい気持ちが湧き上がった。
(どうしよう)
ユーディットは今になって苦しさの意味がわかった。
(離れたくない。いなくならないでほしい)
一緒に戦っているつもりが、いつも自分を慰めてくれていた彼が……とても好きだと思った。
けれどもう、彼を止められないのだ。
だったら……と、一つ決意する。
ユーディットはきつく両目を閉じて、ジークの胸に額をおしつけた。
すると頭を撫でられる感触がして、
「ユーディー」
声が聞こえ、顔をあげた。
とたんに目に飛び込んできた光に、ユーディットは眩しくて何度も瞬きする。




