78.折衝
痛々しい描写、死を匂わす描写があります。
苦手な方はご注意ください。
――――仄暗い闇の中、
そこは右も左も、更に言えば上も下も、その広さも分からない。
その中に彼女ソフィアは確かに意志を持って存在しているはずなのだが、
その輪郭は本人ですら判別出来ないほど溶け込み一体感を持っていた。
漫然と辺りを見回す。
だが、果たしてそれは実際行えたのか、それとも「つもり」だったのか。
いや、それよりも、
今ソフィア自身は立っているのか横たわっているのか。
それすらも分からない。
* * * * * * * * * * * * * * *
――どこかの村の入り口。
昼間だと分かるのに、薄暗い曇天。
己の右手を握る、細く華奢な白い手。
「子どもって……ハハ、冗談だろ?」
乾いた笑いを含んだ男の声に、繋いでいた手の平からみるみる温度が失われるのが分かった。
恐る恐る、細い腕を辿って見上げた先には、紙のように白い顔色の妖精の女性がごっそりと表情が抜け落ちた様な顔で立っている。そして、対峙しているのは――顔のよく見えない男だ。
「冗談、なんかじゃ」
「やめてくれよ、いつの話しだよ」
「でも」
「帰ってくれ。村の連中に見付かる」
煙たがるような口調の男に、何へ対してなのか分からないが望みを捨てきれないらしく、しゃがれた声で女性は懇願した。
「お願い……私には、あなたしか頼れる人が……」
「馬鹿を言わないでくれ!」
全てを拒絶するような語気の荒い声に、恐怖を覚えて反射的に肩が跳ねた。慌てて握りしめた手に縋るように顔を寄せようとしたが、その白い手が小刻みに震えていた為、出来ずに俯いた。
しばし、沈黙が訪れる。
どうしようもない不安に駆られ、再び握っている手の主を見上げようとした時、周囲にざわめきが起こった。いつの間にか、男の後方に現れた人影達が密やかな声を交わし始める。
「おい見ろ、あの女が連れている子どもの耳……」
「嘘だろ」
「忌まわしい」
「半妖精だ」
「この村になんと悍ましいものを」
悪意が囁き声と共にじわりじわりと流れ込み、空気ごと心を蝕んでいく。肌の表面がピリピリと痛む。ざわつく心に顔を歪めて震え上がると、ようやく異変に気付いた妖精の女性が僅かにこちらへ目を向けて気丈に微笑んだ。
「大丈夫、大丈夫よ」
その優しい声が、全身を包み込むように上から降り注いでくれたおかげで、詰まっていた息を吐き出す事が出来た。強張っていた肩の力が抜ける様子を確認してから、妖精の女性は先ほど憤っていた男と、周囲に向けて凛とした声で告げた。
「分かりました。お騒がせして申し訳ありません。この子を連れてすぐに出て行きます」
頭を深く下げ、顔を上げて――こちらを向いて彼女は水色の瞳を柔らげた。そして、彼女が「さ、行きましょう」と声を掛けた、正にその時だった。
「消せ」
低い怨嗟の声に、え、と漏れた小さな声。果たしてそれは、己の声だったのか、それとも――妖精の女性のものだったのか。
一瞬の間の後、打ち寄せるさざ波の様に周囲からどよめきが起こった。
「村の恥だ」
「消せ」
「村の外に出すな」
「消せ」
「混ざりものを残すな」
「消せ」
「この村から半妖精が出た事実などない」
「消してしまえば」
「逃がすな」
――消せ、消せ、消せ、消せ――
「――!!!」
膨れ上がる負の感情に硬直する己の身体を、妖精の女性の細腕が抱え上げ、弾かれた様に走り出した。
「追え!!」
抱き上げられたまま見える視界には、森の木々。そして見え隠れする人影。
木々、人影、木々、人影――繰り返される光景。
だが、――徐々に人影との間が狭まっているように感じて、恐ろしさに慄き思わずしがみつく手に力がこもる。
「大丈夫。あなたの事は、私が、必ず守るわ。――絶対よ」
息を切らしながら耳元で聞こえる優しい声。無条件に安心出来るその声に、小さく頷き返した――その時、
「あっ」
肩で息をしたまま、妖精の女性はたたらを踏んだ。慌てて彼女にしがみ付きつつ自分も首を捻って進行方向を見ると、行く先の地面が途切れている事に気が付いた。――崖だ。
抱き上げられたまま見下ろすと、遥か遠い眼下に地面が見える。そのあまりの高さに怖くなり、泣きそうな顔で己を抱き上げている女性を見上げると、彼女は懸命に笑って見せた。
「大丈夫。他にきっと道があるわ。幸いまだ誰も追いついて……――!!」
途中で途切れた声。――そのまま彼女は崖の方へよろけた。驚いて彼女の顔を見ると、彼女は背後を振り返っており、その表情は驚愕と絶望に染まっていた。震える唇からはか細い声が漏れる。
「あ、な、た……」
「お前が悪い」
反射的に声の聞こえた方へ目を向けると、先ほど、最初に怒号を上げた男らしき人物が片手に弓を持ち佇んでいた。
「お前が来なければ、こうはならなかった。……大体、何でだよ。何で来るんだよ」
「どう、して」
「それはこっちの台詞だろ? 俺にも生活ってものがあるの、分からないのかよ。急に……子どもって、しかも、よりによって半妖精を連れて来るとか……意味わかんねぇよ」
「……」
交わされる言葉は、己にとっては漠然とし過ぎていてよく分からなかったが、それでも――男の言葉は妖精の女性を傷付け、ひどく悲しませている事は分かった。
「やめて。かーたん、いじめないで」
口に出してから、己の口から出た言葉だと気付いた。
「いじめる? ――ハ! いじめられてるのはこっちだ! これから俺は、あの村でどれほど肩身の狭い思いで生きる事になるか、ガキには分からないだろ! この女が村に来たせいで、俺はあの村では結婚すら出来ないかもしれないんだぞ? 親の耳に入ったら……いや、もう耳に入ってるだろうさ。……たかだか、ちょっとした遊びだったのに、ひどい代償だ」
遣る瀬無い悲しみが滲む声は、自分自身を憐れむものだった。――この男が何者かは分からないが、嫌悪の気持ちが沸々と腹の底から湧き出してくる。こんな人放っておいて早く逃げよう、と己を抱き上げたままの妖精の女性へ顔を向ける。しかし、彼女の顔色を見て固まる。――酷い土気色をしており、唇は紫だ。
「かーたん」
再び己の口が動く。
「やめて……駄目よ」
発せられた震える声は、己に向けてではなく、2人から離れて立つ男へ向けてのものだった。困惑してそちらへ目を向けると、男は弓に矢を番えている。――矢尻は己へ向けられているように見えた。それから庇う様に、妖精の女性は己を深く抱き直した。その拍子に見えた彼女の背中には、既に1本の矢が深々と穿たれており、彼女の背中側の衣服に赤い染みが広がっていた。幼い己にも分かった。――最初に追いつかれた時、あの時に既に一矢を受けていたのだ。
広がる赤い染みの量で、どれほどの酷い手傷を負っているのか、幼い己に図る事は出来ないが――それでも、相当に痛みがあるはずという事は分かった。抱き上げる腕越しに、震えが伝わってくる。慌てて「降ろして」と口に出そうとしたが、それより先に彼女が言葉を発した。
「どうしてもと言うなら、私だけにして」
「それじゃ、意味がないだろ」
冷たく言い放たれた返答。
そして、放たれる矢。
「お願い、やめ……」
直後の軽い振動。
揺れる景色。
反転する天と地。
己を抱える、温かく大きな腕
――――呼ぶ 声
次に瞼が開いた時、世界は傾いていた。
視界に映るのは半分はどこまでも続くような抜けるような青空。
そしてもう半分には、――視界を遮るようにある人影。
「ああ……駄目、駄目よ……いっては駄目……」
ぽたぽたと温かな雫が顔面に降り注ぐが、視界がぼやけて良く見えない。
「助けて……誰か助けて……私はどうなってもいい。どうか、お願い……」
「協力してあげようか」
不意に、別の声がした。
――歌声のような軽やかなそれは、女性の嘆きを全く意に介していない、朗らかなものだった。
「だ、誰……?」
「分かるだろう?」
「……っあ、……あ、貴方、は」
「うんうん、お利口さんだね」
あやす様な口調が、不意に低い囁きに変わる。
「君の持つ“特恵”をその子に移すのさ」
「……!」
「人間と妖精の狭間の者であっても、恩恵にあずかる事は可能だろう。――だが、同時に、束縛される」
「それは……」
「この子は常に付きまとわれるだろう。運命に、そして妖魔を含む、闇の者に」
「……」
「そして、最終的には“ここで終わっていた方が良かったと思えるような未来”に縛られる。そうしたら、何故身代わりにしたのだ、と、君を恨むかもしれないよ?」
柔らかい声音で発せられる残酷な言葉に、妖精の女性はひゅ、と咽喉を鳴らして息を飲んだ。
「だが」
更に一段と声を低めて、彼は笑みを含んだ声で言った。
「このままでは、そんな未来すらこの子には訪れない。――さぁ、どうする?」
低く美しい声は、まるで悪魔が人心を惑わす際のような甘美さがあった。――いや、これを“諾”とすれば、恐らく大きな代償に泣き喚いて後悔しても、もう戻る事は出来ないだろう。――そういった意味では、正に悪魔の取引そのものだったのかもしれない。
しかし、彼女は長くは迷わなかった。否。迷う時間の猶予は無かった。己が腕に抱いた幼い我が子の命が刻一刻と死の淵へ近付いているのだ。
「構わない……構わないわ。この子を助けて、お願い……!!」
「――承知した」
* * * * * * * * * * * * * * *
世界が暗転し、気が付くと知らない妖精の男に手を引かれ、村の前に立っていた。
前回村へ訪れた際は、早々に怒号を浴びせて来た男は、己の顔を見て驚愕の表情を浮かべたまま腰を抜かした。――疎らに立っている村人達は各々眉を顰め、何かを囁き合っている。
「やぁやぁ、諸君! ごきげんよう! 勢ぞろいのお出迎え、痛み入る!」
場にそぐわない朗らかな声が響き渡り、そこかしこから「今度は何だ」と言わんばかりの視線が2人に降り注ぐ。しかし、全く意に介さずに妖精の男は大仰に天を振り仰いだ。そして次の瞬間、空気を凍り付かせた。
「いいかい? 僕はね、所謂――“目撃者”というものさ。事の顛末、見届けさせてもらったよ」
明るい笑顔のまま、彼は周囲を見回す。
「大変だよねぇ、恐ろしいよねぇ……エランダの自警団の耳に入ったら処罰はもちろん、周囲の町や村からの評判もひどいものになるだろうねぇ。この村で作られた作物や工芸品など、だぁれも買ってくれなくなるかもしれないものねぇ?」
うんうん、と軽く頷きながら放たれる言葉に、先ほどまで腰を抜かして地面に座り込んでいた男が激高して立ち上がった。
「あんた、何が言いたい!! 脅しか?!」
「あっはは☆ そう聞こえた? ――そうだね、これは脅しさ」
言葉の半ばから、彼の声は急激に冷えたものに変化した。
「この子はね、出来るだけ人目に触れてほしくないのだよ。――君たちのやらかした事を露呈したくなければ、この子をこの村においておきなさい」
「半妖精を?! 冗談じゃ……」
「選択肢を与えたつもりは無いんだがなぁ」
微塵も温度の感じない、冷ややかな声がぴしゃりと男の声を遮る。
「……今回の事はね、僕も多少は腹が立っているのさ」
口元は笑みの形を浮かべるが、明るい緑色の瞳は刺す様な視線を周囲へ向ける。
「君たちに世話をしろとは言わないよ。村の奥に小屋か何かあるだろう? そこを貸してもらえれば構わないさ。迷惑料のつもりは無いが、多少の金銭もお渡ししよう。――ああ、しばらくの間は僕、定期的にここに訪れるから。おかしな事はしないでいただきたい」
言い切ると、彼らの返答を待たずに妖精の男は手を引いて歩き始めた。
村の奥、人家から離れた場所にぽつんと建つ小屋の前に来ると、彼は手をとったまま目の前に片膝をついた。
「すまないね……僕がずっと付いていられればいいのだろうが」
自嘲気味に笑ってから、彼は口の中で小さく「僕は悪目立ちするからね」と呟いた。それから誤魔化す様に肩を竦めてから、改めて繋いでいた手にもう片手を被せた。
「いいかい? 君は僕がいない間、恐らく随分と辛い目に遭うだろう。――だが、先ほども言った通り、僕が君を連れて行く事は出来ない。だから、君はこれからはこの小屋で頑張ってお過ごし」
「……ひとりで?」
「そうさ。……たまに僕も顔を出すけどね」
「いや。ひとりはいや」
「んー……まぁ、仕方ないよ。――君が選んだわけでは無い道だが、これも運命さ」
両手で握った手を優しく撫でた後、彼は表情を改めてじっとこちらを見た。
「――いいかい、よくお聞き。」
「? なぁに?」
「君のいるこの村のずっと北に、“奈落の滝”と呼ばれる場所がある」
「ならく……のたき?」
言いづらそうに鸚鵡返しをすると、彼は少しだけ表情を和らげて頷いた。
「そうだよ。“奈落の滝”。――そこは“ここではないどこか”に通ずる道だ」
「ここではない……?」
「ああ、そうだよ」
「じゃあ、どこ……?」
「それは……秘密さ」
クスリと笑って、彼は握っていた手を離した。
「いいね、よぉく覚えておくんだよ」
――そう言って別れた妖精の男性は、当初は言葉通り数週間置きに訪れていた。だが、やがて数ヶ月置きになり、――そして、いつしか姿を見せなくなった。
* * * * * * * * * * * * * * *
小屋で暮らし始めた当初は、人寂しくて幾度か小屋の外へ出た。だが、向けられる憎悪の念に、そして実際に与えられる石礫、火かき棒や薪割り斧で受けた痛みや焼ける様な熱さに、すぐに寂しさより恐怖が勝る様になり、向けられる悪意に意味も分からず怯えて長い日々を過ごした。
――そして、いつしか心身の痛みにすら慣れ、望みという存在を諦め、ただ漫然と生きるだけになった。
村人たちもこの小さな半妖精に対し、徐々に恐怖を募らせていた。
普通の幼子であれば確実に動けなくなり、そのまま衰弱死するであろう怪我を負っても、しばらくすると怪我の痛みはあるようではあっても、命に別条がないまでに回復しているのだ。まるで、自分たちの知らない呪いか、或いは人知を超えた力で“生かされている”かのように。
いずれ、この不気味な生き物が、村人たちが手出しした事に対する仕返しに怪しげな呪いを掛けてこないとも限らない。――その様な噂がまことしやかに広がり、彼らは震え上がった。
だが、数年が経つ頃には、村人達は何故か“この村に半妖精などいない”と本気で思う者が増え始めた。――それは“嫌なことを忘れたい”という生理的な反応だったのか、それとも違う意味があったのかは今となっては分からない。
いずれにせよ、徐々に幼い半妖精の事は、話題に上がる事自体が減っていった。
その頃には半妖精の子どもの方も、己が人目に触れる事は良くないと察し始めたらしく、昼間は小屋からは出て来ず、夕方から夜に掛けてたまにふらりと出歩くのみとなった。
仮に偶然、村人達が半妖精の姿を目にしてしまったとしても、見なかった振りをするようになった。
たまに思い出したかのように、小屋の外で悪意のある言葉が交わされる事もあったが、かといって実害を被る事は無く、ただ時間だけが過ぎて行った。
――あの、流行り病が発生する日までは。
* * * * * * * * * * * * * * *
薄暗い部屋の中、ゆっくりと上体を起こしたソフィアは、上掛け布にぽたぽたと雫が落ちるのに気付いてそれに触れた。――それから、己の頬に手をやって漸く、自分が泣いているのだと気付いた。
「……思い出した、」
お母さん、と続けようとして、慣れない響きに戸惑い、音にならずに消えた。
しんと静まり返った見知らぬ広い部屋。僅かに灯った灯りの中で見えた荷物は、ソフィアとシンの背負い袋だ。不意に、階下からは途切れ途切れに子どもや大人の楽しそうな笑い声が聞こえる。ソフィアは、ここがどこなのか気付き、表情を強張らせた。
「なぜ……」
ポツリと漏らした疑問の言葉を言い切る前に、予想がついた。――大方、シンが倒れた己を宿に置いておく事が出来ず、ここに連れてきたのだろう。
小さく息を吐き項垂れると、徐々に自身が倒れた経緯を思い出し始めた。
「……レグルス」
呟いた途端、今ほど見ていた夢が脳裏に蘇る。
母の死。
偶然通りすがったレグルス。
“特恵”
あれは、夢であり、夢ではない。握った手の温度、肌を刺す悪意、耳元を過ぎる風の音、頬に落ちた雫の暖かさ――あれは間違いなく、ソフィアの中に眠る、彼女自身の記憶だ。
そこまで考えてから、彼女の脳裏に不意に過去の出来事が思い浮かんだ。
この町に来たばかりの際、南の森を散策中に妖魔に襲われた。そして、東の村テアレムに現れた中級妖魔達も、ソフィアに気付くと真っ直ぐに向かってきた。
――あれは、本当にただの“己より弱いものを襲う”という妖魔の習性だろうか? 夢の中で母と思わしき妖精にレグルスの言っていた言葉が本当の事だとしたら?
嫌な予感に、ソフィアの顔から血の気が引いた。
――“この子は常に付きまとわれるだろう”
――“運命に、そして妖魔を含む、闇の者に”
だとしたら、
(ここにいてはいけない……!!)
素早くベッドから降りると、ソフィアは己の姿を見下ろした。締め付けは緩められているが、幸い服はいつもの生成りのワンピースのままだった。急いで腰のリボンを背中側で結ぶと、ベッドサイドに揃えて置かれている長靴を履いた。それから先ほど確認した荷物の方へ行き、自分の背負い袋を手に取ると窓へ向かって移動した。
極力音を立てない様に気を配り、鎧戸を開ける。すぐ目の前に庭木の枝が伸びているのに気付き、手を伸ばして強度を確かめる。――ソフィア程度の体重なら十分支える事が出来る立派な枝だ。いつの日か、南の森でサルナシの実を取る為に枯れ木に登り、途中で立ち往生した事を思い出す。――あの時とは違う。アレクに狩人の身のこなし方を教わっている。
窓枠に手を掛けた際、ほんの僅かに躊躇いチラリと室内へ――置かれたままのシンの背負い袋に目を向けた。だが、振り切る様に小さく首を横に振ると、ソフィアは窓から楡の木の枝へ向かって跳躍した。




