10.星祭【挿絵あり】
春告鳥の翼亭を出た後、マリアベルは星祭の準備を手伝うために、クナートの町の西に位置する智慧神ティラーダの神殿へ向かった。
西区へと続く大橋には、既にシンボルである月桂樹の葉をモチーフにした飾りと星を模ったランタンで彩られている。まだ飾り付けが終わっていないのか、数人の神官服を身に着けた者達が橋の上で作業をしていた。
そのまま道なりに進むと、間もなくして智慧神ティラーダ神殿が見えてきた。鉄製の門には智慧神のシンボルである星のモチーフと月桂樹の枝葉の輪がそれぞれ配されている。左右の門柱の上には丸く中が空洞な硝子が置かれている。あかりと思われるそれの内側が煤で汚れていない事から、恐らく日が落ちる頃に魔法のあかりが灯されるのだろう。
門の中へ入ると、恐らく普段は静かであろうと思われるティラーダ神殿も、今日ばかりは多種多様な人々が忙しなく歩き回り、様々な言葉が飛び交っていた。明らかに智慧神とは縁の無い草妖精や大地妖精――彼らは智慧神含め、“神を信仰する”という概念が無い――もいる。
きょろきょろと辺りを見回しながら、マリアベルは見知った顔を探した。
「あれ? ベルちゃん?」
不意に聞き覚えのある声が掛かり、マリアベルは声の方へ目を向けた。果たしてそこには、予想通り冒険者の先達であり智慧神の信徒であるシンが、柔和な微笑みを湛えて立っていた。
マリアベルは彼の方へ向き直ると居住まいを正して挨拶の言葉を口にした。
「こんにちは、シン殿」
「うん、こんにちは! 星祭は日が落ちてからが本番だけど、どうかした?」
「はい。手が空いていますので、何かお手伝いがあればと思いまして、やって参りました!」
その言葉に、シンはパッと破顔して素直に礼の言葉を口にした。
「本当? 嬉しいな、ありがとう!」
「良かった……あ、いや、しかし、恥ずかしながら細かな手仕事は不得手でして……力仕事がありましたら、是非!」
「あはは、頼もしいな。じゃあ、僕と一緒に荷物運びをお願いしても良いかい?」
「望むところです!」
右腕で力こぶを作って見せ、力強く頷くマリアベルに、シンは笑顔で頷き返すと神殿の中へと促した。廊下の壁際に数多くの木箱が積まれている。
「まだ結構飾り付けが残っててね。この箱を大橋のところまで運ぶのを手伝ってくれる?」
「承知しました!」
意気揚々と木箱を2つ重ねたまま手にかけると、ずしりとした重さを感じた。しかし、マリアベルにとっては問題なく持ち歩ける重さだ。上の木箱をずらさないように注意を払いながら持ち上げた。もうひと箱行けそうな気もするが、いかんせん背があまり高くない彼女は、これ以上の高さの木箱を持つと視界が遮られてしまう。諦めた方が良いだろう。チラリとシンの方を見ると、彼は4つほど重ねた木箱を軽々と持ち上げており、マリアベルは少しだけ己の背丈を恨めしく思った。
「じゃ、僕が先導するからついて来てね」
「はい!」
まとめて運べないなら、往復する数を増やせば良いだけの事。内心で己にそう言い聞かせつつ、マリアベルは頷いた。その時、背後から躊躇いがちに声が掛かった。
「シンさん」
シンとマリアベルが同時に振り返る。2人の視線の先に、真っ直ぐ腰まで伸ばした栗色の髪の女性が両手で籐で編まれた籠を抱えて立っていた。シンがきょとんとした顔で小首を傾げた。
「あれ? ミアちゃん、どうしたの?」
「あの、シンさんと、皆さんのお昼に、と思って……サンドイッチ、作って来たんです」
はにかみながらおずおずと彼女が手に持った籠を持ち上げた。一瞬目を丸くしたシンは、すぐに相好を崩した。
「そっか、ありがとう! 荷運びが終わったら頂くよ」
「はいっ」
頬を染めて嬉しそうにしている女性を見て、マリアベルは漸く記憶を呼び覚ました。――“ミアちゃん”。確か、シンが近々婚姻を結ぶという女性だった、はずだ。思い出してから改めて2人を見ると、確かに親密そうな空気が流れている。なるほど、と一人納得したようにマリアベルはコッソリと頷いた。
最初だけシンに道案内を受けながら木箱を運んだが、大橋までは一本道の為、その後は各々のペースで運んだ。マリアベルはここぞとばかりに往復を重ね、昼を過ぎる頃には神殿の廊下に積まれていた木箱は綺麗に無くなっていた。
神殿に戻ったマリアベルは昼食をとる為、一旦宿に帰ってから午後に改めて手伝いに戻るつもりだったが、シンとティラーダ神殿の厚意で神殿で昼食をとらせてもらえることになった。
シンにはミアの作ったサンドイッチも勧められたが、量が少なそうだった事に加え、午前中に動き回っていたおかげで腹ペコだったマリアベルがご相伴に預かっては、一瞬で無くなってしまってもおかしくない。その為、丁重に辞退をさせてもらった。
ティラーダ神殿で振舞われた料理は、黒パンに鹿肉の燻肉とチーズを挟んだサンドイッチ、海老とトマトのオイル煮、豆と魚のフレークの小麦の皮の包み揚げなど、どれも手軽で腹持ちの良いものだった。勿論、味も申し分ない。しかし、それらの料理をマリアベルが思う存分堪能してしまっては、彼女一人で食らいつくしてしまいかねない。そのため、ほどほどに遠慮しつつ頂くことにした。
腹七分目程で食後のお茶を手にしつつ、マリアベルはシンに午後の手伝いを尋ねようと視線を動かした。すぐに見つける事が出来たが、彼の隣にはピッタリと……否、ほんの僅かに間を置いて、彼の女性――ミアが座っていた。彼女は頬を薔薇色に染め、何やら一生懸命彼に話しかけている。対するシンは柔和に微笑み、相槌を打っている。気を利かせているのか、彼らの周囲には人はおらず、完全に二人の世界が出来上がっていた。自分もお邪魔したら不味いか、と思いつつ、マリアベルは大人しく手元の茶碗に視線を戻した。
「おい! 食事が済んだ者から順に、午後の仕事に入れ!」
別の所から、やや棘のある声が上がった。周囲で半分寛いでいた人々と共に、マリアベルも慌てて立ち上がり、手伝いを再開した。
* * * * * * * * * * * * * * *
気が付くと、空は茜色に染まっていた。
丁度、ティラーダ神殿を囲む塀に飾り付けを終えたマリアベルは、ふと手を止めた。――もしや、そろそろなのだろうか。視線を動かすと、神殿の隣にある賢者の学院から正装の人々が杖を手に列を成し、町の中央へ向かって歩いて行くのが見えた。
「よぉ、ベル!」
反対側から声が掛かり、振り返るとそこには、黒ずくめの服装の濃紺色の頭髪の青年が立っていた。彼の両腕には小奇麗な女性2人がそれぞれ両手を絡ませて立っている。
「シアン先輩、こんばんは」
「おう! いよいよだな」
「やはり、そろそろですか! 何とも胸が高鳴ります」
「かたっくるしいティラーダ神殿主催でも、祭りは祭りだからな! 俺もワクワクするぜ!」
ニヤリとシアンが笑うと、右側に陣取っていた小柄の金髪の女性が少し不貞腐れたような表情をして、彼の脇腹をつねった。
「いでっ ちょっ おい、なんだよ!」
「シアンの浮気者!」
「はぁ?!」
「もうっ 知らないっ」
ぷいっと頬を膨らませてそっぽを向いた拍子に、髪で隠れていた長い耳が見えた。――この女性は妖精だ。ともすれば少女のように見えるが、妖精の成人年齢は100歳だ。だから、恐らく彼女の実際の年齢は、マリアベルの遥か上と思われた。
「初めまして。私はシエル・オーディアールと申します」
シアンの左腕に両手を絡めていた、女性が居住まいを正し、マリアベルに柔らかく微笑んで礼をとり名乗った。茶色い髪の落ち着いた雰囲気の10代後半から20代前半に見える年齢。美しい所作は普通の町娘のものではない。それなりの家の令嬢と思われた。マリアベルも彼女へ向き直り、丁寧に礼を返した。
「私はマリアベル――ベルと呼んでくれ。駆け出し冒険者だ」
「まぁ、マリアベルさんは冒険者なんですか?」
「ああ、シアン先輩にはとてもお世話になっている。先だって初めて冒険に出た際も、色々勉強をさせて頂いた」
「東の村へ行かれた時のことですね」
両手を合わせ、シエルは瞳を輝かせた。どうやら彼女は冒険譚がお好きなようだ。
「どんな感じでしたか? 妖魔は手強かったでしょうか? どのくらいの数が出るのでしょう?」
「ちょいちょーい! シエル! 神殿に月桂樹の葉、貰いに行くんだろ?」
話しが長くなると感じ取ったのか、シアンがマリアベルとシエルの会話の間に割って入った。彼の言葉に、シエルは目を丸くして両手で口元を覆った。
「そうでした! シアン、行きましょう!」
言うや否や、彼女はシアンの左腕に両手でしがみ付き、引っ張る様に神殿の門へ向かって歩き出した。
「って事でベル! お前も早めに月桂樹の葉貰いに行くと良いぜ! 日没の後だと、行列出来るからな!」
引っ張られるがままに歩き出しながら、シアンは顔だけマリアベルの方へ向けると、そう言った。そのまま、マリアベルの返事を待たずに引っ張られながら去って行った。
「月桂樹の葉……か」
残されたマリアベルは、彼の言葉を反芻した。――確か、“願いを込めた月桂樹の葉で川面に浮かぶ星を掬うと、その願いが叶う”というジンクスがある、という話しだったか。マリアベルとしては第一に“今はもう会えなくなった大切な人に会える日”という伝承に縋りたいという気持ちが強いが、せっかくなので願いが叶うというジンクスも試したい。よし、と一つ頷くと、シアン達の後を追うように歩き出した。
神殿の前には既に人が短い列を作っていた。列の最後尾に並びながら、マリアベルは大橋方面へ向かう人々へ目を向けた。老若男女問わず皆、一様に月桂樹の葉を手にしている。しかし、その表情は千差万別だ。その表情通り、願い事も人それぞれなのだろう。
ティラーダ神官が差し出す月桂樹の葉を、マリアベルが手にする頃には、日没まであと僅かとなった。
神官に礼を言って葉を受け取り踵を返したタイミングで、丁度神殿の左右の門柱の上の硝子の球体の中に、銀糸で星と月桂樹を縫い取った立派なローブを着た初老の男性が2人、同時に明かりを灯した。
音もなく2つ門柱に灯った白光が辺りを照らす――それを合図に、神殿から大橋へ向かう道に飾られた、星型のランタンに一斉に光が入った。
集まった人々から歓声が上がる。
マリアベルもつい、感嘆のため息を漏らした。――正に、地上に連なる星々の道標。炎とは異なる、白く淡い光は街並みを幻想的に照らし出している。まるで、この世とは思えない。見た事も無い、異世界のような不思議な感覚。
知らず知らず、マリアベルは早足で大橋へと向かった。神殿へ向かう人々や、逆に大橋へ向かう人々、そして、道の両側に飾られた星のあかりに魅入る人々に、ぶつからないよう間をすり抜けながら、マリアベルの頭の中は金茶色の長い髪と暗緑色の瞳の少女の事でいっぱいだった。今なら、今夜なら、本当に彼女に逢えるかもしれない。
大橋の上は既に大勢の人がいた。丁度マリアベルが到着したタイミングで、橋に飾られた星を模ったランタンに一斉にあかりが灯った。周囲から感嘆の声が聞こえた。マリアベルも知らず知らず、息を飲む。――橋の上で輝く星々が川面に映る。そして、天上に煌めく星々が重なる。周囲の建物は、今日は極力明かりを使わないようにしているのだろう。天と地の星々以外に光は無かった。だからこそ、地上では大橋の上と、そこから智慧神神殿へ向かう道の両脇の星の光が際立って輝いていた。そして、天上はそれに答えるような満天の星だった。
「何と美しい……」
橋の袂に立ち、呆然とマリアベルは呟いた。噂で聞いていた以上の美しさだった。天と地を星が繋ぐ、というのは決して大袈裟な表現では無かった。
しばらく神秘的な光景に圧倒されていたマリアベルだったが、数分後に漸く正気に返って手に持っていた月桂樹の葉を見た。
「そうだ、川面の星を掬わねば」
慌てて土手を駆け下り、人混みの中で空いている場所を探す。川沿いは既に月桂樹の葉を手にした様々な人々がしゃがみ込んでいた。楽しそうにおしゃべりをしている者もいれば、これに全てを掛けているような真剣な表情の者もいる。人の数だけ、異なる願い事があるのだろう。自分なら――やはり、一番の叶えたい願いは“仕えるべき勇者に巡り合えるように”、だろうか。
橋から川沿いを歩いて少し経つと、辺りは地上のあかりから離れたせいか薄暗くなった。川面の星を掬おうとする人もまばらにしかいない。橋に下がった星明りは当然ながら見えないが、天上の星であれば逆に掬いやすい。一つ頷くと、マリアベルは川縁にしゃがみ込んだ。流れが穏やかな川面は、揺らめきながらではあるが、星々の光が確認できる。
「よし、いざ!」
右手に神殿で貰った月桂樹の葉を握りしめ、マリアベルは目の前の川面に光る星を掬うために、ゆっくりと手を伸ばした。
――“どうか、私の仕えるべき勇者様に巡り合えますように”
真剣に心の中で繰り返しながら、水面を乱さないように慎重に月桂樹の葉を星の下に差し入れる。――上手く入った。あとは、優しくそっと持ち上げるだけだ。緊張で手が軽くぷるぷると震えているが、息を詰めてマリアベルは月桂樹の葉で水面に映る星ごと川の水を掬い上げ――た、と思った時、背後に僅かに鋭い痛みを感じ、驚いて持っていた葉を手放してしまった。ぽちゃん、と小さな水音を立ててマリアベルの月桂樹の葉は落ち、そのまま川を流れて行った。それを見送る前に、マリアベルはぎこちなく背後を振り返ろうと身動ぎした。
「おっと……そのまま前を向いていろ」
低い男の声が、マリアベルの動きを制した。背中に更に刺す様な痛みを感じる。――比喩ではなく、恐らく短剣か何かの切っ先が、マリアベルの背中に突き付けられているのだろう。しくじった、とマリアベルは臍を噛んだ。オークルで命を狙われた事はあったが、その後は何事もなく平和だった為、すっかり油断していた。
「……何が目的だ」
唸る様にマリアベルが問うと、背後の男は薄く笑った声で答えた。
「そんな事ぁ、知る必要はない。――歩け」
多少刺される事を覚悟して暴れてやろうか、と物騒なことを考えつつも、マリアベルは黙って男の声に従った。周囲にはまばらであってもクナートの町の人々がいる。巻き込む事は出来ない。
男に言われるがままに、どんどん人気のない方へ歩き、気が付くと細い袋小路に立っていた。周囲の建物は倉庫なのか、明かり一つない。天上の星々と月明かりの中、マリアベルは意を決して身体ごと背後を振り返った。刺されると思っていたが予想外に何事もなく簡単に対峙でき、やや拍子抜けしながらも目の前の男を注視した。
中肉中背。全身黒の服装で、顔も覆面で覆っている。同じ黒づくめでも、マリアベルの冒険者の先輩である群青色の双眸の朗らかな青年とは異なり、日陰の者特有の陰湿な雰囲気を醸し出している。彼の左手には短剣が握られ、その先端は僅かに赤い液体――恐らくマリアベルの血液が僅かに付着していた。沸々と怒りが腹の底から湧き上がり、マリアベルは目の前の男を睨みつけた。全く怯む様子無く、男は軽い口調で言いながら、男は左手のダガーを構えた。
「んじゃ、適当に死んでもらうわ」
「そう簡単に殺されるつもりはない!」
言いながら腰に手をやってから、マリアベルはハッとした。――今日は剣を佩いていない。青くなる彼女を見て、黒づくめの男は声を上げて笑った。
「威勢が良いのはここまでだな。――安心しな、嬲るつもりは無ぇ。一撃で首の血管を切ってやる。苦しまずに逝けるぜ」
じりじりと後退するマリアベルへ一歩踏み出しながら、男は猫撫で声で言った。
「終わったら、アンタの首はもらうが、身体は誰にも見付からないように、海に沈めてやるよ」
「首をもらうだと?」
「雇われなんでね」
そう口にしてから、余計なことを話し過ぎたと思ったのか男は口元の布を右手で直した。
「……サァ、おしゃべりは仕舞いだ」
男の左手が持つ短剣が天上の明かりでギラリと光る。刃先はマリアベルの首を狙っている。簡単に殺されてたまるか、とばかりにマリアベルは短剣から己の首を守るように、左腕を上げて肘を曲げた。眼前の敵へ注意を払いつつ、周囲に武器になりそうなものが無いか視線を動かす。――右の壁際の地面に、木材が数本転がっているのが見えた。剣の代わりには到底ならないが、無いよりはマシ。思い切ってマリアベルは木材へ飛びついた。
「ハハッ 遅ぇんだよ!!」
必死なマリアベルを嘲笑うかのように声を上げ、男は短剣を振りかぶった。――やられる!! 反射的にマリアベルは両目をぎゅっと強く瞑った。直後、勢い良く布が切り裂かれる音が耳を打った。
……しかし、一向に痛みは感じない。
木材に片手をかけたまま尻餅をついていたマリアベルは、恐る恐る瞼を上げた。
目の前に人影が立っていた。――逆光で顔は影になっていて見えないが、先ほどの黒づくめの男と明らかに異なる佇まいだ。背はすらりと高く、手には長剣が握られている。そして、人影の足元には誰かが倒れていた。その手に短剣がある事から、先ほどマリアベルに対峙していた者と思われる。
状況について行けず、マリアベルは困惑して眉を顰めた。
「追われる身としての注意に欠けているのではありませんか」
マリアベルにとっては全く聞き覚えの無い、低くよく通る男の声がした。心なしか皮肉の色が滲むその声の主は、長剣を鞘に収めると、彼女の方へ静かに歩み寄った。慌ててマリアベルは手にした木材を相手に向かって構えた。その様子に、彼は右手を差し出しながら明らかに呆れ声で言った。
「立てますか?」
「え?」
「腰が抜けてはいないか、と聞いているんです」
「ぬ、抜ける訳が無いだろう! 失礼な! これはっ さっきの勢いで、それで立ち上がるタイミングをだなっ」
カッと頭に血が上り、マリアベルは勢いよく立ち上がりながら目の前の男に噛み付いた。しかし、男は平然と「ならば結構」と短く言い放つと、彼女に向かって差し出していた右手をアッサリと引っ込め、左手に持っていた長剣を腰帯に付け直した。彼の冷静な言葉に、徐々にマリアベルの頭も冷えてきた。目の前の男は、どうやら――間違いなく、マリアベルを助けてくれたのだ。気まずそうに臙脂色のワンピースの皺を手で伸ばし、居住まいを正してからマリアベルは彼に向き直った。
「その……先ほどは助かった。礼を言う」
「ああ、それはお気になさらず。己の務めを遂行するためですからね」
「? 務め?」
怪訝そうに鸚鵡返しするマリアベルを、先導するように彼は踵を返して歩きだした。慌てて後を追いつつ、マリアベルはチラリと地面に倒れたままの黒づくめの男へ視線をやった。
「あの男はどうするんだ? 自警団へ届けた方が……」
「どのみち仲間が回収に来るでしょう。自警団へ届けた後に消えた方が厄介ですから、放っておきます」
「仲間?」
「ええ、そうです」
振り返りもせず、事も無げに男は歩きながら頷いた。
気が付くといつの間にか、明るい大通りに辿り着いていた。賑やかな声と星を模ったランタンの明かりに、無意識にマリアベルは安堵の息を吐いた。その気配を感じたのか、前を歩いていた男は振り返らないまま「それにしても」と前置きをした上で、冷たい声で言った。
「もう少し、貴女は自分自身の置かれた立場を弁えた方が良い」
その言葉に、むっとしてマリアベルは柳眉を逆立てた。
「なんだそれは。何故そのような事を、見ず知らずの者に言われなくてはならないんだ!」
「“見ず知らず”ですか」
「当たり前だろう!」
むくれ顔のまま、マリアベルは背の高い男の後ろ頭を睨みつけた。先ほどまでは辺りが薄暗く見えにくかったが、今は多くの明かりでハッキリと後ろ姿を確認できた。
広い背中に、一目で上質と分かる布地で誂えた長衣に鞣し皮の腰帯を締めている。真っ直ぐな漆黒の長髪は緩く一つに束ね、右側から身体の前へ流していると思われる。
視線に気付いたのか、彼はマリアベルの方へ身体ごと向き直った。端正に整ってはいるが鋭さのある眉目に、印象的な瑠璃色の双眸。
――瑠璃色の双眸?
ハタとしてマリアベルは目を瞠り、次いで表情を引き攣らせて狼狽えた声を上げた。
「ま、待て…………いや、そんな馬鹿な……しかし、何故……」
対する男は、全く動じる様子は見せず、静かに口を開いた。
「名乗るのが遅れました。私はウィリバルト・ハインリッヒ・ウル・ルーエンハイム――――ご存知の通り、貴女の夫となる者です」