― 幕間 7月7日 ―【挿絵あり】
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――夜が更けた頃。
手伝いに来ていた孤児院の同僚を送り届け、一度智慧神神殿へ戻るために、西区へ向かう大橋を渡ろうとした際、ある事を思い出して不意に立ち止まる。
「そういえば」
ポツリと呟き、ポケットに手を入れる。指先に触れたものを取り出し、それを目にして僅かに苦笑する。
――月桂樹の葉。
“絶対毎年、自分の分取りに行く暇ないっすよね?”と笑いながらこれを手渡してくれた、濃紺色の髪の青年。
彼は厚意で持って来てくれたのだろうが、「貰ってもなぁ」というのが正直な気持ちだ。
勿論、智慧神の信徒である自身が、この葉を使ったジンクスを疑うわけでは無い。ただ、神に頼ってまで叶えたい程の熱い願いは己の胸の中には無いのだ。
「けど、まぁ……せっかくもらったんだし」
考えてみたら、この葉をくれた彼の言う通り、確かに今まで星祭の日に自分で月桂樹の葉を使った事は無い――否、このままでは一生使う事が無いかもしれない。
ならば、この機会に最初で最後にやってみるのも悪く無いかもしれない。
少し考えてから、橋を渡るのを止めて、その袂から土手を下り、川縁へと足を運ぶ。
既に、時刻は日付を超える間際。
少し前までは大勢の人々が川縁にしゃがみ込み、川面に映る星を掬おうと賑やかだったのが、嘘の様に静まり返っている。常であれば恋人達がそれなりにいてもおかしくないのだが、今年は町の中に妖魔が出没した事もあり、皆早めに屋内へ戻って行ったのだろう。
辺りを見回して、やはり誰もいない事を確認してから、尚も僅かに躊躇し、――それから、ゆっくりと川縁にしゃがみ込む。
穏やかに流れる川面は、橋に下がった星を模ったランタンの光がゆらゆらと幻想的に揺れている。
「うーん、結構難しそうだなぁ。――これ、ちゃんと掬える人っているのかな」
つい小声でぼやきつつ、手にしていた月桂樹の葉を慎重に川面に近付けた。しかし、水面に葉が触れた途端、予想通り星明りは波紋を受けてぐにゃぐにゃと形を変えてしまう。これでは掬えるはずはない――このまま葉を持ち上げては。
なるほど、と口の中で呟いてから、水の中に葉を入れたまま、じっと波紋が収まるのを待つ。
しんと静まり返った夜の闇。
川の流れる音。
大橋の上に連なる、星の明かり。
天上に広がる、煌めく星々。
心が静まるのを感じて、目を閉じ、ゆっくりと開く――次の瞬間、信じられない光景を目にして、思わず瞠目した。
――水に沈めた己の手元の月桂樹の葉の上に、一粒の光が落ちている。
どきり、と胸が大きく高鳴る。
そのまま、心臓がバクバクと音を立て続ける。まさか本当に掬えるなんて、という言葉が脳内をぐるぐると周り、思った以上に動揺が走る。
それでも、油断したら震えそうになる手に必死で力を入れて堪えつつ、ゆっくりと、慎重に、水中の月桂樹の葉を持ち上げた。
「あ……――!」
掬えた!
そう思った途端、月桂樹の葉から水が零れ、葉の中に浮かんでいた光の粒は消えて無くなってしまった。
「あぁー」
思わず残念そうな声が出てしまった。それから、ふと肝心な事に気が付く。
「あ、そういえば結局願い事、してないや」
あはは、と笑うと、手にしていた月桂樹の葉を川にそっと流した。一度星を掬うことに使用した月桂樹の葉は、再び使用する事は出来ないのだ。――星を掬えていても、いなくても。
先ほど星が掬えたのは完全に予想外だった。その為かどうかはともかくとして、迂闊な事に願い事をせずに月桂樹の葉を使い終えてしまったのだが、残念という気持ちは微塵も生まれなかった。
「まぁ……どうせ、無いからね」
自嘲気味に呟いた声は乾いており、微笑みの仮面は剥げ落ちていた。人前では“好奇心旺盛で微笑みを絶やさない年長者”として振舞う事は苦も無く出来る。――だが、誰もいない時、己の顔は何の表情も浮かべないことを、彼自身十分に把握していた。
脱力し、そのままごろりと土手の草の上に寝転んで夜空を見上げる。
「願いなんて……――何も無いよ」
力無く、もう一度口にする。
この胸に穿たれた穴を埋めるこのが出来る何かがあるというなら、それが欲しい。
だが、それが何なのか分からない。
分からないから、願う事が出来ない。
他のものなど欲しくない――それ以外はいらない。
ならば、願う事など、何も無いではないか。
「智慧神ティラーダよ……」
仰向けに横たわったまま、ぐ、と両目を強く閉じる。
――欲しい
なくしてしまった が欲しい
なければ、永遠に、満たされない
それ以外はいらない。何もいらないから――
――どうか、僕に、貴方の“智慧”を――
叶うはずが無い、という思いと、叶えて欲しい、と願う心が、内側でせめぎ合う。
と、その時、ゆっくりと西の方から柔らかな風が吹いてきた。
次の瞬間、息を飲んで思わず硬直する。
「――――!!」
――左隣に、誰かいる。
自他ともに認める熟練冒険者である己が、こんな近くに人の気配がするまで気付かなかったなんて――しかも、油断して寝転がり、あまつさえ目を閉じているなんて――そう考えてから、更にぎょっとする。
瞼を、開ける事が出来ない。
――自分の意志なのか、それとも、何らかの人知を超えた力が働いているのかは分からないが、身体を全く動かすことができない。
傍らから――それも、己の左腕に触れるかどうかの場所から、確かに誰かの気配がする。うっすらと体温を感じる。――その気配も、全く動く気配は無かった。
敵意は無いのかもしれない。そうは思うが、緊張と、混乱は収まらない。
しかしその時、金縛りにあったかのように動けない彼の鼻腔を――甘やかな香りがゆっくりと通り過ぎた。
その瞬間、警戒心は霧散し、代わりに心臓が煩い程高鳴り始めた。
――その香りは、橙黄石の鏃亭の己の部屋に僅かに残るもの。
何の香りか分からない――否、今まで生きてきた中で一つとして同じ香りは無い。
それは、日々己の穴の開いた心を癒し、安らぎを与えてくれ、ーーそれ以上に己の心を焦がしてやまない、恐ろしい程に甘美な香り。
――“そうだなぁ、大切って意味なら今は”
唐突に頭の中に降って来た、覚えのない己の言葉に、息を飲むほど驚いて――その瞬間、あっけなく瞼が開いた。
途端に両目に飛び込んできた美しい満天の星。しかし、それには目もくれず、慌てて半身を起こし、気配のした左側を見る――だが、誰もいない。
先ほどまで感じていた気配も、温度も、日々身を焦がすほどに求めてやまないあの香りも、霧のように消えて無くなっている。
「……違う。いたはずだ……」
呆然と呟き、手を伸ばして触れた左側の地面に、温度は無い。
「誰かが、いたはずだ」
もう一度呟いた時、彼の目には強い光が宿っていた。
――己の身体の真ん中の大きな穴。
その欠けた場所に――――誰かがいたはずだ。
そう思い至った途端、身体の内側から沸々と力が湧いて来た。
この身に穿たれた穴は、ただの空洞ではない。
それを埋める誰かがいる――探すべき、求めるべき、誰かがいる。
それは、虚無の中に突然訪れた一粒の光。
或いは智慧神の思し召し。
その場に立ち上がった彼の目に、橋の上に灯る星の明かりと夜空の星々が、まるで天と地を繋ぐように煌めいて映った。
--------------- side : Shellnan Voruford //----------------
>> To Be Continued...
(彼女の名前は「智慧」という意味を持つのです(小声))