80.夜明け前 ★
「何だよそれ……違うだろ」
しんと静まった空気を、凛としたソプラノが打ち破った。
言葉に詰まって視線を地面に落としたままだったソフィアは、ハッとして声の方へ目を向けた。そこには、シェラやミアの方へ向き、両手を腰に当てて仁王立ちするアレクの姿があった。その整った横顔にはハッキリと怒りの色が浮かんでいる。その感情を向けられた2人は、彼女が言わんとすることが分からずに困惑して顔を見合わせている。
張り詰めた空気の中、アレクが次に口を開く前に、先にソフィアが口を開いた。
「分かったわ。……シンが戻るまで、ここにいる」
「おい、ソフィア!」
むっとした様に振り返るアレクを目で制して、ソフィアはミアとシェラへ顔を向けた。
「ただ、孤児院の中には入らない。……建物の裏手に楡の木があるでしょ、あそこで待機するわ」
「何じゃと? ……それはまるで、私たちがおぬしを締め出した様ではないか」
言外に“悪者に仕立て上げる気か”と言わんばかりに苛立たし気に問われるが、ソフィアは平素の声で答えた。
「いいえ。……あたし、他人が大勢いる場所では休めないのよ」
そのままアレクへチラリと目を向けると、彼女は苦虫を噛み潰した様な表情でガシガシと頭を掻いた。
「それについては私も知ってるし、嘘じゃない。ソフィアがちゃんと休むためには、人気が無い方がいい。それに、ソフィアもそうだけど、子ども達もミアやシェラも、もちろん孤児院のみんなも疲れてるはずだろ。みんな、ちゃんと身体を休めた方が良い」
彼女の言葉は至極尤もなもので、大人たちは誰も反論する事は出来なかった。しかし、レックスやセアラ、オースは不安げな顔で口々に異論を唱えた。
「駄目だよそんなの」
「危ないよ」
「すごく暗いし」
このままでは自分たちが一緒にいると言い出しかねない子どもたちに、アレクがニヤリと笑って見せた。
「ソフィアには私が付き添う」
しかし、それでも子供たちは不満げだ。その表情を見て、アレクはわざとらしく小さく咳ばらいをすると胸を反らして仰々しく言葉を重ねた。
「いいか? 私はな……何と! シンから、留守の間ソフィアを守る事を任されるくらい、ものすごーく強い冒険者なんだぞ! 私が強いのは知ってるだろう? レックス」
「あ、ああ……シン兄も強かったけど、アレクもすごい魔法だった」
「な!」
頷くレックスと満面に笑みを見せるアレクを交互に見たセアラとオースは、納得した様に各々頷いた。成り行きを見守っていたエルシオン院長が「よし、そうと決まったら全員休むぞ!」と口添えし、ソフィアとアレクを残すと全員孤児院の中へ入って行った。
孤児院の裏手にある楡の木の根元までやって来て、ソフィアは漸くまともに呼吸が出来た気がした。幾度か小さく息を吸ってそっと吐き出す。
後からついて来たアレクが僅かに眉を顰めて口を開くが、少し迷ってから何も言わずにソフィアの隣へ少し間を空けた場所に立ち、背中を木肌に寄り掛からせた。
孤児院の窓から漏れる灯りのみで照らされた裏庭は、建物周辺だけが温かくぼんやりとした光があるだけだ。楡の木に背を向けて立ちながら、どこにも寄り掛からずに真っ直ぐに立つソフィアの視線の先――町の西側は真っ暗な闇に飲まれている。
春に近いだけあって、肌に触れる空気の温度は少し肌寒い程度ではあるが、ふとソフィアは大切な事を思い出した。
「アレク」
視線を動かさず、ソフィアは小さく背後にいるであろう者の名を呼ぶ。答えた声は大分眠そうなものだった。
「んー? なんだよー」
「あなたは中で休んだ方が良い」
「……ソフィアは入らないんだろ?」
「……」
「なら、私も入らない」
「アレク」
「いや、ここは折れないぞ。大体なぁ、私がどんだけ冒険者生活長かったと思うんだよ。現役時代なんか、ほぼ野宿なんだぞ。むしろ、ここは地面は柔らかいし木陰だし、妖魔を警戒する必要も無いから、天国みたいなもんだし」
「……アレク、」
木に寄り掛かったまま頭の後ろで手を組んで目を閉じ、動いてなるものか、と言葉を重ねるアレクに、静かな声が重なる。その真剣な声音に、アレクは内心でほんの僅かに驚いて瞼を上げた。少し離れた場所に立つソフィアはいつの間にかアレクの方へ身体ごと向いて立っていた。
「夜が明けるまで、きっとあと数時間よ。ずっと立ったままじゃ身体に良くない」
「なら、ここで横になるよ」
事も無げに言うと、アレクはすとんと腰を下ろすとそのまま横になろうと地面に手を置いた。
「そうじゃなくて、身体を冷やすのは良くないって……」
言いかけて、ソフィアは何かに気付き言葉を切った。その緊張を帯びた表情にアレクは怪訝そうに小首を傾げた。
「どした?」
「……音が、」
言いながら、ソフィアは町の方へ向き直り、両耳に手を添えて聞き耳を立てる。――間違いなく、遠い場所で途切れ途切れに耳慣れない何かの音がする。しかし、ソフィアの耳では上手く聞き取れなかった。
「――駄目。よく聞こえない……でも、こんな夜中に聞こえる様な音じゃないと思う」
「どっちだ?」
いつの間にかソフィアの傍らへやって来たアレクが声を掛けてくる。少し躊躇った後、ソフィアは南の方角を指した。それに頷いて応えると、アレクはそっと精霊へ呼びかけの言葉を紡いだ。
「“精霊よ、彼の地へ赴き、風に乗せてその言の葉を運べ”」
辺りは無風にも関わらず、ふわりとアレクの髪やスカートが柔らかな風に靡き、南の方角へ揺れた。そのままアレクは俯き目を閉じて両耳をそばだてた。――が、すぐにハッとした様に顔を上げた。
「――妖魔だ!」
「え」
「南門が破られている! エルテナ神殿の神官と、多分、南区に残ってた冒険者が応戦中だ」
「――!!」
“エルテナ神殿の神官”
その言葉に、ソフィアの身体が凍り付いた。脳裏にはしばみ色のくせ毛をしたエルテナ神官の女性がソフィアさん、と笑顔で名を呼ぶ姿が過る。――彼女は戦う力など持たない。そう思い至った瞬間、ソフィアの身体に戦慄が走り、気付くと駆け出していた。
「ちょっ おい待て、ソフィア!!」
慌てて止める声が背後で聞こえたが、すぐに小さくなった。
* * * * * * * * * * * * * * *
夜目が利かない為、真っ暗な道を転がる様に我武者羅に走る。暴れまわる動悸で口から心臓が飛び出しそうになるが、それは決して全力で走っているせいというだけではない。あの温かな笑顔、優しい空間、穏やかな時間が妖魔の爪牙に、今正に晒されていると考えると、得も言われぬ恐怖でどうにかなりそうだった。
孤児院は南区の路地を入った場所にある為、間もなくエルテナ神殿へとつながる大通りが見え――すぐに大勢の人垣が目に飛び込んできた。その中に、見知った修道服姿の女性を見つけてソフィアは叫んだ。
「アトリ!」
「えっ あっ ソフィアさん?!」
彼女は振り返ると、吃驚した様に小さな瞳を真ん丸にして声を上げた。ソフィアはそのまま彼女の元へ駆け寄り、素早く彼女の姿を検めた。見た所、怪我は無さそうだ。それを確認すると、一気に脱力してその場にへたり込みそうになる。しかし、近い場所から剣戟と雄叫びが聞こえ、顔を強張らせて再び全身に緊張を走らせる。対するアトリは、息を切らしている少女に心配そうに表情を曇らせつつ、彼女の顔を覗き込んだ。
「ソフィアさん、ここは危険です。春告鳥の翼亭が近いので、そちらへ……」
「っあたしは冒険者の端くれで、あなたは違うんだから、避難するのはあなたの方でしょ」
息を整えながら顔を顰めて言い返すと、アトリは少し迷ってから口を開いた。
「……私は僅かですがエルテナ様のご加護を使う事が出来ます。戦う力はありませんが、冒険者の皆様を微力ですが支える事は出来ます」
「でも」
尚も食い下がるソフィアの言葉を、別の声が遮った。
「アトリ!」
長い黒髪を頭上に束ねた、褐色の肌をした女性だ。その女性は2人に駆け寄るとソフィアに目を留めて「あら? 貴女、確か……」と、軽く目を瞠った。しかし、すぐにアトリの方へ向き直り話を続ける。
「だんだん前線が下がってきてるから神官のラインも後退して。それと、怪我人が出たわ。薬草の手当てじゃ無理。悪いけどお願い」
「はい!」
アトリが大きく頷くと女性は頷き返し、喧騒のする方へ駆け出した。それを追おうとし、しかし足を止めるとアトリは振り返ってソフィアを見つめた。――灰紫色の瞳が心配そうに揺れている。
「ソフィアさんは春告鳥の翼亭へ」
「でも、あたし……っ」
「町の人に戸外へ出ない様、人手を募って呼びかけて下さい。お願いしますね!」
彼女にしてはやや強引に会話を終わらせて、そのままアトリは先ほどの女性の後を追って駆けて行った。
今は日が昇る前だ。確かにこのまま朝を迎え町の人々が目覚めて、何も知らずに家の外へ出たら――答えはおのずと知れる。このままアトリを追って妖魔の近くへ行った所で、囮になる事が出来たとしても、足止めにもならずにすぐに倒されるだろう。
自身の無力さにぐっと歯を食いしばり、ソフィアは踵を返――そうとした。
「ソーフィーアぁ~~」
「?!」
ごつん! と頭上にげんこつが降って来た。反射的にげんこつを食らった場所を両手で押さえ驚いて振り返ると、鬼のような形相をしたアレクが仁王立ちしていた。
「こんのバカ! 何一人で突っ走ってんだ! あぶねーだろ!!」
「う……」
言葉に詰まり視線を落とすソフィアを見て、彼女は少しだけ呆れた様に、だが困った様に柔らかく微笑んだ。
「んで? クナートの人達に外に出ない様に知らせるんだって?」
「え、どうしてそれを」
「耳は良いんだよ」
言いながらアレクは己の片耳を指でつまんでウィンクした。そのタイミングで、ふわりと彼女の耳元の髪が風も無いのに揺れる。――恐らく、まだ先ほどの精霊の力が持続しているのだろう。
「貧民街の人達には風精霊の力で避難を呼びかける事が出来るな。後は家の中の人たちだけど――窓が開いていたりすれば伝える事は出来るけど、この季節に窓あけっぱで寝てる家は無いだろうな」
風精霊は風の流れがある場所にしか存在しない。それは他の精霊も同様で、暖炉などの火の気のない室内で火蜥蜴の力は借りる事が出来ないし、水精霊も同様だ。
つまり、窓を閉め切った無風の屋内ではその恩恵に預かれないという事だ。
「やっぱ人力に頼るしかなさそうだ。となると、冒険者の店に行くのが一番だな」
「近くに春告鳥の翼亭って店があるわ」
「よし、ならそこへ行くぞ! 案内よろしく!」
「待って、孤児院にも知らせなきゃ」
「確かに。……西門に妖魔が出た事は、レックスは知ってるけど、あのまま寝ちまってる可能性もあるしな……って、いや、子どもだし寝るか、普通」
つまり、エルシオン院長も、ミアやシェラも、この夜、町で何が起こっているのか把握していない。そして孤児院はここからやや離れてはいるが、同じ南区に建つ。少し考えてから、アレクは苦い顔をした。
「私が知らせに走った方が良いか。――でもソフィア、いいか? くれぐれもおかしな真似するなよ?」
「おかしな真似って……」
ジト目で反論しようとするソフィアを手で制して、アレクはずずいっと顔を寄せた。
「いーか?! お前が囮になったって、誰も喜ばないんだからな」
西門でアレクへ向かう妖魔を自分に引き付けるように叫んだ事を気にしているらしいアレクはやや不貞腐れた様に口を尖らせた。
「むしろ、怪我なんかした日には、シンが暴走して誰も止められなくなるんだからな絶対」
「……? シンについてはさすがに暴走はしないと思うけど、囮になるつもりは今の所ないわ。時間稼ぎにもならないもの」
いやするだろ暴走! と突っ込むアレクを無視しつつ、ソフィアは続けた。
「人手を募る事が最優先って事くらい分かってる。それに、春告鳥の翼亭はここからすぐ近くだから」
その言葉にアレクは少し思案してから「分かった」と頷くと、ひらりと踵を返して来た道を駆け戻って行った。少しの間見送ったソフィアも、すぐに春告鳥の翼亭へ向かって駆けだした。
走っているとすぐに“剣と鳥”をモチーフにした、春告鳥の翼亭の金属の吊るし看板が見えてきた。
冒険者の店の酒場は基本的に24時間営業の為、1階部分の窓は明々とあかりが灯っている。そのまま入口のドアを開けようとすると、その前に内側からドアが開き、出てきた人物とぶつかりそうになった。だが、寸前で気付いてお互い身を引いた為、実際はぶつからずに済んだ。
「ん? お前……」
出入口に立つローブ姿に長髪の短躯の男は、外に立つソフィアに気付いて軽く目を瞠った。だが、すぐに表情を正すと足早にソフィアの脇をすり抜けて出て行った。
「おい! 待ってくれよルーヴェ! ――あ! えっ? ソ、ソフィア?!」
店の中から先ほどの男を追って来ようとした背の高い赤髪の男が、ソフィアに目を留めて顔を赤らめた。しかし、ソフィアの方は生憎見覚えのない男だ。訝し気に見上げると、更に彼は狼狽えた様に真っ赤になると目を泳がせた。
「どうしたんだ、こんな夜更けに……っ 危ないから中に入ってた方が良いぜ! じ、じゃあ!」
忙しなく言い残すと、「待てって、ルーヴェ!!」と叫びながら去って行く。――先に出て行った男はともかく、後から出て行った彼は半身鎧の背に大斧という冒険者らしい格好をしていた為、南区か西区の応援へ行ったのかもしれない。
だとしたら、既にこの店の冒険者は出払っているかもしれない。その可能性に気付いてソフィアは顔を強張らせた。――ここが駄目なら、他の冒険者の店へ、――例えば、少し西寄りにはなるが、橙黄石の鏃亭などへ向かった方が良いのだろうか。しかし、あの店の店主はどう見ても人畜無害の中年だ。どちらかというと協力というより避難を促した方が良い気がする。
「ソフィアじゃないか! どうした」
「!」
思案していると、唐突に店内から声が掛かった。豊かな黒いアフロの頭髪と無精ひげ、夜にも関わらず黒い色のついたガラスを使った眼鏡を掛けている謎の風貌の男性――春告鳥の翼亭の店長だ。ほんの一瞬呆然としてから、慌ててソフィアは南門が妖魔に破られた事を伝えた。
「ああ、知らせは入ってる。今、店に泊まってたルーヴェとディックを応援に向かわせた。あと、店の連中は町の人間に外に出ない様に知らせに回らせてる」
「!」
既に動いている事を知ったソフィアは瞠目し、それから気が抜けてふらりとよろめいた。ぎょっとした店長がこちらへやって来る。
「おっ おい! 大丈夫か?」
「え、ええ……問題ない。……ここの店の人達だけで足りるの?」
「先に他の冒険者の店にも連絡を取った。――けどな、どうも西区でも何かあったらしくてな……西寄りの店の連中は出払っていた」
「え」
(まだ西区での戦いが続いているの?)
キャロルの魔法で強制転移される直前に見た、深緑色の外套の背中が脳裏を過り、ソフィアは表情を強張らせた。それに気付かず、アフロ店長は腕組みをして首を捻った。
「それに昼間もな、南区で珍しい妖魔が出たんだ」
「昼間?」
「ああ。居合わせた冒険者達で応戦して事なきを得たんだがな」
「……」
昼間に町の近くに妖魔が出ていた事を知らなかったソフィアは顔を顰めて黙り込んだ。その様相を見てアフロ店長は訝し気に尋ねた。
「ソフィアは南区で応戦中の誰かから伝令を頼まれたのか?」
「あ、ええ……アトリに、町の人々に避難を促す為に、まずは冒険者の店で人手を募る様にって……」
「なるほど、アトリか」
そう言うアフロ店長の表情は柔らかかった。
「まさか、こっちがもう動いてるのを知っててあの人――」
「知ってたのかどうかは知らんが、いずれにせよお前さんを安全な場所に避難させようと考えたのかもしれんな」
「……」
「ま、この店は俺が残ってるから、お前さんは入って――」
「いえ、でも……あたしだけのうのうとしてる訳には」
「しかし、行っても仕方ないだろう? ここに残ってもらえりゃ、場合によってはまた伝令に出てもらうかもしれない訳だし、俺としても助かるんだがな」
「……」
反論に詰まって黙るソフィアの顔を覗き込んで、アフロ店長はニヤリと笑った。
「なぁに、もうすぐ夜が明ける。そしたら妖魔共も引くだろ」
「そうなの?」
「多分な。元々妖魔は日の光は好きって訳じゃない。それに、本来なら人間が大勢いる場所に好んでやって来る妖魔もいない」
「じゃあ、何故今回は町に来ているの?」
「それは分からんが……明るくなったら人間が大勢住む場所からは引くのが奴等の定石さ」
言いながら彼はソフィアを店の中へ促し、ドアを閉めた。
「それに、見た所お前さん顔色最悪だぞ。店の中で座って少しは休め」
がらんとした酒場内の椅子を指し示し、店長はカウンターへ入って鼻歌を歌いつつ何やら手を動かし始めた。その様子をぼんやりと眺めてから、ソフィアは躊躇いがちに椅子に腰を下ろした。――座った瞬間、どっと疲れが押し寄せてくる。机に突っ伏しそうになるのを何とか堪えつつ、ソフィアは考えを巡らせた。
(レグルスと話をしてから……どのくらい時間が経ったのかしら。多分……倒れる瞬間に聞こえた、あたしを呼ぶ声は――シンよね。それで、そこから……あたしがなかなか目覚めないから、一人放っておくわけにもいかずに、孤児院に頼んだ……ってところなのかしら)
椅子の背もたれに寄り掛かったらそのまま泥の様に眠ってしまいそうな気がして、ソフィアは背筋をピンと伸ばしたまま両手を膝の上に重ねた。その手に視線を落とし、ソフィアは次に夢で見た事を順に思い起こした。夢にしては鮮明過ぎるそれは、目を閉じればすぐに映像として再生出来そうなほど現実的で、生々しいものだった。――崖の下で、頬に落ちた雫の温度を不意に思い出し、ソフィアは己の頬をそっと指でなぞった。
(……あの時……あたしは、多分、瀕死だった)
――“いっては駄目……”
ありありと思い起こす事が出来る、悲嘆にくれる声。“特恵”を移す、とレグルスは言っていた。そして、彼女はそれを“諾”とした。――そうする事で、己が瀕死の淵から蘇り、その代わりに母である妖精の女性が死に至り、――そして今、己が生きているのだとしたら、
(……あたしは……死な、ない?)
そう考えてから、そんな馬鹿なことは無い、と頭を振る。長命な妖精であっても、その命は有限だ。――もっと言えば、火蜥蜴や水精霊などの精霊であっても生まれては消え、を繰り返している。そんな世の理に反する様な現象が己の身に起こっているとは考えられない。――ならば、“瀕死の傷でも死なない”が妥当だろう。
(でも、そうだとしたら、“特恵”とは何なのかしら)
「おいソフィア、俺は休めっつったんだけどな……滅茶苦茶深刻な顔で考え込んでるじゃないか」
ハッと顔を上げると、アフロ店長が傍らに立っており、苦笑してソフィアの前に温かい湯気の立つミルクを置いた。
「疲れてる時に考え事しても、良い事無いぜ。こいつは伝令の礼だから代金不要だ。これ飲んで次の仕事があるまでちゃんと休め」
「……」
黙ってミルクの水面に視線を落とすソフィアに、店長は穏やかな声で「休むのも仕事の内だぜ?」と続けた。確かに、いざとなった時に疲労で動けない、反応が遅れた、等といった事があっては、孤児院に伝令に走ってくれたアレクにも申し訳が立たない。
「……分かったわ」
「栄養も補給する」
「……ええ」
「俺はカウンターにいるからな」
遠回しに“休むところは見ないから安心しろ”といったところだろうか。そういうと彼は言葉通りスタスタと元いた場所に戻り、洗った食器を布巾で拭き始めた。
この店にはまだ戦いの音は聞こえない。静かな店内で、アフロ店長の仕事の僅かな音だけがたまに耳を打つ。
温かいミルクにはほんの少し甘さと、独特な香りが加えられていた。少しずつ飲むと空っぽの胃袋からじんわりと熱が巡り、半分ほど飲んだ所でソフィアの意識はゆっくりとおぼろげになって行った。




