6.2つのお願い
予告どおりに行かず><
今回は少し短めです。
――――春告鳥の翼亭を出た後、人目を避けるように路地を歩き、迷いながらも何とか夕暮れ時にはエルテナ神殿に戻る事が出来た。
ようやく辿り着いた神殿の前で、門柱に寄りかかり小さく息を整える。
(半日も迷ったわ……この町、広すぎ。……でもまぁお陰で少しはこの町の道が分かったけど。)
踵が痛い。恐らく生まれて初めて出来た「靴擦れ」だ。
長時間歩く……どころか、「靴を履いて歩く」事すら、初めてなのではなかろうか。小屋の中で過ごしていた時は、凍える季節に足先が辛くて、藁やボロ布を巻いてはいたが……
そう考えると、随分と贅沢をしている気分になる。チラリと視線を落とし、アトリがこの神殿を出る際に用意してくれた長靴を見つめた。薄茶色のなめし革で履き心地重視のシンプルなデザインで、ワンポイントで履き口の後ろに紫色のリボンが結ばれている。
(これも、バザーに出す為のものだったのかしら……)
いずれにせよ、借り物なのだから返さなくてはならない。少し名残惜しい気持ちがあるのは、この長靴が気に入ったというよりも、初めての靴を履いて外を歩いた――いわば記念のような靴だから、何となく名残惜しさを感じているのだ。
(だからといって、借りっぱなしってわけにもいかないわね)
小さく首を横に振り、あっさりと諦める。元々、彼女は物に対する執着心が薄い。
「持っていない」のが当たり前なので、手元におきたいとは思わないのだ。
神殿の門をくぐり、アトリに今夜から冒険者の宿を取る事を告げると、彼女は持っていた驢馬の餌を盛大に神殿の床にぶちまけてしまった。
「まだここで過ごされて良いんですよ?!」
あうあう、と口を戦慄かせつつ、アトリは涙目になっている。
「い、いや……そこまで面倒は掛けられないから。」
「面倒などではないですよっ」
「わ、分かった。面倒……じゃなくて、えーと……迷惑を」
「迷惑でもないですー!!」
わぁぁん! と、とうとう泣き出した。ぎょっとしてソフィアは後ずさった。
(え、ええええええっ なんで泣くのっ? あたしのせい??)
滝の様な汗を流しつつ、どうしよう、とそわそわとしていると、
「アトリ! あなた、神殿の廊下に何を広げているのです?!」
濃紺一色の修道服を身に纏った4~50代ほどの年嵩の女性が、早い歩調で2人へ近付いてきた。キビキビとした口調と身のこなしで、細くつり目がちの目を更に吊り上げている様子は、かなり迫力がある。
「あわっ 侍祭様……っ」
泣き顔を両手で覆っていたアトリが、ぴょっと飛び上がり、声を掛けてきた女性―――エルテナ神殿の侍祭――司祭の補佐役として事務、雑務を采配する役職を指す――の方へ向き直った。
「も、申し訳有りませんっ すぐに掃除します!」
当然です、と厳しい視線をアトリに向けて言ってから、その女性はソフィアに気付く。
「あら、貴女は……動けるようになったのですね。それでも、あまり調子はよろしくない様子。当てがないのであれば、遠慮せずに神殿に滞在なさいね」
やや表情を和らげてソフィアへ声を掛けると、すぐにアトリをじろりと見やる。
「ホラ、貴女はさっさと仕事なさい!」
「は、はいぃっ ごめんなさい!」
特に長々と苦言を言うつもりは無いらしく、そのまま侍祭は颯爽と去って行った。その姿を見えなくなるまで見送ってから、アトリは申し訳無さそうな顔でソフィアへ向き直る。
「ごめんなさい……動揺してしまって」
「い……いえ、別に……」
こんな時、何と返して良いか分からず、無意味な言葉しかでない。それがどうしようもなく悔しくて、ソフィアは俯いた。
「冒険者の宿……――という事は、春告鳥の翼亭へ泊まるのでしょうか?」
「まだ決めてはいないけど、知っているのはそこだから、ひとまず今日はそこへ泊まるつもり。」
そうですか……と、アトリはそっと睫毛を伏せて、吐息の様に呟いた。
豊穣の女神に仕えているからか、アトリは非常に情が深い女性の様だった。ソフィアへ対しても、心からの心配と労わりの心を持っている事が、誰の目から見ても明らかだ。
当事者であるソフィアも同様だった。少し言葉を探すように目を泳がせてから、躊躇いがちに声を出す。
「――あなたには世話になったわ。……すぐには無理だけど、いずれ、きちんとこの恩は返すから」
ばつが悪そうな、歯痒そうな、もどかしさの篭もった言葉だった。
「恩、ですか…?」
きょとり、と目を丸くしてアトリは小首を傾げる。それから少し思案し、「では」と続けた。
「もしそのように感じてらっしゃるのであれば、わたしのお願いを2つ、聞いていただけませんか?」
「お願い?」
「はい」
にこにこと、既に涙が乾いた瞳を輝かせてアトリは頷く。
「……それ、あたしに出来る事?」
「ええ! もちろん!」
「――――分かったわ。何?」
「ええと、まずは1つめ。春告鳥の翼亭で一番安いのは大部屋ですが、必ず部屋は“個室”を取ってください。」
「え?」
意味が分からず、思わず聞き返す。
「個室です。―――大部屋は安いですが、不特定多数の方々と共に眠る事になります。ここ数日、あなたが意識を失っている間ですが、それでも、あまり熟睡出来ていない様子でした。――あなたは、無意識の状況ですら、気を張っているんです」
じっと真摯な灰紫の瞳がソフィアを見つめる。
「これから寒くなります。その前に、少しでも体力をつける為にも、睡眠は大事です。―――いいですね? 宿は“個室”です」
「それって、あなたのお願い?」
「はい、“お願い”です。わたしがそうして欲しいんです」
「……―――2つ目は?」
応えず、次の“お願い”を促す。
「2つ目は、あなたが履いてらっしゃる長靴です」
「えっ」
思わずソフィアは、足元に目線を落とした。
「その長靴は、わたしがこの神殿に入る際、父が持たせてくれたものです。ですから、わたしの私物です。神殿に仕える以上、本来私物は持たないのですが、一度機会を逃してしまって、ずっとわたしの手元にありました」
顔を上げてアトリを見ると、彼女は少しおどけた様に笑って言った。
「今更、侍祭様にばれてしまうと、叱られてしまうんです。どうか、その長靴をもらってやってくれませんか?」
驚いて反論出来ずに固まっていると、更に念を押す様に言葉を続ける。
「これが2つ目の“お願い”です」
「そんなの……」
「ふふ、侍祭様、怒ると怖いんです。ですから、ね? わたしを助けると思って。―――そうして頂けたら、わたしには十分、恩を返した事になります」
詭弁だ、とは分かったが、それ以上にアトリの気持ちが、ソフィアから拒絶の言葉を奪った。
かなり長い間迷ったが、結局ソフィアは、アトリの2つの“お願い”を受け入れたのだった。
* * * * * * * * * * * * * * *
――――その夜、春告鳥の翼亭で、アトリとの約束の通り「個室」をとった。一応、店員に頼み込んで一番狭くて一番安い部屋を、ではあるが……
宿代をツケにする為には冒険者登録が必須だったが、冒険者の宿は部屋を取る際にその申請も行う事が出来た。
とはいえ、シアンが言っていた通り、そうそう冒険者への依頼などは来ない。来たとしても、他の町へ向かう商隊の護衛など、ソフィアの身の丈にあわないものばかりだ。
――――そうこうしている間に、ツケがたまる一方、何も仕事が無いまま、あっという間に3日が経過したのだった……
次のお話しは、今日中には投稿予定です。