くらげは黒き門をくぐる 1
その晩、本の文字を追って数秒で、ユーディットは再び薄暗い山の中へやってきていた。
風も吹かない静かな場所だ。
草木も寝静まったかのように、葉ずれの音一つしない。
その静けさが闇を濃くしているようで、足元がうっすらと見えるというのに、暗い沼の底に引き込まれるような恐ろしさを感じる。
そんな山の中を進むと、倒木の上に座っている人物を見つけてほっとする。
ジークリードが、こちらに気づいて立ち上がった。
「また読んでくれたんだね、ありがとう」
柔らかな微笑みに、ユーディットは緊張する。
本を開く前には、あれもこれも言おうと思っていた。
だけど彼は、ユーディットが本を開くまでずっと、この寂しい場所に座ったままでいたのだと思うと、それらの疑問は口にするのがためらわれた。
どちらにせよ、この本が特殊な魔術書であることには変わらない。
魔術師が追いかけてきたことで、それは証明されている。そしてジークリードが、魔術を得て国を救おうとしていることも。
「あれ、なんか体調悪い?」
大丈夫かと顔を覗き込まれたユーディットは、気づかれないように、ジークリードを問い詰める。
「別に。それより、突然見知らぬ場所で放置されるとは思わなかったんだけど? しかも町中は避難した後で誰もいないし!」
「みんな避難してたんだ」
よかったよかったとジークリードはうなずく。
「あと、あなたの弟に追いかけられて、びっくりしたんだけど」
「エリオスが?」
「リンデスティールの人は、軍が避難するようよびかけてたらしいの。で、その避難状況の確認にきたんだって。後方に追いやられたからって、エリオス王子が」
そこまで説明すると、ジークリードは納得したようだ。
「あ~エリオスも出陣してたっけ。後方にってことは……」
そのまま考え込んでしまう。
できれば説明してほしいものだとユーディットは思った。どうもこのくらげ王子は、自己完結して人を置き去りにするクセがあるようだ。
兄弟なんだから、一言「迷惑かけたね」とか「元気だったか」とか聞いてもいいような気がするのだ。
だからユーディットは「聞かないの?」と声をかけようとした。
が、木々のざわめきが耳について言葉を飲み込む。
かさかさという音とは違う。
固い物がこすり、打ち鳴らされるような音。それが幾重にもかさなってざわめきに聞こえるような……。
「ユーディット」
視線をジークリードに戻せば、彼が笑みを消していた。
「君が読んでくれているおかげで、本の続きに入れたみたいだ。でもこの本の流れからして、ちょっと気味の悪いものを見ると思うけど、我慢してほしい」
次いで離れていてと言われたが、ユーディットの足は動かなかった。
目が、それを見つけてしまったのだ。
林の中から一歩ずつこちらへ向かってくる白い影。服の色が白いからではない。全身が白く、透き通っているのだ。
それが動く度に、固い軽石をころがしたようにカタカタと音がする。
(お……おお、おばけっ!?)
声もなく見つめ続けるユーディットを背に、ジークリードは増え続ける白い影達に向き合う。
「本の概要はわかっている。これは俺の心に落とされた闇。それをすべて、受け入れられるのかが試される」
普段の明るい声からは想像がつかない、淡々とした口調でジークリードは語る。
その言葉の最後に掛かるように、近づいてきた白い影がしゃべった。
《口惜しい、なぜ死ななかった》
ユーディットは耳を疑った。
――なぜ死ななかった。
この幽霊の方がジークリードを殺そうとしなければ、尋ねない言葉だ。
ジークリードは特別驚くこともなく、尋ね返していた。
「いつの分だい?」
《まだ子供だというのに、こざかしい。母親共々死出の旅に出ればよかったものを》
目の前にいるジークリードに話しているように見えるのに、内容がおかしい。
「ああ、あなたはサーク伯か。母上に毒を盛った」
ジークリードには心当たりがあったようだが、その内容が物騒すぎた。
「毒って……」
「今の王妃は二人目なんだよ。僕の実母は毒殺されたんだ。五歳の時だったかな。僕がほとんど覚えて無くても、それでも心の闇の一つだから出てくるのか。へぇ~」
何か斜め上の感心をしているジークリードに対し、ユーディットは思わず身震いした。
自分の国の王妃が毒殺されてた事も驚いたが、その子供であるジークリードが、あまりにも他人事のように語るのが怖かったのだ。
白い影の方は、小さな声で恨み言をつぶやきつつ、ゆったりとジークリードの周りを歩き出す。
いや、歩いてはいない。足が見えない上、すす、と地面の上を滑るように移動しているのだから。
「でもこれって、死んだ人間だけ出てくるのかなぁ。サーク伯は父上が断罪したはずだから」
ユーディットはその言葉に思わず息を飲み、ジークリードの背中につかまる。
「ちょっ、これほんとにお化け!?」
「お化けなんて可愛い言い方するなぁ、ユーディットは」
はははと笑うジークリードに、ユーディットは彼の服を掴んだ手を離しそうになった。
が、背後に回ってきた白い影と目が合ったような気がして、再度手に服を握り込む。
「ああ、でもこれでちゃんと証明されて良かった。やっぱり僕だけが、この本の試練を受けてるって証しだからね。読み切ってもきっと、ユーディットには何の影響もないよ」
のんきなジークリードの前に、別な影が近寄ってきた。
《はやくこの王子を始末しなければ》
《血統のより高貴なエリオス王子を》
口もない白い影から声が聞こえるのは、異様な光景だった。
カタカタという渇いた音が、それを助長して不気味さを加えていく。
「あなたたち兄弟、仲が悪かったの?」
エリオスの様子を見る限り、そんなそぶりは一切なかったのだが。
「いや? 僕たちはそんなんじゃないけどね。俺の母親が国内貴族の娘だったけど、エリオスの母親の現王妃は他国の王族だったから。そんなので、妙な権力争いがあったんだよ」
ジークリードはため息をつきつつ、白い影を眺める。
「元々ね、王家は権力争いを臣下にさせないためと、他国との繋がりを密にするために、国内貴族から王妃を迎えることを避けてきたんだよ。それを破って母を妃に迎えた父が悪いわけではないんだけどね。間が悪く飢饉が起きて、さらに外交上で失敗があったせいで、父上の権力が弱まったのもマズかったんだよなぁ」
呆然とジークリードの話に耳を傾けていたユーディットは、次に聞こえてきた白い影の声にぎょっとする。
《あのような王子など、くらげに食わせてしまえ》
「は?」




