3.港町クナート【挿絵あり】
――――目が覚めたら、異世界でした。
……などと、俄かには信じがたい話だったが、アトリが嘘をついているようにも思えなかった。
ここは、テイルラットという世界にある、港町クナート。
北に大きな港がある交易が盛んな町で、人口も多い。また、陸路の妖魔相手の戦闘や、商隊の用心棒や護衛を担う要員――いわゆる「冒険者」も数多く逗留しており、南区には何軒も専用の宿が建っているという。
目が覚めた直後は、全身の痛みとだるさでまともに動く事ができなかったが、翌日には何とか起き上がることが出来るようになった。
ぐっすり眠ったお陰で――と言いたいところだが、生まれてこの方、熟睡した事などない。だから、どちらかというと“何度か、意識を失っていたお陰”といったところだろうか。
動けるようになってから、アトリからお湯を借りて、少なくとも人前に出ても気にならない程度には、身支度を整えさせてもらった。
服は「神殿のバザーに」と誰かから寄進されたという、生成りの布地を使ったシンプルな形のワンピースを、アトリからやや強引に進呈された。……アトリは結構、押しが強いところがある。
「子ども用で寄進いただいたのですが、柄物の方が人気なんですよ。だから、バザーに出しても残ってしまう可能性の方が高いんです」
湯上りのソフィアの髪を嬉しそうに梳きながら、アトリは至極尤もらしいことを、笑顔で言い切る。困惑した面持ちで、されるがままだったソフィアだが、一瞬の間を置いて聞き捨てならない台詞に気付き、不貞腐れた表情で呟いた。
「……ちょっと。子ども用って――あたし、成人してるんだけど?」
「えっ?……ええと」
ソフィアの言葉が聞こえたのか、髪を梳く手を止めてアトリの目が丸くなる。そして、躊躇いがちにそっと声を掛けてきた。
「あの……――テイルラットの成人は15歳なのですが」
「あたし、15…16歳、くらいよ! 数えていたから分かるわ?」
思わず、むすっと不貞腐れた様な顔になる。
「――数えて?」
ぽつり、とアトリが反芻する。
その後、何故かアトリは何とも言えない様な、悲しそうな表情を滲ませた。しかし、すぐに表情を改めて柔らかく微笑んだ。
「そうですか。でも、ならば尚のこと、丈が合う服があってよかったです。せっかくなので、もらってやって下さい。これも何かの縁です」
言いながら、器用にソフィアの長い銀髪を結い上げようとし、
「あら?」
ふと、手を止めた。
「?」
不思議そうにアトリを顧みると、櫛を手に何やら思案している。
「なに?」
「……あ、えっと、そうそう。この町には大きな冒険者用の宿が何軒もあります」
「え?」
「他の町や、国に詳しい方なら、きっと冒険者宿に集まるでしょうから、行ってみたらいかがでしょう?」
「……?」
(なんか……あからさまに、話題が逸らされた気がするんだけど)
疑わしげにアトリを見ると、彼女は慌てたように髪を結い上げようとし始めた。――隠し事が出来ない人種だ。その分、信用とまではいかなくても、悪意を持っている事はないと思うことは出来た。疑り深い自分がそう思うくらいなのだから、彼女の様な人物は、神殿に仕える人間としては正にうってつけなのかもしれない。
「髪は自分で結えるわ」
言いながら少し身を引くと、分かりました、と、あっさり頷いて、アトリは櫛をソフィアに手渡した。
「冒険者の宿ですが、まずは南の大通りに面した“春告鳥の翼亭”がよろしいかと思います。比較的、穏やかな方が多く集まられる宿ですし、わたしの知る方々は、みんな親切な方ばかりですよ」
ソフィアが自ら髪を結っている間、アトリが言葉を続ける。
頭の高い位置に、両側に流すような形で器用に結い上げつつ、ソフィアは小さく頷いた。
「今って……まだ、お昼前、よね?」
「はい。正午の鐘が鳴るまでは、まだ数刻あるはずです。正午になると、町の中央大通りにある鐘楼が鳴って知らせてくれるんです」
「じゃあ、これから行ってみる」
「ご案内しましょうか?」
「いえ、あなたも仕事があるでしょうし、一応……ちょっと歩いて確認したいから」
小さく首を横に振って案内を辞退すると、アトリは少し心配そうな顔をする。
「分かりました。けど、あの……」
「なによ?」
「知らない人についていったら駄目ですよ?」
「はい?!」
思わず反射的に突っ込みの声を上げるが、アトリは気にせず言葉を続ける。
「まだ本調子ではないでしょうから、冒険者宿で情報を得た後は、この神殿に戻ってらしてくださいね。でないと、心配で心配で……」
「わ、分かったわよ……」
――アトリは本気だ。本気でそう言っている。疑いようも無い。引き攣った顔で、ソフィアは頷いた。
こんな純粋な厚意は、今まで向けられたことがなかった為、どう返して良いか分からない。動揺を隠せないソフィアの様子を見て、アトリはふんわりと相好を崩した。
「では、お気をつけて。本当に、無理はしないで下さいね」
* * * * * * * * * * * * * * *
外に出て、あまりの広い街並みと、人の多さに軽く眩暈を覚えた。
(これは――気を抜いたら、迷子になりそう)
顔から血の気が引いた気がする。それはそうだ。ソフィアは本人の意思ではなかったとはいえ、言ってしまえば物心ついてからずっと小屋警備員に近い状態だったのだ。
それに、
(……こわい)
誰も自分を見ていないとは思ってはいても、育った村で向けられ続けた悪意や嫌悪感の呪縛からは、なかなか解き放たれない。
行き交う人々が足を止めてこちらを見ないか、あの眼差しを向けないか、引いては、ソフィアを助けたらしいあのアトリという女性に迷惑が掛からないか――どうしようもない恐怖が胸の内で燻る。
(はやく行こう。……確か、“春告鳥の翼亭”だったわよね)
賑やかな大通りで、身を潜めるように建物伝いに、ソフィアは歩き始めた。
俯いたまま、髪で顔を隠すように、気配を殺しながら歩くこと十数分。
レンガ作りの、比較的がっちりとした建物が見えた。他とは造りが明らかに異なる。建物の入り口の扉の上には、「剣と鳥」をモチーフにした金属の吊るし看板が下がっていた。それは他の宿にはない。他の宿らしき建物には、食事を模したものやベッドをモチーフにしたものばかりだ。
恐らくここで間違いない。――やや息を詰めて、ソフィアは右手をドアノブへ伸ばす。
「…………」
だが、不意に手が止まる。
(あたしは……何の為に、情報を集めようとしてるのかしら)
それは、自分の現在の状況を把握するためのもので、この世界が本当に自分の知るものと異なるのかを、確認するためで……だが、そんなことを知って何になるのか。そもそも、冒険者でもなければ、ここの世界の者でも無い自分が入って、大丈夫なのだろうか?
伸ばしたままの右手が強張る。
(どうしよう、本当に…入っても……)
ドアノブに手が触れるか触れないか、そこで留まったまま、無意識に手が震える。
(――こわい……)
「こんにちは!」
「!!?」
唐突に、ソフィアの背後から、柔らかな、そして場違いなほど朗らかな声が掛かった。
完全に意識が目の前のドアだけに集中していたソフィアは、思わず数センチほど地面から飛び上がってしまった。
(だ、誰?!)
慌てて背後を振り返ろうとするが、その前に、ドアノブの位置で硬直してたソフィアの右手に、二周りほど大きな手が覆いかぶさり、そのままドアノブを回した。
予想外の出来事に、思わず呆然としていたが、ややあって慌てて手を引っ込めて背後を振り返る。
「ん? どうかした?」
そこには、すらりとした細身の女性が、小首を傾げてソフィアを見下ろしていた。
焦げ茶色の頭髪は短く、毛先だけふんわりと曲線を描いている。きょとんとした表情を湛える瞳は濃い緑碧玉色で、声は低めのアルト。全体的な柔和な雰囲気と相まって、人好きのする印象の女性だ。
ソフィアはどうやら小柄……という背丈だが、彼女はソフィアよりも頭2~3つは高い。あまりまじまじと、この世界に住む人々を観察した訳ではないが、それでも女性にしては背が高いのではなかろうか。
(なに、この人……?!)
警戒を解かず、両手を強く握り締めたまま、後ずさろうとすると、不思議そうにこちらを碧の瞳が見つめる。それから、迷いもせずにソフィアの手をそっと握った。
「ここは寒いよ。こんなところにいないで、中に入ろうよ」
手を引きながら、柔らかく穏やかに微笑んで、開いたドアの内側へ促す。
だが、ソフィアは弾かれたように彼女に触れられた手を己の背中に隠し、素早く身を引いた。
「?」
「こ、子ども扱い、やめてよねっ」
「ん?」
唐突に、躊躇いなく触れてきた人物に対して、どう反応したらいいか分からない為、思わず文句が先に口から出る。だが、彼女はふわりと微笑んで小首を傾げた。その反応に、ソフィアはやや気色ばんで言葉を続けた。
「何よっ お姉さんぶってるの? こう見えてあたし、ちゃんと成人してるんだからね! だ、だから……」
言っていて、なにを言ったら良いか分からず、混乱してしまう。途中から、しどろもどろと言葉を連ねつつ、じりじりと後退すると、更に唐突に背後から声が掛かった。
「シンさん、こんちわ!」
(~~~~~~~~~~?!)
「やあ、シアン。こんにちは」
驚きの悲鳴を、辛うじて飲み込んだソフィアは、ビクリと身を竦ませて逃げ場を探す。
「っと、そっちの小さい子も、こんちわ!」
気にせず明るい声を掛けてきた人物は、――こちらも背の高い女性だ。“シアン”というのは名前だろうか。
頭髪は濃紺色で短いショート。服は上から下まで黒ずくめだ。黒が好きなのかもしれないが、上下共に黒はやり過ぎだ。吟遊詩人の語る詩に出てくる、暗殺者みたいだ。――もちろん、そんな事は口には出せないが。
とはいえ、“シアン”と呼ばれた女性の表情は朗らかで、楽しげな笑みを浮かべているので、今のところ、暗殺者には見えない。
「なんだよ、入らないのか?」
「そうだね。今日は冷えるし。ひとまず中に入ろうよ、ね?」
シン、と呼ばれた女性が、自然な動きでソフィアの背に優しく触れ、店内へ誘う。その様子に“シアン”と呼ばれた女性が目を丸くする。
「あれ、もしかしてこの子、シンさんの親戚?」
「いや、入り口で会ったばかりだよ」
クスリ、と笑ってシンは言葉を返す。「なるほど」と頷き、そのままシアンはシンを相手に雑談を始めた。
「シンさんは今休憩ですか?」
「うん、ちょっとだけね。帰ったらミアちゃんが美味しいお茶を淹れてくれるから、ほどほどに、かな」
「あはは、シンさん好きですよね~、彼女……の、お茶?」
頭の後ろで手を組みつつ、シアンは揶揄うように笑う。
「うん! 大好きだよ!」
まるで揶揄われたことに気付かない様子で、堂々とシンはにっこりと笑って答えた。
思わず苦笑いして、「相変わらずっすね…」とシアンは呟いた。そして、ふとソフィアへ目を向ける。
「……っと、なんだよ。物珍しそうに見て……っつーか、見ない顔だけど、なんだ? 迷子か?」
明らかに揶揄い先をシンからソフィアに変更して、シアンはニヤリと楽しそうに笑う。
「こんな小さいのが、一人で酒場を兼ねた宿に入っていいと思ってるのか? ……フーッフッフッフ、冒険者は……怖いんだぜ?」
ですよねー? と店のカウンターへ向かうシンに同意を求めるが、シンはといえば完全に無視をして、「何か飲む?」と呑気にソフィアとシアンに尋ねてくる。しかし、ソフィアはむっとして、やや語気を強めてシアンに噛み付いた。
「ば、馬鹿にしないでよ! 酒場のひとつやふたつ、平気だわ! さっきも言ったけど、あたしは成人してるし、別に冒険者って人を怖いとも……」
途端に、くらり、と視界が揺れる。
(あ、あれ……?)
慌てて身体を支えようと、どこか手をつく場所がないか逡巡した直後、いつの間にかすぐ近くまで戻ってきていたシンの腕の中に、すっぽりと納まった。
「大丈夫?」
「?!」
思わず反射的に、ぎくりと全身が強張る。慌てて腕の中から出ようともがくが、上手く腕にも足にも力が入らず、更に混乱する。そんなソフィアの様子を見て、シンは彼女を支えつつ、手近な椅子を引いて座らせ、僅かに眉を顰めて彼女の瞳を覗き込んだ。
「貧血、かな。少し温かいものを摂るといいよ」
深い森の色をした瞳に、心配の色が滲んでいる。その様子を見ていたシアンも、肩を竦める。
「っつーか、栄養足りて無さそうだな。お前、しっかり食えよ?」
「何か適当に頼んでくるね?」
「いい、いらない。」
首を横に振って辞退する。
「言っとくけど、あたしお金無いの。ここには食事に来たんじゃなくて、別の用があって……」
「別の用?」
シンが興味津々といった態で聞き返す。だが、ソフィアは返答出来ずに、言葉を切って俯いた。あまりにも唐突に、人と関わって会話して、情報の処理が頭の中で追いついていない。
そもそも、彼女達は何者なんだろう。2人が知り合い同士、というのは会話から見て取れたが、見た感じ、冒険者というようにも見えない。冒険者ってもっとこう……いかつい感じの、とか、魔法使いっぽい、とか……と、内心で言い訳がましく呟くが、つまるところ、彼女たちにあれこれ、自分がどこから来たのか、そして、なぜ来ることになったのか、どこまで話したら良いか、判断がつかないのだ。
黙りこんだソフィアを見て、シアンは勘違いしたのか、安心させるように笑って声を掛けた。
「あー、なんつーか、ちっとからかい過ぎちまったかな。店先で急に野郎が2人で絡んできたら、そりゃ怖いわな。悪かったな」
「……?」
シアンの言葉に、ソフィアは思わず訝しげに眉を顰めて彼に目を向けた。
「“野郎”……? 別に男の人は近くにいないじゃない。何を言ってるの?」
「おう、何か変な……って、オイ……」
シアンが話しの途中から半目で声を低めた。
「そりゃ女顔だがな……ってか、どう見てもこんな図体のでかい女、そうそういないだろうが……」
「はぁ?! あ、あなた達、まさか2人とも……っ」
オトコ?! ――と、続ける事は出来ず、驚愕して思わず椅子から腰を浮かせる。――が、再びくらりと眩暈を覚えてそのまま椅子に逆戻りして座り込んでしまった。
その様子を見て、苦々しくシアンが低く短く、言葉を放つ。
「俺は、男だ」
「うん。……見た目じゃなかなか判断がつかないかな。一応、僕も男だよ」
「いやー……シンさんはともかく、俺は女と間違われるの、久しぶりだぞ? てか、間違われたのなんて声変わり前だぞ? 前はともかく今はそんな女顔じゃないぞ? シンさんはともかく」
妙に疲れた顔をして、しつこく否定しているのは、案外現在も未だによく女性に間違えられているからの様な気がしたが、ソフィアはそれを口には出さなかった。
「改めて。あー、俺はシアン。シアン・バレンティーノだ。一応、駆け出し冒険者ってヤツになるのかな。 」
気を取り直したのか、ニヤリと不敵な笑みを浮かべてシアンは自らを指し示す。
「僕は、シェルナン・ヴォルフォード。みんなはシンって呼んでるよ。この町の孤児院で、住み込みで手伝いをしてるんだ」
柔らかいテノールで名乗り、シンは微笑んだ。
次の更新は、週末に出来たらいいな、と思います。