炎の魔術師
小国レーヴェンスの国境、山裾に広がる森に囲まれた草原に、小さなかがり火が灯った。
一冊の本から立ち上る火は、不穏な空気に誘われるように空を飛び回る雨魚の降らす水滴の中でも消えず、揺らがずに少しずつ大きさを増していく。
その本を包帯を巻いた手で掲げるように持つのは、焼け焦げた襤褸をまとった女性だ。
長い黒髪は乱れながら背を覆い、頭の半分は包帯が巻かれて顔がよく見えない。
「誰か! あの女を止めろ!」
祈りを捧げるように本を読み上げる女性の周囲は、血しぶきと鉄がぶつかる音と悲鳴に満ちていた。
飛び散る血潮が頬にかかり、髪を濡らしても、包帯の女は一顧だにしない。
自分を守る兵士が、黒革の鎧の隙間から刃で刺し貫かれても、背後で断末魔の叫びが上がっても、彼女は姿勢も声も揺るがさずに読み上げる。
――妖霊は問う、そなたは何を差し出せるのかと。
――王は答える。私の命をと。
女の髪からくすぶるように煙が上がり始めた。
火種など見当たらなかったその体が熱を持ったように、髪が焼けてちりちりと縮んでゆき、体に巻き付いた包帯が黒ずんで煙りを上げ始める。
その様子に、焦ったレーヴェンスの渋皮色の鎧を着た兵士が、遠くから槍を投擲した。
槍は周囲を囲む兵士に切り落とされる。
けれどそれが良い手だと気づいた者が、次々と矢を射かけた。
「早く、早くあの女を殺せ!」
「さもないと、火が! 国が!」
悲鳴のような声と共に放たれた矢が、女を囲むクレイドルの兵の肩に、頭に降り注ぐ。
とても庇いきれない量だったため、女の腕にも、背中にも、足にも矢が突き刺さった。
さすがに痛む足では立っていられなかったのだろう、女はその場に膝をついた。
それでも血を流す腕で本を掲げ続け、その口からは本の内容が語られる。
――その命には価値があるのか。
――この命は多くの我が民達の願い、怨嗟、そして復讐の気持ちが長らえさせたもの。
――死せる者達の声によって作られたこの命は、一人の分量では計れまい。
次第に、女の血から煙が上がり出す。
煙を上げていた包帯はぼろぼろとくずれ、その下にあった焼けたただれた肌を露出し、さらにそれすらも黒く焦げ始めた。
「ば、ばけもの……」
レーヴェンス兵は、顔を嫌悪でゆがめた。
けれど彼女の様子に怖じ気づき、近寄るにも足が前に進まない。
女の姿は、体から吹き上がった炎の向こうへ見えなくなる。
そして舞い上がる炎と共に、最後の一節が空を焦がすように響いた。
――王は炎の妖霊に願った。
――敵を、敵の国を、彼らが息をして踏みしめているその大地を焼き尽くせと。
苦悶の叫びを内包しながら、墓標のような炎の柱は高く大きく成長していく。
「新たな術師の誕生を讃えよ!」
その背後で賞賛の声を上げたのは、炎に鉄の鎧を赤く煌めかせた者達。隣国クレイドルの兵だ。
もう彼ら自身がこのレーヴェンスへ攻め込む『フリ』すら必要はない。
術師の後ろから進軍していくだけだ。
侵略される側は、絶望的な表情で逃げるしかなかった。
迎え撃とうとしたレーヴェンスの兵たちは、剣を構える。が、敵と対するより前に、火柱から飛ぶ炎のつぶてに打たれ、炎に包まれて崩れ落ちる。
「炎妖王……」
呟いた若い兵士は、おとぎ話を思い出す。
国を滅ぼされたある王が、たった一人で敵を滅ぼすため、火の山に住む炎の妖霊に命を捧げたという話だ。その代わりに、全てを焼き尽くす力を得る。そして王は自らを炎と変え、七日七晩かけて敵国を焼き尽くした。
深い恨みを持つ者が、復讐の炎に身を焦がした話だ。
その様子は、今目の前にしている光景のようだったのだろうか、と兵士は思う。
火柱が動く度、生き物の姿は炭に変わった。
充満するのは、焼け焦げる布と生き物の匂い。
絶叫と赤い色に染められた世界の中、若い兵士以外の者達も、皆足を震わせて一歩も動けなくなる。
「引け!」
年若い青年の声が恐怖の空気を切り裂いた。
声に気付いた兵士達は、急いで退きはじめる。
けれど、恐怖にかられて周囲の者を押す者もいた。転んだ若い兵士は、続く者に背中を踏まれ、そのまま圧死するのではないかと怯えたが、
「早く立つんだ」
腕を引き起こしてくれる者がいた。
琥珀色の髪が炎の照り返しに煌めいていた。繊細そうな顔のつくりに、先程までの戦闘でついたのだろう、頬を汚す血糊がひどく似合わない。
彼に礼を言おう。そう思った若い兵士は、背後からの衝撃に、その場から吹き飛ばされた。
熱い。
痛い。
ころげまわってようやく酷い痛みが治まっても、まだ背中がひりひりと痛んだ。それでも逃げなければと急いで立ち上がる。
無我夢中で走った若い兵士は、仲間達の集まる林の中に飛び込んだ。
そこでは糸のような雨が降り、少しだけ炎の熱さが遠ざかる。
見上げれば、森に住む雨魚が空を泳いでいた。青い木の葉のような姿をした空飛ぶ魚は、自分達の住処を守るために、水を運んでは降らせているのだ。
ここなら大丈夫。ほっとした兵士はようやく心の余裕をとりもどし、背後を振り返る。
そして息を飲んだ。
炎とクレイドルの兵の前に、先ほど引き起こしてくれた青年がいたのだ。
逃げ遅れた他の兵を庇うように、青年は敵の剣の前に身をさらしている。
「は、早く逃げろ!」
兵士の声に重なるように、誰かも叫んだ。
「――――!」
その言葉は己の声と重なって聞き取れなかった。
助けに行こうと走り出そうとした足は、しかし途中で止まる。
泡のように膨らんでいく炎の柱、それが男の悲鳴が何重に響くような音と主に、爆発した。
炎が雨のように周囲にふりそそぐ。
熱波と共に、林の木をも焼き始めた。
若い兵士は地面に伏せて熱波をやりすごした後、無我夢中で炎の雨から逃れるしかなかった。
そうしてもう熱さを感じない場所まで来て、若い兵士は青年の姿を探そうと振り返る。
けれど目の前に広がっているのは一面の焼け野原で、無傷の敵兵と、黒こげの遺体。その背後にそびえ立つ、竜巻のような炎の柱だけで。
あの青年の姿は見えなくなっていた。