84.特恵
思考が定まらないまま走り、彷徨い、最終的に辿り着いたのはクナート北にある港だった。
既に大分、日は傾いている。あと数刻もすれば日が沈み、辺りは闇に包まれるだろう。肩で息をしながら、ソフィアは茜色に染まり始める海面を、そして西日へと目を向けた。
普段であれば、ここは船客や船乗り、漁師、露店商達で賑わっている。しかし、皆避難しているのか、今は穏やかな波の音だけが繰り返している。
ギリギリ海に近づき、徐々に昏くなっていく水面を見つめながらも、ソフィアの思考は真っ黒に塗りつぶされた様に何も思い浮かばなかった。
――先ほどのシン達は、ソフィアの事をまるで知らない様子だった。
自分は夢を見ているのか、それとも、皆で示し合わせて揶揄っているのだろうか。――そんな悪い冗談を言うような人たちでは無い。それは分かっているが、でも、だからといって、じゃあ何故――
(――本当に、忘れてしまったの……?)
ひんやりとした海風に吹かれるがままに、ソフィアは己自身に問いかけた。
(あたしの事を……――全部……?)
――“ソフィア”
優しく名を呼ぶテノール。その声は、既にソフィアの心に沁み込んでおり、少しでも彼を思うと無意識に脳内に再生されると共に、温かな碧色の双眸、笑顔――すっぽりとソフィアを包む広い胸板と、力強い両腕。それらがいとも簡単に思い出された。
途端に、身体の中心が締め付けられるように苦しくなり、ソフィアは両手で胸元の服の布地を握りしめると身を縮こまらせて、襲い掛かる訳の分からない恐怖の様な感情に抗おうと、両目を固く閉じた。
――どれだけそうしていたか分からない。
俯き、何も考えられないまま立ち竦んでいると、不意に背後から、まるで歌うような美しい声が響いた。
「今度は間違えなかった様だね」
驚くほどすんなりとソフィアの心に届いたその声の持ち主を、彼女は知っていた。そして、彼がソフィアの事を忘れていない事に関して、自分自身で意外と思う程、驚かなかった。
目を伏せたまま少し迷った後、ゆっくりと振り返る。――果たしてそこには、美しい金の髪を持つ白皙の妖精の男が立っていた。穏やかに微笑む表情は、逆に腹の内が見えない。ソフィアは僅かに眉を寄せてポツリと聞き返した。
「まち、がい……?」
その言葉に、彼は演技がかった様に大袈裟に「その通り!」と言いながら、ソフィアに両手を広げて小首を傾げて微笑んだ。
「だって、君の力の矛先は、ずっと常に内側を向いていたじゃない」
言いながら、彼は右手を親指と人差し指だけ伸ばすと、己の左胸にその人差し指を当てて「こんな風にね」とウィンクをした。
「――今までの君は、誰にも期待しない。誰にも要求しない。何も。――君の世界は閉ざされていた。だから、何かあった時、君は常に自分へ矛先を向けた。それが普通の事だった」
己の左胸から人差し指をそっと離し、美貌の妖精は口角をほんの僅かに上げた。
「――だが、それでは駄目だという事に気付いた。……そうだろう?」
薄っすらと微笑んだレグルスは、小首を傾げてソフィアの顔を覗き込んだ。彼の言わんとする事がはっきりと分からずに、ソフィアは困惑して眉間に小さく皺を寄せ黙り込む。その様子を見て、彼は笑みを深めて続けた。
「君が忘れたって、周囲は放っておかない。――特に、そう。シン君なんかは」
その言葉に、ソフィアは目を瞠ってレグルスを見上げた。彼の言い様は、先ほど町の中央広場で起こった事も、その原因も、全てお見通しに聞こえた。
「なに……」
「うん?」
「あなたは……なにを、知ってるの……?」
「僕は神様でも何でもないからねぇ。全部が全部知ってる訳では無いよ」
おどけた様に肩を竦めるレグルスだったが、ソフィアの表情は強張ったままだ。それに気付き、彼はやれやれ、といった態で頭を掻いた。
「――君は、“世界”というものがヴルズィアとテイルラットだけだと思っているかい?」
「……え?」
唐突に静かに問われた言葉に、ソフィアは思わず困惑して小さく聞き返した。先ほどの会話との関連性が見えず、反応に困り黙り込んでいると、彼は構わずにそのまま話しを続けた。
「答えは“否”だ。君の知る2つの世界――ヴルズィアでもテイルラットでもない遠い場所に、名も無い狭間の国がある」
言いながら、彼は茜色に染まる水平線に視線を向けて目を細めた。
「――君の母君はね、その国の人なんだよ」
「え」
驚きと戸惑い、両方のこもった眼差しで、ソフィアはレグルスの横顔を見上げた。しかし、彼はこちらに顔を向けることなく、淡々と語り続けた。
「美しい国だよ。――他の世界にも、どの種族にも、時の流れにも干渉されず……豊かで、穏やかで、」
「……」
硬い表情でソフィアが己を見ている事に気付いたレグルスは、漸く海面から彼女に視線を移動させ、小首を傾げた。
「どうかしたかい?」
「……どの種族にも……?」
「! あぁ……そうだね。……そうだ。君は聡い子だった」
ぎこちなく問うたソフィアに、僅かに瞠目した後、レグルスはパッと笑顔になった。
「そうだよ。種族。――その国に住む人々は、ヴルズィアやテイルラットで生きる、どの種族とも異なる。――そうだなぁ、妖精に近いのだろうけど、……いや、妖精の方がその国の人々の種族に近い、と言った方が良いだろう。言うなれば、妖精の先祖――こちらの世界の妖精より、ずっと精霊に近い存在、かな」
半ば独り言の様に言ってから、彼は少し遠い目をした。
「そう、精霊の現身とも言える美しい容姿に美しい魂――それが君の母君の種族だ」
言葉を切ると、彼は視線をソフィアに向けて微笑んだ。
「そして、君もね」
「……?」
ピンと来ないのか、それともまだ頭が回っていないのか、眉を顰めてソフィアは視線で聞き返した。
「君の容姿は周りに比べて浮いているだろう? 極端に整っている……当然さ。大元の種が異なるんだからね」
訳知り顔で言い切るレグルスに、ソフィアはますます眉間の皺を深めた。――そんな事はない、浮いてなどいない、と言い返したいが、上手い言葉が出て来ずにソフィアは黙り込んだ。
「本来は君たちが外の世界に出てくることは無い。平穏を守る為にも、その国の存在は秘匿されるべきものだからだ。しかし、稀に迷い込む外の者や、逆に守られた世界を窮屈に感じて外に出ようとする者がいる。――その時、必要なのが、その世界の秘匿性を保つための力だ」
――“人違い、よ……”
――“あなたとは顔見知りでも何でもない”
不意に、いつかどこかで己が発した言葉が脳裏を過り、弾かれた様にソフィアはレグルスを見た。彼はその視線を受け止めるが、微笑んだまま何も言わない。
――“シンがあたしを忘れない限りは”――……
「――忘れる……力?」
「うーん、惜しい!」
ぱちん、と乾いた指を鳴らす音が、閑散とした港に落ちた。
「正しく言うなれば、“忘れさせる力”――閉ざされた世界を守る為に、長とその血族にのみ与えられた忘却の力さ」
「……」
「君の母君はその力を受け継いでいた。――だから、その血を受け継ぐ君にもその力がある」
明るい緑色の瞳が柔らかく細められ、水色の瞳を映す。少し前まで、中央広場の出来事で混乱しきっていた頭が、徐々に冷えていくのを感じた。
彼の語る話しは突拍子が無さ過ぎて、本来であれば俄かには信じがたいものだ。しかし、それでも、本当にその力がソフィアの内側にあるのだとして――今まで、出会った人や会話をソフィアがまるきり覚えていない事があったのは、その力の矛先が内側に向いていたがために起こった事だとしたら、――そして、先ほどの中央広場での出来事。あれが、その矛先を外側に向けた結果だとしたら……――辻褄が合う。
そこまで考えて、ソフィアは先ほどのレグルスの言葉に引っ掛かりを覚えた。声に出さずに、彼の言葉を反芻し、そして何に違和感があるのか気付いた。
「……“与えられた”?」
呟いた彼女の言葉に、レグルスは軽く目を瞠った。それから「よく気付いたね。そうだよ」と満足そうに微笑んだ。その彼の新緑色の瞳を、ソフィアは真っ直ぐに見つめた。
「与えたのは、……あなた?」
「……どうしてそう思うんだい?」
「あなたの話しぶりだと、あなた自身は“その国”の人ではない事になるわ。でも、そうだとしたら内情を知り過ぎている。そもそも、国の存在を隠すために、その国に迷い込んだ外の人や、国から外に出ようとする人に――忘れさせる力が使われるんだとしたら、それを知っているあなたがここにいるのはおかしいもの」
キッパリと言い切るソフィアに、彼は初めて相好を崩した。
「うん――素晴らしい。……よく導き出したね」
「はぐらかさないで」
「とんでもない。――感心したのさ。……君の言う通り、僕が君のずっとずぅっと昔のご先祖様に教えたんだよ」
しみじみと噛みしめるように語るレグルスに、ソフィアは問うた。
「……あなたは、何者なの?」
「さぁ……永く生きたからね。もう僕も、自分が何なのか分からないんだ。――ただね、――あの頃も、ヴルズィアやテイルラットは同族、異種族関わらず、争いが頻繁に起こっていた。――そんな中、そこだけは本当に美しい国でね。そこに住む人々は、容姿はもちろんだけれど、心も穢れを知らず澄んでいた。……そこを、他の醜い世界から隔離して――どうか、あのまま――ずっと美しいままでいて欲しいと願ったんだ」
「……」
「幸い、その国は一処に留まらずに、常に狭間の世界を漂っている。だから、存在している事さえ隠す事が出来れば、外の世界から守る事が出来ると考えたのだよ」
徐々に地平線へ近づいていく太陽――水面に映る光。それに照らされたレグルスの横顔は、常とは異なり、思慮深い大人のものだった。
――母の事。ヴルズィアの村でレグルスと出会った事。村で全身に受けた傷の痛み。それでも、村の人間の顔は、誰一人として覚えてない。――そして、クナートにやってきた後、たまに訪れた記憶障害。それから……――自然とソフィアの視線は町の中央へ向けられた。
その様子をチラリと横目で見たレグルスは、ほんの僅かに苦笑した。
「本来であれば、その力は言霊に乗せて使うのさ。けれど、君は今まで無意識に自分自身に使っていた。――でも、今回は君自身の心に変化が生じ、矛先を自分に向ける事が出来ず、かといって他人を攻撃する事は君にはおいそれと出来ず。内側で膨れ上がっていた膨大な力が、シン君がきっかけとなって暴発した、といったところか」
「シンが……?」
「そうだよ。気付いてなかった?」
何が、と問う前に、彼は続けた。
「背中の傷もそうだけど――彼の台詞」
「……」
「君のお母さんの言葉と驚くほど似ていて、僕も驚いたよ」
「何故それを知っているの?」
自分でも思った以上に固い声が出て、ソフィアは唇を噛んだ。だが、すぐに再び口を開いた。
「さっき、あなたは……広場にいたの?」
「えー? いたよ、鐘楼の前に」
「嘘よ。近くまで行ったけど、あなたはいなかった。……それに、あたし、さっきの……で、それなのに、あなたはどうしてあたしの事を覚えているの?」
「同じ力を持つ者同士は打ち消し合う――油断さえしなければね」
――“忘れてしまうといいよ”
いつかの日、港の小屋で聞こえた穏やかな声が蘇る。パッと飛び散る鮮やかな朱色の飛沫。そして、首から流れる鮮血の血だまりに倒れている男の姿の鮮明な映像。
――“いやなことは 忘れてしまえばいい”
記憶の中のその声が、目の前に立つ妖精の男のものと確信し、ソフィアは息を飲んだ。
「レグルス……あなた、」
「そして、油断をしていたとしても――力を持つ者は同一の力への耐性が高い」
顔色の変わったソフィアを見て察したのか、レグルスは苦笑して肩を竦めた。
「しかし、あれは仕方のなかった事さ。――でないと、君の身が危なかったからね」
「だ、だからって、……いいえ、それより、そんな事より……どうして、あんな事……――っ」
「君に何かあったら困るのだよ」
表情を改め、彼は微笑んだ。
「――“水底の聖櫃”に納められるべき宝玉」
「え……?」
「世界の境界に歪が生じる予兆として、狭間の国にしか生まれない“稀有な魂の色を持つ者”がそれに選ばれる。……元々、君の母君がそれに近しい色を持っていた。だから、彼女は“特恵”を受けていた」
「……」
「150年前は代用品で賄ったのが良くなかった。――やはり、すぐに綻びが生じてしまった。だからあの時僕はね、君の母君を代替わりに迎える為に捜していたのだよ」
――“特恵”。夢の中で、幼いソフィアを死の淵から呼び戻すために移せばよい、とレグルスが母に言っていた。思い出し、顔を強張らせてソフィアが問う前に、彼は答えた。
「君も薄々気付いているかもしれないが、“特恵”というのはね――ありていに言えば、死なないという事さ」
「え」
脳裏でアトリの知人の女医の言葉を思い出し、思わず疑いの目をレグルスに向けると、彼は至極真面目な顔で続けた。
「“水底の聖櫃”に納められている間。――代替わりまでの期間、棺の中で眠り続ける為に。病気に罹る事はあっても、不慮の事故にあったとしても、死ぬことは無い。――ただ、持っている命の量を増やせるわけでは無い。元々の量を、……そうだなぁ、こう、必要な長さに応じて引っ張って伸ばさざるを得ないというか」
両手でゴムを引き延ばす様なゼスチャーをして見せながら、レグルスは小首を傾げた。
「君は身体が弱いだろう。そして、生命の精霊も常に希薄だ。――それは、“特恵”の恩恵でもあり、弊害でもある」
「!!」
一歩後ずさり、ソフィアは顔を強張らせた。
「あたしが……“特恵”をお母さん、から……奪ってしまったから、お母さんは……」
「それは違う。君の母君は、どうしても君を助けたいと願っていた。……そして、僕にとっても都合が良かった」
「都合……?」
「ああ。……素質から行ったら、君の母君よりも君の方が段違いにある。正に僕の求めていた色。適正と言っていい。――しかし、本来“特恵”は精霊に近い妖精に与えられるものだ。その基準で命を引き延ばすと半妖精――厳密には違うけど、そう言う方が混乱が無いと思うからそう言うけどね? 半妖精の命の元々の量が妖精に比べて少ない。半分か……それ以下かな? だから、それを必要な年月に応じて延ばそうとすると、細く、薄く、頼りないものになる。……それは少し、計算違いだったな」
「……」
レグルスは、村の崖の上で父らしき人間に対峙していた際に、ソフィアに彼女の母が言った言葉を恐らく知っている。――そして、怪我を負ったシンの言葉も、――先ほどの中央広場の様子も。
(――この人の事を、全部信じる事は出来ない。でも……あたしの事を、あたしより知っているのは、多分この人なんだわ)
息苦しさを感じてソフィアは俯いた。
「“特恵”を持つ者が生まれた事は、世界の境界に歪が生じる予兆。――均衡が傾く前に、君は水底の聖櫃に納められなくてはならない」
「水底の、聖櫃……」
「君の母君の故郷――狭間の国に広がる常緑の森。その奥地に水の澄んだ美しい泉があってね。その底にあるのだよ」
「……沈んでいるの?」
「そういう事になるね」
何でもない事のように彼は答えたが、つまり、その泉の底には“聖櫃”が沈められており、そこには誰か――“特恵”を持つ誰かが、死ぬことも叶わず、代替わりまで今もずっと眠っているという事だ。――ソフィアが来るまで。
「さて、少し話し込んでしまったな。もうすぐ日が沈む。――僕は少し後片付けをしてくるから、君はどこかに身を潜めておいで」
「……」
「ソフィア君?」
「……あ、ええ」
「出来るだけ目立たない事。宿屋は今日はやめておきなさい」
「え……ええ」
年頃の女性であれば全力で拒否してもおかしくないのだが、元々自意識が少ないソフィアは気にした様子も無く頷いた。その反応に、レグルスは彼女に気付かれない様に僅かに苦笑した。それから表情を改めて微笑むと、念を押す様に言った。
「この町は早めに離れた方が良いだろう。明朝、日の出の頃に西門に集合しよう。いいね?」
「……分かったわ」
「って、こらこら、今から西門に行こうとしない!」
「え?」
「広場の人達が解散する可能性もあるし、これから暗くなるんだから。明るくなるまでは人が来ない所に隠れて休むといい」
「……分かった」
「本当に大丈夫かなぁ」
「……あなたに心配されるのは何だか心外だわ」
思わずむっとしてから、思い直して納得した。
「……そういえば、水底の……聖、櫃? に納まる前に何かあったらあなたが困るんだったわね」
「困るのは確かにそうだけどね。今話していたのは、君自身の身を大事にして欲しいという事さ」
そう言うと、レグルスはウィンクして身を翻し、去って行った。




