くらげは黒き門をくぐる 3
「なんだ!?」
初めてジークリードが焦ったような声になる。
なぜ自分に触れずに、ユーディットに触れようとしていたのかと思ったのだろう。
一方のユーディットは「やっぱり」と思う。
苦しみを実感し嘆くほど感情が動かなければ、この本の中では『受け入れた』とはみなされないのだ。
自分で実感できないのなら、誰かが手伝うしかない。でもどう『実感させれば』いいのか。
「大丈夫かユーディット」
ジークリードはユーディットの事を心配して表情をくもらせる。すると、不意に影がジークリードに手を伸ばした。
「うわっ」
不意のことだったせいか、ジークリードは思わず飛び退く。
その様子に、ユーディットは閃いた。今の状況の打開策を。
だから彼に言った。
「ジークリード王子。何をしてでも、苦しくても、本当に闇の魔術がほしい?」
「え?」
訝しげな表情をしたジークリードだったが、ユーディットが真剣に見つめていることに気づいたのか、ややあって答える。
「もちろんだよ」
「なら、わたしが代わりに教える」
ユーディットはジークリードに詳細を聞かれる前に、実行した。
「わたしのお母さんも、やっぱり小さい頃に亡くなっちゃったわ。病気だったけど、顔もあんまりはっきり思い出せなくなったけど、悲しかったことは覚えてる。だからあなたがお母さんを殺されたって聞いて、わたしは悲しかったわ」
ジークリードは、急に何を言い出すのかと困惑するような笑みを見せている。
「もしあなただったらどう思う? 弟の、エリオスのお母さんが、彼が五歳のうちに毒殺されたら?」
「エリオスの……母が?」
「そうよ」
「もしそんなことになれば……僕は殺した奴を許さない」
答えた瞬間、ジークリードがほんのわずかでも表情を曇らせた。
その瞬間だった。
白い影の一つが、彼に抱きつく。
「なっ!」
ジークリードに抱きついた白い影は、小さな子供に変わる。それは泣き顔ではあっても、ジークリードを幼い子供に変えたような姿だった。
ユーディットが驚きながら見守るなか、しがみつかれたジークリードが苦しそうに呻き、その場にうずくまる。
子供の姿をした白い影は、そんな彼の中に溶け込むように姿を消していった。
荒く息をつきながら、ジークリードが呆然としたように呟く。
「これが……闇を、受け入れるということか?」
たぶんそうなのだろう、とユーディットは思った。
けれどその影の他は、相変わらず周囲をカタカタと音を立ててめぐるばかりで、接触してこない。
(そうか、一つ一つを受け入れなければだめなんだ)
ユーディットは唇を噛みしめた。
こんな苦しそうなのに、まだまだ同じようにジークリードは苦しまなくてはならないのだ。そうしないと、彼の望みは叶わない。
「もし……もしエリオス王子がくらげに食べられたって聞いたら、怒るでしょう?」
「あたりまえだ」
先ほどの怒りのせいか、今度はたやすく声に嫌悪感がまじっていた。
そんなジークリードに、さらに複数の白い影がまとわりつく。ほんの十歳くらいの子供の姿をしている、白い影たちだ。
ユーディットは見ているのが辛かった。
影は、おそらく辛い思いをした頃のジークリードの姿をとっているのだ。ジークリードは、こんな小さな頃にくらげに食べられ、命からがら脱出したのだ。
今、まさに魔術を習得するための試練を受けているからこそわかる。
おそらく、今の状態は『闇』を深く知るために、徹底的に『闇』を再体験させられ、心に『闇』が何なのかを刻みつけられているのだ。
そのための暗い山道。そして偽りの死という体験。心の闇を受け入れる経験なのだ。
(ああ、そうか……。だからこの人は、自ら闇の術を手に入れようとしたんだ)
本の概要を識っていると言ったジークリード。
既にくらげの魔法を得た彼は、こんな痛みを、辛さを、他の人に味わわせたくなかったのだ。
「剣で斬られたら痛かったでしょう。エリオス王子の代わりに毒を飲んだら、苦しかったでしょう? 聞いてるだけで辛いよ。恐いって思うもの」
苦しくて、泣きそうになるのに涙はでない。けれど震える声で、ユーディットは一つ一つ数え上げるように言った。
「ユーディット。ユーディー、それ以上は自分でやる。だからやめるんだ!」
急にジークリードが制止してくる。
何が、と思ってユーディットがふと見回せば、白い影がユーディットにも手を伸ばしてきていた。
頭の中をよぎったのは、この一つを自分が受け入れたせいでジークが魔術を習得できなかったら、という恐れだ。
一方で、ジークリードを間接的に痛めつけている自分が、本当に辛い思いをしなくていいのかと心が叫ぶ。
だから動けずにいた。
白い影のようだった手が、すうっと人の手に変わる。
もうほとんど、今のジークリードと同じ年頃の姿になった影が、ユーディットの首に手を伸ばしていた。
ひやりとした感覚が伝わる。
その瞬間、暖かな温もりに包まれた。
ユーディットを抱きしめたジークリードの肩へと、白い手が沈み込んでいく。そして消えた瞬間、山の中からざわめきが消えた。
泣けないまま嗚咽する、ユーディットの声だけを残して。
「ごめん、ユーディー……ありがとう」
彼は、苦しそうに謝りながら、ユーディットを抱きしめ続けた。
ユーディットはその腕を拒まなかった。
こんなに苦しいのに、涙がひとつぶもでてこない自分の頬をジークリードの肩に押しつける。
可哀相な彼。
状況が彼に悲しむひまを与えなかったから、可哀相だということに気付かなかった人。それを必要だからと、無理に思い出させたのはユーディットだ。
ごめんなさい、と思う。
どうしたら償えるだろう。
苦悩するユーディットの意識は、やがてうすれていった。




