2.奈落の裏側【表紙あり】
目を開けると、暖かな木目の天井が視界いっぱいに広がり、ソフィアは混乱した。
(死後の世界ってあるのかしら?)
全身を硬直させたまま、目を瞬かせる。
「目が覚めましたか? どこかお辛いところはありませんか?」
「!」
唐突に、そして思ったよりも近い場所から声が掛かり、ソフィアは反射的に身を竦ませた。
そこで初めて、自分の身体に何か柔らかな厚地の布に包まれている事に気付く。横たわっている自分の下には、信じられないほどふかふかしたものが敷かれている。
(あったかい、けど、重っ なにこれ……)
身動ぎしようとするも、なかなか上手く行かない。ソフィアはますます混乱した。
実は、彼女の身体を包んでいるものは、ただのベッドと掛け布だ。だが、彼女にとってそれは、初めて触れるもので、見るのも初めてだった。
「ごめんなさい。びっくりさせてしまいましたね」
動揺するソフィアの視界に、人影が映った。ギクリとして、横たわったまま身構えた。そのまま、警戒して視線を向けた先にいたのは、他意のない微笑みを浮かべた“いかにも素朴”といった女性だった。初めて向けられた敵意以外の感情に、思わず拍子抜けしてしまった。
掛けられた声に反応出来ず、やや間抜けな顔をしているソフィアに、その女性は笑みを深め、胸に手を当てて静かに目礼した。
「申し遅れました。わたしはアトリ。アトリ・レティオーサと申します。エルテナ神殿で下働きをしています」
――“エルテナ神”とは、四大神の1人で豊穣の女神を指す。ソフィアですらおぼろげな知識を持っているほど、メジャーな神様だ。
“アトリ”と名乗る女性は、申し訳無さそうな顔で言葉を続けた。
「あなたは、この神殿近くの森で倒れていたんです。熱もあったようだったので、その、ごめんなさい。勝手につれて来てしまいました」
意識の無い相手を助けて、勝手をしてしまったと申し訳なさそうにしているアトリと名乗る女性に、つい唖然として凝視する。
年嵩は10代後半~20代前半くらい。決して美人ではないが、毒気を抜かれるような柔らかなーー他者が悪意を抱くのが難しい、穏やかな空気をまとった女性に思えた。
頬や鼻に、少し目立つそばかすがあるが、どちらかというとチャームポイントではなかろうか。
頭髪は修道服のベールで覆われており、クセの強いはしばみ色の前髪が額に少し掛かっている。瞳はグレーがかった紫色。
悪意が無い事を疑いようも無いほど、無防備に柔和な微笑を湛えていた。
「ええと」
アトリが少し言い淀んでから、黙ったままのソフィアの瞳を覗き込んだ。
「……あの、言葉は……わたしの言葉は、分かりますか?」
「いくらなんでも、共通語は分かるわよ?」
言われた内容から、反射的に尖った声が出てしまった。
「良かった!」
自分でも可愛くない言い方をしたと思ったのに、それに反してアトリは嬉しそうに両手を胸元で合わせながら、屈託なく笑った。
その柔らかな雰囲気に飲まれたように、ソフィアはぽかんとした顔で固まってしまった。
お構い無しに、アトリは満面の笑顔で言葉を続ける。
「見た事ないくらい、すっごく綺麗なんですもの。もしかして、妖精さんか精霊さんを拾ってしまったのかもしれないって、ドキドキしてたんです! 言葉が通じなかったら、不安がらせてしまうんじゃないかと。ああ、良かったぁ~!」
「はぁ?」
予想の斜め上の言葉を聞いて、思わずソフィアの口から、間抜けな声が漏れた。
「あなた、いったい、なにを……」
「はい?」
「……ばかな、事を」
「?」
きょとん、と目を丸くしたアトリが小首を傾げる。対するソフィアも、内心で首を捻っていた。
――「すっごく綺麗」?
“綺麗”の定義は、自分が預かり知らぬ間に、何かとてつもない変化を遂げたのか? いや、このアトリという女性はなんだか抜けている感じもするから、独特の感性を持っている、のかもしれない……?
困惑したまま、言葉を探して口ごもっていると、不思議そうな顔でアトリは口を開いた。
「わたし、貴女のように綺麗な方、いままで見た事ありません。それに、こんなに綺麗な銀髪、初めて目にしました。光が当たると、少し青みを帯びているんですね。あとあと! 宝石みたいに透き通っている、水色の瞳! 目覚められた時、吃驚してしまいました。本当に、妖精さんや精霊さんなんじゃないかって思ったんですよ!? ……あ、」
唐突に言葉を切ったかと思うと、アトリは照れ笑いをしつつ続けた。
「でもわたし、妖精さんにも精霊さんにも、会ったことは無いのですけど」
「はぁ?」
ツッコミが追いつかないんだけど!? と、内心で頭を抱える。
今まで、人付き合いがほぼ皆無だったソフィアにも分かる。どうやらアトリは、かなり天然だ。それに、悪意が無いということが十分に分かった。
それから、どうやら、助けてもらったようだった。
(――そうだ、助けて……)
「!」
ハッとして、ソフィアの表情が強張る。
「どうかしましたか?」
先ほどのとぼけた様子から一転して、敏感にソフィアの様子を察知した様子のアトリが、やや声を低めて気遣わしげにソフィアの肩に手を伸ばす。
しかし、反射的にソフィアは身を引いて彼女の手を避けた。
「な……なんでも、無い。……ここはどこ? エランダの近く?」
「エランダ、ですか?」
思った以上に、アトリから訝しげな声が上がる。
「ごめんなさい。エランダという単語は、聞いた事がありません」
躊躇いがちにアトリが首を横に振る。
(そんなはず……)
自分がいくら村から全力で逃げたところで、そうそう遠くへ行ける筈が無い。そう、例え奈落の滝から流されたとしても。
(――あっ)
――“いいかい、よくお聞き。
君のいる、この村のずっと北に、「奈落の滝」と呼ばれる場所がある。
そこは「ここではないどこか」に通ずる道だ。
――よぉく覚えておくんだよ。”
唐突に脳裏に、鮮烈に蘇る誰かの声。
顔も声色も、性別すらも思い出せないのに、何故か言葉だけは、一言一句間違えず思い起こされる。
ーー「ここではないどこか」
呆然としたまま、ソフィアは身を起こした。すると、さらり、と肩に光を帯びた銀糸が零れた。これは何だろう、と手を伸ばし掴んで引っ張ると、自分の頭部に繋がっていた。ーー初めて見る、本来の自分の髪だった。
髪を手にしたまま、動揺を隠すように、ソフィアは俯いた。その姿に、気遣うようにそっと、アトリが声をかける。
「ベッドにお連れした後、蒸しタオルで清めさせて頂きました。お召しだったお洋服は、洗って乾かしています。今着て頂いているのは、神殿のバザーで用意していた服で」
「……ここは、どこ?」
激しい混乱に陥ったまま、思わず遮るように掠れた声でアトリに問う。
「あたしは今、どこにいるの?」
「町の名前、という事でしたら、ここは港町クナートです」
ソフィアの只ならぬ雰囲気に、躊躇いがちにアトリが答えた。
港町クナート――聞いた事が無い。
ソフィア自身は、あの村で小屋に閉じこもって生活していたが、ごくごく稀にーー数年に一度くらいに、小屋の前に食料と数冊の書物が置かれている事があった。
その書物で、ある程度の知識は得ている。しかし、自分の暮らしている世界で――
「ヴルズィアでは聞いた事が無い町だわ……」
つい、憮然たる面持ちで小さく呟く。
「え?」
目を丸くしたアトリが更に首をかしげる。
「えと……ヴル、ズィア? ですか? テイルラットでは聞いた事が無い町の名です。あなたの故郷の名称ですか?」
「えっ」
何度目かの、「思わず」で、またソフィアの声が漏れる。
“テイルラット”……その名も、聞いた事も書物で見た事も無い。
いよいよ動揺を隠せない様子のソフィアに、おずおずと、アトリが述べる。
「この“世界”の名前はテイルラット。そして、このエルテナ神殿があるのは、中央大陸北に位置する、港町クナートです。……ご存知では、ありませんか?」
ようやく舞台に到着。
出来たら今日の夜に、もう1話投稿したい所存…!
2022/5/9 改稿