85.おわりのはじまり【挿絵あり】 ★2019/7/9挿絵追加あり
明朝まで身を隠しておくように言われたソフィアは、レグルスを見送った後その場で立ったまま俯いた。――ひとりになると、再び中央広場での出来事がじわじわと蘇ってくる。心が軋み、手足が冷えた。
(シン……みんな……)
ごめんなさい、と胸の内で謝罪しようとして、――だが、彼らにとってこれで良かったのかもしれない、と思い直す。
己と関わる事が無ければ、少なくともシンは孤児院で相変わらず住み込みで働き、大好きなミアの淹れたお茶を堪能し、時々訪ねて来るシアン、シェラと雑談を楽しむだろう。アトリは侍祭に叱られながらもしっかりと神殿で務めを果たし、ネアは冒険者として艶やかな笑顔を浮かべながら華麗に妖魔との闘いを繰り広げる事だろう。
(あたしがいなくても……――ううん、あたしがいない方が、本当は――最初から、)
そこまで考えた所で、海面から強い寒風が吹きつけ、ソフィアは足を取られて後ろに身体が傾いた。――瞬間、後ろで待機していた誰かに抱き止められる錯覚を覚えた。もちろん背後には誰もいない為、結局彼女はそのままよろけて数歩後ずさったのだが。
しかし、そこで不意に記憶の底からシンの悪戯っぽい笑顔が浮かんできた。
――“内緒だけどね”
ハッとして周囲を見回したソフィアは、すぐに目当ての建物を見付けた。
* * * * * * * * * * * * * * *
――灯台は、あの時と寸分違わずに港のすぐ近くに佇んでいた。案の定、扉の蝶番の1つが錆びて外れており、力を入れて押すと人一人が通れる程度の隙間が空いた。
灯台の内側は螺旋状の階段になっており、ところどころにある明り取りの穴から淡い橙色の光が漏れて辺りを照らしていた。真上には灯かりを点す台と、薄い灰紺色の空が見える。
足元が覚束なく、ソフィアは壁に両手を付け、慎重に階段を登る。こうしている間も、背に“彼”の気配を感じるが、ソフィアは振り返る事はせずにぐっと唇を噛み締めた。――振り返ったところで、そこに“彼”はもういないのは分かっているからだ。
しばらく階段を登ると、外へ繋がる扉が見えた。こちらにはやはり以前と変わらず施錠はされておらず、ドアノブを回すと軋みながらゆっくりと外へ開いた。
一気に外の空気が灯台内部へと流れ込む事で、内側へ向かって強い風が吹く事は既に学習していた為、ソフィアは身を縮こまらせて強風をやり過ごし、素早く外へ出た。
――“ソフィア、大丈夫?”
風の中から空耳が聞こえた。反射的に顔を上げると、広い空と海が目の前にあり、ソフィアは目を瞠った。あの時――聖夜祭の翌日にこの灯台を訪れた時と同じように、傍らからシンの声が聞こえた気がした。
――“見て、ソフィア”
視線を動かすと、今正に沈み行く夕陽が目に飛び込んで来た。地平線の橙、天の紺碧、狭間の碧色。目に焼き付く恐ろしいまでの美しい光景に、ソフィアは小さく震えた。そのまま、何かに操られるかの様に無意識に灯台の灯かりを挟んで逆方向へ通路を走った。
――“ソフィア”
反対側にたどり着いたその目前で、ゆっくり町に灯かりが燈っていく。
――“僕、ここから町の灯かりを眺めるのが、大好きなんだ”
「――――!!」
息を飲み、転落防止の手摺りに両手を掛け、ソフィアは食い入るように町の光を見つめた。
――“あの灯かり一つ一つに、色んな人がいて、”
修道服を着た穏やかな笑みを浮かべた女性が、
揶揄い半分の笑顔を浮かべた濃紺色の頭髪の青年が、
柔らかい猫ッ毛の栗色の髪をした美しい女性と、その彼女と仲睦まじく肩を寄せ合う藤色のガウンコートを羽織った穏やかな顔をした妖精の男性が、
鋼を鍛えて紅色に着色した特注の鎧を着用し、華麗に大剣を振るう女性が、
――そして、焦げ茶色の頭髪の半妖精の青年が屈託なく笑う姿が、脳裏に浮かんだ。
眼下に広がる光景は、幸せな事も悲しい事も、全部一緒に、町全体が一つの星空のようで――手摺りを握りしめ、ソフィアは顔を歪ませた。
(――見えた……あたしにも、見える。あの日、シンが言ってた……)
頬に温かい何かが伝うのを感じる。だが、構わずに煌めく町の灯りをソフィアはただただ見つめた。
ぼやけた視界で光の精霊が漂う様に儚く、温かく燈っている灯り。傍らに、いるはずのない温もりを感じて、ソフィアはぎゅっと両目を閉じた。
(――シン……!!)
――世界が重なった気がした。
傍にいなくても、彼の見ている光景が、今、ソフィアの前に広がっている。
(あたしにも、見えたわ――あなたの、世界……)
遠く離れてなどいない。すぐ傍に、彼がいる。――彼の見ている世界がある。
「シン……」
声に出して小さく名を呼ぶと、堪え切れない感情が一気に心の中から溢れ出した。
「シン……シン……っ」
泣きながらソフィアは両手で涙を拭った。しかし、それは止まる事を知らずに溢れ続ける。
「うっ……うぅ…………うわぁぁ……あぁぁん」
幼い子どもの様に声を上げて泣き出す。――悲しいからではない。寂しさもない。彼が見ている世界と同じ世界を目の前にしているという奇跡に、ソフィアの心は震えた。その温もり、その美しさ、――愛おしさ。
――“生きて欲しいんだ、ソフィアに”
真っ直ぐに注がれた彼の想い――それはもう、きっと戻る事は無い。だが、ソフィアの胸には確かに残っている。彼の無償の愛情が。
振り返って、こちらに手を差し伸べて、嬉しそうに細められる緑碧玉の色。
応えようと手を伸ばしても、もう、触れる事は叶わない。
泣きじゃくりながら、ソフィアは卒然と悟った。
(――……すき、だったんだ……)
――“好きだよ”
(あたし、シンの事が……すき、だったんだ――)
彼が自分に注いでくれたものとは異なる……――そして、もう伝える事は無いであろうその想い。気付いた時点で、届かない。それでも、ソフィアの胸は暖かい何かで満たされた。
(好き……――好きだった。――あたし、ずっと、ずっと――)
その想いは身体の中心から全身に広がり、凍えていたソフィアの身体を包み込んだ。涙をごしごしと拭い、彼女は町の灯りを見下ろした。――あの灯りのどこかに、彼がいる。そう思うと、力が湧いてくる気がした。
自分がこの町を去った後も、きっと優しい日常の中で、大切な人々を守り、そしていつの日か愛する人と幸せな家庭を持ち、幸せに暮らすだろう。その未来を守りたい、と強く思った。
――“特恵を持つ者が生まれた事は、世界の境界に歪が生じる予兆”
――“均衡が傾く前に、君は水底の聖櫃に納められなくてはならない”
世界の境界に歪が生じる事で、何が起こるのかは、ソフィアにはまだ分からない。だが、良い事ではないのは分かった。そして、己が水底の聖櫃に納められる事で、その“良くない事”に対して抗う事が出来るかもしれないらしいことも。
(――今度は、あたしが守る。――シンも、シンの大切な人も……この町の人達も)
手摺りに両手を置き、星空の様な町を見つめて、ソフィアは心に誓った。その双眸はもう涙で濡れてはおらず、代わりに強い輝きが宿っていた。
* * * * * * * * * * * * * * *
早朝の西門。
ソフィアが足を運んだ時刻には、既に旅支度をしたレグルスが待っていた。
「やあ、おはよう、ソフィア君」
微笑んで軽く片手を上げた後、彼は僅かに瞠目し、それから柔らかく微笑んだ。
「――何があったかは知らないけど、美しくなったね。……少し妬けるなぁ」
「……? 意味が分からない」
訝し気に問うたが、彼は答えずに肩を竦めて見せた。それから、己の背負い袋を下ろすと、中から縁に簡素な刺繍が施されたフード付きの外套を取り出した。
「はい、これ。僕から君にプレゼント」
「え、いらないわ」
「いやいや、貰って。そして、フードは人前では常に被っていて」
「え?」
思わず胡散臭そうに聞き返すと、レグルスは真面目な顔でさっさとソフィアに外套を被せた。どうやら揶揄っている訳では無さそうだ。
「僕は君と常に一緒にいる事は出来ない。――君もそうだけど、僕もよくないものを引き寄せる傾向がある。だから、一緒にいない方が君の安全の為にも良い」
「……だからって、何故」
フードまで被らなくてはならないのか、と問う前に、レグルスの手で被せられたフードにすっぽりと銀の頭髪を覆われた。しかも、外套には口元を隠す布もついており、それを両耳で留めると目元しか外からは見えなくなりそうだ。――完全に不審者だ。微妙な顔をして眉を顰めていると、その表情に気付いた彼は肩を竦めて笑った。
「何度も言うけどね、君の容貌は目立ちすぎるんだよ。人前では顔を隠すくらいで丁度いい。草妖精や大地妖精も君と同じくらいの背丈だからね。宿を取る際や、馬車に乗る際に、フードさえ被っていれば、一々絡まれずに済むだろう」
「だからって……怪しすぎると思うんだけど」
「フードを怪しまれたら、顔に目立つ傷があるとか、適当な事を言って誤魔化せば良いんだよ」
軽くあしらう様に言うと、彼は懐から小袋を取り出し、ソフィアの手に握らせた。――その重さに、ソフィアは顔を強張らせた。
「金貨10枚と、銀貨が50枚入っている。これで当面何とかしのぐといい」
「い、いらない」
「良いから収めておきなさい。さっきも言ったけど、僕は君とずっと一緒にはいられない。近くの町に着いたら、君はそこから馬車を使って西の商業大国オークルに向かいなさい。人が多い場所は却って隠れやすいからね」
「……“隠れる”?」
「ああ。――君には、いずれ狭間の国にある水底の聖櫃で眠ってもらう必要がある。世界の境界に生じた歪が大きくなった時に、それぞれの均衡を保つためにね。だが、その稀少さや価値に目を付ける“裏”の人間もいる」
「裏?」
「エイクバの人身売買組織に、君を捕えるよう依頼した者達なんかもそうだね」
「え」
思いがけないレグルスの言葉に、ソフィアは目を瞠って彼を見上げた。その視線ににっこりと微笑み返し、彼は何てことないように続けた。
「もちろん、彼らだけじゃない。――争い事は金も動く。そういった目当ての者にとっては、逆に君は厄介な存在という事になる。――聖櫃に納まる前に、そういう輩の手に落ちては困るんだよ」
「……」
「という事で、きちんと自衛したまえ。勿論、たまに僕も顔を出すし、その際に金銭が足りない場合は補充もしよう」
「それよりも、もう狭間の……国? に行ってしまえば済むんじゃないの?」
疑問を口にすると、彼は小さく首を横に振った。
「昨日も話したけどね、その国は一処に留まらずに、常に狭間の世界を漂っているんだ。時が来れば、狭間の国の方から君を迎えにやってくる。それまで、上手く身を隠しながら逃げ通しておくれ」
「……」
逃げる、という言葉に、ソフィアはむっとした。だが、レグルスの言う通り、様々な目的で不特定多数の人間がもし己を狙っているとしたら、誰にも見付からない様に逃げ切り、時が来るのを待つしかないのかもしれない。不満は残るが、今一番己のやるべき事はそれしかない。小さく息を吸って吐き出すと、渋々といった態で頷いた。その様子を見て、彼はほんの僅かに苦笑し、それからすぐに平素の笑顔でソフィアに片手を差し出した。
「さて! じゃあ、出発しようか」
「一人で歩ける」
ソフィアが冷たく即答した――その時、
「ソフィアさーん!!」
誰かの、己を呼ぶ声が聞こえて、ソフィアは驚いて振り返った。
道の向こう――町の中央方面から、修道服の女性が転びそうになりながら必死でこちらに向かって走ってくる。
「アトリ?!」
ぎょっとしてソフィアが小さく叫ぶ。昨日の中央広場で会った時のまま、薄汚れた修道服姿で、編み込まれたはしばみ色の頭髪はぼさぼさと乱れている。
「ソフィアさんっ」
驚いたまま固まっているソフィアの目の前までやって来ると、彼女は両手を伸ばしてソフィアの両肩に置いた。
「ど、どこに行ってらしたんですかっ 捜していたんですよっ? ――っみ、皆さん、ソフィアさんの事、知らないって言うし……っ わ、わたし……わたし……」
言いながらぼろぼろと紫灰色の双眸から涙を零すアトリに、ソフィアは混乱した。――彼女は昨日、確かに中央広場にいた。それなのに、間違いなく自分の事を覚えている。
両肩を掴まれたまま、ソフィアは狼狽して傍らに立つレグルスを見上げた。――彼の方も、軽く目を瞠っていたが、すぐに気を取り直した様子で微笑んだ。
「アトリ君、だったかな?」
「え? あっ はい!」
突然、見慣れない美貌の妖精に話しかけられ、アトリは目を真ん丸にして頷く。にっこりと笑顔を返し、レグルスはソフィアと彼女の間に割って入った。それから、「せっかく追いかけて来てくれたところ、悪いんだけど」と前置きした後、ゆっくりと言霊を込めて放った。
「――この子の事は、忘れてくれるかな?」
「え、嫌です」
「?!」
今度こそ、レグルスは驚愕した様に顔を強張らせた。
「忘れるのが君の為だよ」
「そんな事、ありません」
キッパリと、アトリは彼の言葉を跳ね返した。
「わたし、ソフィアさんの事を忘れたりなんかしません。――誰に何と言われようと、エルテナ様に誓って」
「……なるほど、そうか」
珍しくレグルスが渋い声を出した。戸惑ったようにソフィアが見やると、彼は頭を掻いた。
「――これは参った。女神の恩恵が余程強いんだろう」
「え……」
「この女性には、僕の力は通じないみたいだ。――致し方ない。ある程度事情を話して行こう」
そう言うと、レグルスはアトリに掻い摘んで事情を説明し始めた。――ソフィアの母親の事、その故郷の事、――そして、受け継がれた役目の事……――
黙って聞いていたアトリは、聞き終わると何も言わずにソフィアを優しく抱き締めた。思いがけない彼女の行動に、ソフィアの身体が反射的に強張る。しかし、柔らかくあたたかい温度に、徐々に肩の力が抜けて行った。
しばらくしてから、アトリが静かに口を開いた。
「ソフィアさん……」
「……」
「本当に行ってしまうんですか?」
耳元で、彼女の穏やかな鼓動を聞きながら、ソフィアは黙って小さく頷いた。一瞬、アトリは痛みを堪えるように唇を噛んだ。しかし、すぐに小さな声で「そうですか」と答えた。それから、そっとソフィアから身を離すと、ソフィアの顔を覗き込んだ。
「でも、わたしは諦めません!」
「え?」
きょとんとしてソフィアが聞き返すと、彼女は明るく穏やかに笑った。
「ソフィアさんの事、絶対に諦めません。何か他に手だてが無いか、探します!」
それから、くるりとレグルスの方へ向き直り、真っ直ぐに見上げた。
「事情は分かりました。少し前までここにはエイクバの人身売買組織の人達が来ていましたから、ソフィアさんはこの町から離れた方が良いというのは、正しいと思います」
「うんうん、分かってもらえて嬉しいよ」
「……分かってはいますが、納得しているわけでは無いです」
きゅ、と口を一文字にして、アトリは強い眼差しで続けた。
「わたしが申し上げるのはお門違いかとは思いますが……――どうか、ソフィアさんの事を、」
「もとより」
微笑みを収めて、レグルスは静かに頷いた。それを確認してから、アトリはソフィアに向き直った。
「たまにで構いませんから……お手紙下さいね」
「……え、て、手紙?」
「ええ。――お名前を書くのが差し障りがあるようでしたら、差出人は無記名でも構いません。わたし宛に届く手紙は、父からと限られていますから。構いませんよね?」
最後はレグルスに問う言葉だ。――彼は困った様に笑うと、やれやれといった態で頷いた。
「近況でも、旅先での出来事でも、何でも構いません。――わたしの事を思い出した時で構いません。……いけませんか?」
「いけ、なくはない……」
「良かった!」
照れ隠しから不貞腐れた様に答えるソフィアに、アトリは満面の笑顔を向けた。
「そろそろ行くよ」
レグルスの言葉に、2人はハッとした。そして、先にソフィアがぎこちなく口を開いた。
「じゃあ……行くわ」
「はい。――お気をつけて」
踵を返し、レグルスの方へと早足で向かうソフィアの背に、アトリが声を投げかけた。
「ソフィアさん――!!」
ほんの少し歩調を緩めた彼女に、泣くのを堪え、精いっぱいの笑顔でアトリは声を張り上げた。
「いってらっしゃい――!!」
その言葉に、チラリと振り返った彼女は、フードの隙間から僅かに微笑んで――頷いた、ように見えた。




