くらげは拾得物に含まれます 1
空は曇っていた。
薄灰色の雲に覆われて、でもまだ雨は降らない曖昧な状態。
この国――レーヴェンス王国の状況とよく似ている、とユーディットは思う。
隣国にじわじわと侵略されつつも打つ手がなく、決定的瞬間を待つだけの日々。
逃げ出せる者は、戦場から遠い西へ移った。
少なくとも王都にいるよりは安全だろう。戦闘に巻き込まれない場所で、主権者が変わるのを息を潜めて待つことができる。
逃げ出すことができない者だけだが、恐怖から目をそらすように、今まで通りの日々を送ろうとしていた。
でもその人数はそう多くない。
苔むした石畳の道を進んでも、ちらほらと姿をみかけるばかり。
唯一人が集まっていたのは、市場だ。
けれどわざわざ陥落間近と言われる王都へ品物を運び込む者も少なく、閑散としていた。
人が少ないというだけで、屋根代わりに張られたまま放置された緑や黄色の華やかな布色が、ひどくむなしく見える。
そんな市場の中を、淡い紅茶色の髪をなびかせてユーディットは歩き続ける。
ユーディットは、逃げ出す気がない部類の人間だ。
状況を変えることも戦うこともできない。唯一の肉親だった父も、国境の戦いで失った。まだ喪も開けていないので、彼女は葡萄酒色のブラウスに黒いスカート姿という、地味な服装をしたままだ。
どこかに頼る親戚もなく、だから王都と一緒に破滅してやれという気持ちでいた。
同じような人が、今の王都には溢れている。
「夫の遺体はもう、あきらめるしか……」
ユーディットと似たような、黒っぽい服装の老婦人達が市場の隅に固まって話し込んでいた。
「左となりのローエンさん、お子さんが戻ってきたのに、また戦場へ戻って行ったって泣いていらしたわ」
「こんな状況なのに、奥様お聞きになった? また『くらげ王子』が行方不明になったって」
「戦争中だってことを、わかっていらっしゃらないのではないの? ただでさえ王族方はみんな頼りないのに……」
くらげ王子、というのはレーヴェンス王国第一王子のあだ名だ。
空月の生態は未だ謎な部分が多い。
幼少期は水の中で過ごし、長じるに従って浮き始め、成体になると空を飛ぶことしか分かっていない。
ときどき子供が石をなげつける事があるのだが、空月は「いゃん」という声に似た鳴声を出し、またなにごともなかったように風に吹かれて漂う。
しかしその空月も、捕食の時は素早く無数の足を動かす。雨に濡れて地面にべたっと張り付いていても、踏んだって傷ひとつつかない。
なのにあの王子は、すぐに病気だなんだと人前に出なくなるので、そちらの丈夫さも期待できないらしい。
「きっと逃げたんでしょ」
おとぎ話にまで語られる大魔術『炎妖王』の使い手が、敵国にいるのだ。
どんなに屈強な兵を揃えても、炎にあらがうこともできず、ただ無駄に死なせるだけ。
国が滅ぶという状況になって、王と王妃が世継ぎを逃がしたのかもしれない。
「第二の炎妖王になろうとか、そんな気概もないでしょうね……くらげは燃えにくいし」
いや、本物のくらげじゃないから関係ないか。
ユーディットは心の中で自分にツッコミを入れる。
「それとも、いよいよ家族が炎妖王の術で死んだら、自分の命を捧げてでもと思うのかしら。王家なら、きっと魔法に関する物だって集めたりできるだろうし」
ユーディットは知らず、唇を噛みしめる。
「忍び込むべきかしら……」
王城の警備も今ならものすごく緩いはずだ。
国王と王妃は国と命運を共にするつもりで残っているが、王女と下の王子は城から逃がされたと聞く。
城に仕えていた者にも、だいぶ暇を出したようだ。おかげで残ると決めた者が、頼まれて手伝いに行くので、市井に直近の噂話が出回るのだ。
やってみようか。
決意しかけたところで、ユーディットはふと足を止める。
「泥棒っ! 返して!」
振り返ると、道の向こうから走ってくる男の姿があった。
その手に持っているのは、髭の濃い男には不似合いな、桜色を織り交ぜた布の手提げ鞄だ。
――ひったくりだ。
そう判断したユーディットは男の前に立ちはだかり、
「どけ小娘!」
体当たりしてきた男に、
「ふんっ」
かわしざまに蹴りをたたき込んだ。
走ってきた男の勢いも手伝って、かなりの衝撃を受けたはずだ。男は腹を押さえてその場に倒れ、悶絶して転げ回っている。
男が取り落とした鞄を拾い上げたユーディットは、ややあって駆けつけた女性に差し出した。
「まぁ~ユーディーちゃんじゃないの! あなたがいて良かったわぁ、ありがとう!」
ユーディットの父と同じくらいの年の彼女は、近所の人だった。
「マリエルさんでしたか。どうぞお気になさらず。それよりも中身を確認なさった方がいいのでは」
「ああそうね!」
逃走の途中で財布を抜き、懐に隠し持ったかもしれない。確認するべきだと促されたマリエルは、鞄の中を覗き込み……すぐに微妙な表情になった。
「どうされました? まさか足りない物でもありましたか」
そう言いながら、ユーディットはそろそろとその場を離れようと這いはじめた男の背中をふんずける。ぐえっとカエルのような声が聞こえたが、無視した。
その声に、思わず男の様子を見たマリエルが少々顔を青ざめさせた。
「あ、あの。それがねぇ。むしろ増えてるっていうか……」
「増えてる?」
「これなんだけど。入れた覚えがないのよ」
ユーディットは思わずマリエルの鞄の中を覗き込む。
確かに人参などと一緒に入れるにはそぐわない、黒い布で装丁された本が入っていた。
「なんでしょうこれ。まさか別な人から盗ったものを、ついでに鞄の中に入れたとか……って、ちょっと!」
ユーディットの意識がそれた隙に、物取り男は起き上がった。気づいた時にはかなり遠くに逃げ出していた。しかも、
「おや雨だよ」
ぽつぽつと、黒い水染みが石畳みの上に増えていく。
ユーディットの頭にも落ちてきて、冷たさに思わず肩を縮めた。
「じゃ、これわたしが後で衛兵に届けておきますよ」
本を取り上げて言えば、マリエルはほっとしたように微笑んだ。
「やっぱりアインさんの娘は頼りになるねぇ。頼んだわ」
マリエルは雨に手をかざしながら立ち去った。
「わ、本が濡れちゃう」
ユーディットも慌てて家へと走り出した。