19.森の住人【挿絵あり】
翌日は日の昇る前に目が覚めた。
相変わらず、途切れ途切れの睡眠だったが、ひとまず体調は悪化していない。
身支度を整えると、ソフィアは階下へ向かった。
店内には橙黄石の鏃亭の主人が1人、忙しそうに動き回っている。やって来たソフィアに目を留めると、にこにことして間延びした声を掛けてきた。
「おはようございますぅ。ソフィアさん、お出掛けですかぁ?」
「ええ」
「早いのに大変ですねぇ。いってらっしゃいませぇ」
「ええ」
我ながら個性の無い返答だとは分かっているが、他に思いつかない為、ソフィアは同じ返答を繰り返した。
それから、小さく会釈すると、橙黄石の鏃亭を後にした。
* * * * * * * * * * * * * * *
港町クナートの南には大きな森が広がっている。
定期的に町の自警団や冒険者が見回りを行うため、規模の割には妖魔は少ないという。
ただ、やはり商隊や旅人は避けて通る事が多い為、森の中は整備された街道はなく、薪拾いを行う地元民の為の細い道以外は、獣道程度しかなかった。
その細い道を辿りながら、ソフィアは狩人という職業について思いをめぐらせていた。
狩人とは、その名の通り動物を狩る人々を指す。
主に弓矢を得意武器として戦う事も可能だが、冒険者として重用されるのは、戦闘よりも野外活動全般の知識である。
特に野外に張る罠の知識が重要で、罠を張る事も可能だが、逆に相手に張られた罠を解除する事も出来るのだ。
また、相手が何であれ、足跡の特定や追跡にも優れた能力を発揮するという。
植物の知識は学者や薬草師には及ばないまでも、毒かそうでないものか判別する知識がある者が多い。
ソフィア自身は、身をもって体験した毒のある植物(=食べた)は分かるが、これはもちろん自慢できるような知識ではない。
はぁ、と息を吐くと空気が白く色づき、広がっていく。
この世界に来てから、彼女の周りは見た事も無いような物や、会った事もない人々ばかりで、不意に途方にくれることがある。
この世界での自分は、間違いなく異質な存在なのだ。それは「半妖精だから」という事ではない。ソフィア個人の問題なのだ。昨日でそれが分かった。
とはいえ、ソフィアの記憶には、既に春告鳥の翼亭で会った男性も、橙黄石の鏃亭で会った妖精の女性も、おぼろげな輪郭程度しか残っていない。
冷えて赤くなった両手を、擦り合わせて息を吐きかけてみたが、あまり温まったようには思えなかった。
しばらく森を歩いてみたが、一向に「これは!」という感覚が掴めない。ーーそれで掴めていたら、この世界に来る前に狩人としての基礎は身についていてもおかしくない。
(まぁ、そうよね。そんな上手く行かないわよね……)
足を止めて、周囲を見回す。
道の両側には鬱蒼と木々が生い茂っており、奥がどうなっているかは分からない。
歩いていた道の先は、もう少し先で二股に分かれているようだ。
(どうしたものかしらね……)
立ち止まったままそっと目を伏せて小さく息を吐く。
静寂が訪れた後、ゆっくりと木々のざわめき、鳥の鳴き声、水の流れる音など、森の中の小さな音楽が流れ始めた。
(静かだわ)
昨日からずっと尖っていた気持ちが、ゆっくりと静まっていく。
暖かな日の光が森全体に降り注ぎ、草木の葉の上で、乾ききっていない朝露が光を帯びて煌いている。
息を吸い込むと清浄な森の香りが胸いっぱいに広がり、いつかどこかでなくしてしまった“何か大切なもの”がソフィアの内側に満たされていく気がした。
かつてない程穏やかな気持ちで、ソフィアは再び足を踏み出した。
気持ちの赴くままに散策を続けていると、少し開けた場所に出た。地面がむき出しになっており、その先に大きな枯れた木が1本立っている。そして、更に先の地面は一旦途切れてから、離れた場所に続いている。
その地面の形状に違和感はなかった。何しろ、先ほどから轟々と水音が響いているのだ。つまり……枯れ木の先、地面が途切れた部分には川、もしくは滝があるのだ。
(それにしても、微妙な場所に立っているのね……この木)
理由などなく、たまたまなのだろうが、ポツンと森の木々から離れた場所に1本だけ立つこの木は、なんともいえない哀愁を醸し出していた。
しかも、葉は既に全て散った上、これまた枯れた蔦に絡まれている。そして辛うじてひと房の実が残っていた。
(……ん?)
一度見流してから、思わず二度見する。
「あ!」
ひと房に数個ついた実は、枯れ木のものではなく、絡まった蔦のものだった。そして、その実をソフィアは見た事がある。
(サルナシの実だわ!)
思いがけない収穫に、目を輝かせる。過去、元の世界で何度か口にした事がある甘い果実だ。市場に持っていけば高額ではないまでも、買い取りもしてもらえるだろう。
幸い、ソフィアは木登りはした事がある。意気揚々と両腕の袖を捲り上げると、木の幹に足を掛けた。
――結論から言うと、失敗だった。
木登りをした事があるとはいえ、「得意」という訳ではなかったのだ。
そう思い知ったのは、木を半ば程まで登り、もう先にも後にも進む事ができない、こう着状態になってからの事だった。
(馬鹿な事をしたわ……)
木の枝にしがみ付いたまま、ソフィアは数十匹の苦虫を噛み潰した。口の中に苦みが広がる。
(後悔先に立たず……って当たり前じゃない。後に悔いるから“後悔”って言うのよ。先に悔いる事が出来るなら、そもそもしないわよね? そうよね?)
ぷるぷると腕が震える。怖さから、というよりは、筋肉が限界に近付いて来ているのだ。顔を顰めながら周囲を見回す。
丁度この枯れ木は崖のギリギリの場所に立っている。
手前側に落ちれば地面に全身を強打する事間違いなしだが、崖側はどうだろうか。
チラリと見やると、やはり崖下には滝があり、凡そ10メートル程下に滝つぼが見えた。落ちたら死ぬ事は無さそうだが、無事では済まなさそうでもあった。
それでも地面よりは滝つぼの方が痛く無さそうだ、と腕を滝つぼ側の枝へ伸ばした瞬間、ふと、泣きそうな顔でこちらを見るアトリの顔が過ぎった。何かあったら彼女に心配をかけてしまう。1人暮らしする、と言っただけで、神殿の廊下に驢馬の餌をぶちまけ泣き出した彼女だ。滝つぼに落ちたと聞いたら大変な事が起こりそうだ。伸ばした手が思わず躊躇する。その時、ソフィアが乗っていた枯れ木の枝が鈍い音を立て始めた。
「え……」
息を飲む。だが声を上げる間もなく、枝が大きな音を立てて折れ、彼女の身体は自由落下を始めた。
(――あ、落ちてる)
思考停止した頭でソフィアはぼんやりと思った。
* * * * * * * * * * * * * * *
「――ッゴホ……っ」
咽喉に詰まった空気を吐き出そうとした瞬間、咽た。とたんに酸欠を実感して咳き込む。
ぼやけた視界に雲の多い冬の青空が飛び込んできた。
「おっ 目ぇ覚めたか?」
朗らかな女性の声が、近くから聞こえた。ハッとして声の方を向こうとするが、思うように身体が動かない。
焦ってソフィアは身を捩り、漸く顔だけ動かした。
少し離れた先の、地面の上に出た岩の上に、人間の女性が座っていた。その向こうには森が広がっている。逆に、ソフィアの後ろ頭の方からは相変わらず大きな水音が響いている。
どうやら、今自分は滝つぼ近くの地面にいるようだ、とソフィアは推測した。
先ほど声を掛けてきた女性は、栗色の柔らかなウェーブを描く濡れた長い髪を、手で絞っていたようだ。乾いた地面に水の跡が点々と落ちている。
前髪からも水を滴らせ、澄んだ青空のような深い青色の大きな瞳をぱちくりと瞬かせている。年嵩は10代後半から20代前半ほどの彼女は、少なくともソフィアが今まで見た人物の中では、一番整った顔立ちをしていた。――但し、それはソフィアの主観ではあったが。
よく見ると、その彼女の着ている厚地の小花柄のワンピースも水を含んで重たそうだ。ソフィアの視線に気付いたのか、彼女はいつの間にかソフィアの傍らへ近付き、ひょいっと横たわるソフィアの顔を覗き込むように身を屈ませた。
「大丈夫か? 怪我はどうだ? 大体治したから問題ないはずだけど」
「え」
「まー、さすがの私も服は乾かせないけどな! はははは!」
「……え」
美人というよりは可愛らしい、整った顔立ちの妙齢の女性……という見た目と、あっけらかんと笑う彼女のサバサバとした口調のギャップに、思わずソフィアは目が点になった。
「ん? おいおい、寝ぼけてる? まっ しゃーないか。さっき貴女、半分死にかけてたしね~ あははっ」
「……はい?」
(し、死に……?)
明るく言われた内容に耳を疑う。よろよろと上半身を起こすと、ソフィアは自分の髪や服も濡れている事に気付いた。その途端に冷えた空気を感じて、身震いをする。
対する彼女は、特に寒さを感じない様子で小首を傾げた。
「いやぁ、寒中水泳なんて久しぶりにやったよ~! 貴女は?」
「……え」
「ん? 寒中水泳!」
「……いや、意味が分からない……」
「えー、ホラ、鍛錬とか?」
「い、いやいやいや、普通しないでしょ?!」
「ああ、だよね~」
あはは、と再び面白そうに、彼女は空色の瞳を細めて明るく笑った。それから少し得意げにふふん、と胸を逸らすと驚くような一言を告げた。
「まぁ、そう思ったから飛び込んだんだけどね!」
「はぁ?!」
信じられないようなものを見る目で、ソフィアは彼女をまじまじと見つめる。その視線を平然と受け止めて、彼女は濡れた自分の前髪を指で弾いて、にんまりと笑った。
「私はアレク! この森に住んでるんだ。感謝しろよー? 私が寒中水泳すると、うちの保護者がすっごい怒るんだからな~」
「い、いや、あなたの保護者とか、知らない……んだけど、って、待って」
「うん?」
「あなた、あたしを助けるために水の中に飛び込んだの?!」
「うん」
「なんで?!」
「え? ……うーん、つい?」
「ちょっ い、いやいやいやいや、おかしいでしょ? あたし、あなたとは初対面のはずでしょ。何でそんな危ない事……っ」
「ん? だから、“つい”だってば。理由なんかないってー」
アレクと名乗った女性は、さも不思議そうにきょとんとした顔で答える。思わずソフィアは絶句してしまった。
それを見て面白そうに笑い出すと、彼女はソフィアの顔を覗き込んだ。
「まーまー、堅く考えないっ ところで、ホントにどこも痛むところは無いか?」
促されるままに、ソフィアは自分の身体を確かめる。先ほどアレクは「半分死んでいた」と言っていたが、怪我らしい怪我は見当たらなかった。もちろん、痛みも無い。
「……何も、……どこも、平気、みたい」
「そりゃ良かった」
にかっとアレクが満面の笑みで応える。それから、彼女はふと空を見上げ、「おーい」と突然呼びかけた。すると、間を置かずに、音も無く空から大きな影が降りてきた。
慌ててソフィアは身構えたが、アレクの隣に舞い降りたのは薄茶色の羽を持つ大きな梟だった。
「あ、この子はルーフォス。うちの保護者の相棒なんだ」
「?」
「使い魔ですよ」
唐突に、アレクの声では無く、美しい低音が響いた。ぎょっとして、思わずソフィアは再び身構えた。
「あれ? 何だよ、お前も来たのか? っていうか、駄目じゃないかー 女の子驚かせたら!」
驚く様子もなく、アレクは頬を膨らませながら振り返った。
それにつられて、ソフィアも彼女の背後に視線を動かす。そこには、背の高い人物が忽然と立っていた。先ほどの声からして男性と思われるが、全身深い藤色のガウンコートに包まれている。頭にもフードを被っている為、人相は分からない。ただ、ガウンコートの襟や裾、袖口、フード周りには細かな銀糸の刺繍が施されており、見るからに高価なものだと分かる。
(いつの間に……?)
今までアレクの方を向いて話していたのだから、その後ろに誰かいれば気付いてもおかしくないはずだ。それなのに、今の今まで、全く気付けなかった。足音すら聞こえなかった。もっと言えば、気配が全く感じられなかった。そこで、思わず青くなる。
(え、まさか……ゆ、幽霊?!)
「いやいやいや」
声に出していないはずなのに、心を読んだかのようにアレクが突っ込む。
「多分、今貴女が思ってるのは違うからな? こいつはさっき私が言っていた怒らせるとこわ~いヤツだ!」
「おや、怖くなるのは貴女がおいたをした時くらいですよ。例えば、そう……冬空の下、寒中水泳をする、とか?」
「ぅぐふっ」
ぐさっと来た~! 怖ぇええ~! と叫びながら胸を押さえて苦しむ真似をするアレクの頭を、軽くこつんと叩くと、彼は着ていたガウンコートを脱いでアレクに羽織らせた。すると、先ほどまでフードで見えなかった彼の面立ちが露になった。
つい先ほどまでは、ソフィアの中ではアレクが「少なくとも今まで見た人物の中では一番整った顔立ち」をした人物だったのだが、すぐにあっけなく塗り替えられてしまった。ーー否、甲乙つけがたいというのが妥当か。
アレクが太陽のように力強く輝く美貌だとしたら、彼は月光のような儚く幻想的な美しさを持っていた。
白い肌、切れ長の青い瞳。白金色の長い髪は緩やかに束ねられており、右側に流している。正に「美形!」という文字が似合う男性だった。そして、ふと気付く。彼の耳は長く、人間や半妖精とは異なる形状をしていた。
ソフィアの視線に気付いたのか、彼は目を合わせてふわりと微笑んだ。
「どうやら驚かせてしまったようで申し訳ありません。私はキャロル・アーレンビー。彼女の夫です」
「え?!」
思わず目を見開いて、アレクとキャロルと名乗った妖精を交互に見る。
「どうかしましたか?」
「え、あ。え……だって、ほ、保護……しゃ……?」
「ああ、また貴女という人は」
うろたえるソフィアの様子を見て、キャロルはチラリ、とアレクを見る。アレクは「てへ!」と小さく舌を出しておどけて見せた。
「だってさー、保護者は保護者じゃん?」
「その前に、貴女の夫ですよ。もっと自覚して下さい」
まだ濡れたままのアレクの髪をひと房手に取り、キャロルは口付けた。そのまま、熱の篭もった視線で彼女を見つめる。
「それとも、足りませんか……?」
言いながら、キャロルはアレクの頬に手を伸ばし、指先でそっと撫でた。
「~~~~~~~っ」
全く見るつもりは無かったのだが、予想外に突然目の前で起こったために、目の当たりにしてしまったソフィアは、一気に首元まで真っ赤になり、おたおたと狼狽しながら視線を逸らした。
一方のアレクは、慣れているのか呆れた顔でキャロルを軽く睨む。
「コラ! キャロル! お前、油断するとすぐこれだ!」
「おかしいですね。これでも抑えているのですが」
「どこがだよ!? ったくもー……って、あっ おい、大丈夫か?! 顔がものすごい赤いぞ?!」
漸く、頭で湯を沸かせるほど真っ赤になったまま、行き場を失っているソフィアに気付き、アレクが慌てて声を掛ける。その声に「みみみみっみみみみ見てないから!!!」と明らかに狼狽した声音でどもりながら答える。が、全身の血液が頭に集まっているのではないかと思えるくらい、熱い。くらくらと眩暈を感じて、ソフィアは頭を抱えた。
「うわうわ、こりゃいかん! おいキャロル! うちに運ぶぞ!」
「そうですね。こちらへ」
キャロルが目の前の宙に指を走らせる。その軌跡が、淡く光を帯び文様を浮かび上がらせる。その間にアレクはソフィアをひょいっと抱き上げ、あまりの軽さに僅かに顔を顰める。
急に抱えられたソフィアは、慌てて身を捩って抗議した。
「だ、大丈夫だから……」
「大丈夫なわけあるか! 大人しくしてろ!」
弱々しいソフィアの拒絶の言葉を、キッパリと突っぱねると、アレクはそのままキャロルの胸に背中をつける。
キャロルの左手がアレクの肩に乗せられ、そのタイミングで、もう片手が文様を描ききる。
「――“転移術式展開”」
その言葉と共に、描ききった文様に指で円を描く。途端に淡い文様を中心にして、放射線状に輝く線が周囲に伸び広がる。あまりの眩しさに、思わずソフィアは目を瞑った。
2022/5/10 改稿




