CODE ~虚なる魂・畏怖への憧れ~ 第1章
また、前回の物語の続きで生ける人形シリーズです。
今回は明らかになることや登場する人物や組織、一族が多く、スケールも大きくなっています。設定が固まり始めた作品でもあります。
第1章 根底に潜むもの
1.静かなるレクイエム
白亜の建物に5人の男性が集まっていた。まだ、施工途中のビルはそのままの姿で封印されていた。
これもバブルの残骸と言えるだろう。1番大柄の柄の悪い風巻英輔は、仕上げさえされていない殺風景の部屋の端を一瞥した。そこには1人の愛らしい少女がロープで縛られていた。その怯えた瞳は男性達を楽しませた。早朝であり、日の光も淡くしか光が中に入って来ない。
「しかし、3日以内に2億円なんて無理があるんじゃないっすか?」
比較的小柄なぼさぼさ頭の波向陽一が突然そう言った。すると、髪をつんつんに立てたサングラスの火庄大樹が想い切り睨んで言い放った。
「大丈夫だ。年商13億の社長だ。たんまり蓄えているはずだ。それに…」
彼はいやらしい眼差しを少女に向ける。
「この愛しい独り娘をただでさえ放って置くことはできねぇだろう」
すると、次に中肉中背、スキンヘッドで捲り上げた袖口から鮮やかなタトゥーの見え隠れする木崎功が少女に近付き彼女の顎を上げた。
「待て、手をつけるんじゃない」
風巻は怒鳴った。残念そうに立ち上がり振り返り様に彼は言った。
「どうせ、金が手に入っても命を取るんだろう」
「足の付く真似はするな」
「慎重だなぁ。…兄貴、変わったなぁ。なぁ、英明。昔はこんなに小さくなかったよなぁ」
木崎はわざと風巻を煽るように大きな声を上げた。すると、金杉英明はそれを聞いて鼻で笑った。
それを見て嘲笑うように風巻を一瞥して、少女の方に振り返り狩人の目を落した。彼女は恐怖の頂点を小さい心に満たしていた。
彼が手を伸ばそうとしたその時、まだドアの無い入り口から乾いた足音を響かせて1人の男性が入ってきた。打ちっぱなしのコンクリートの空間がさらに硬く居心地の悪いものになった。
彼は明かに全てにおいて尋常ではなかった。まるで感情が無いように冷静に、この状態に動じることもなくゆっくり入ってきた。少女はある種の畏怖を胸に抱いた。
藍のサングラスにバンダナを頭に巻いている。格好は黒いスラックスに薄紫のTシャツ。その上に軽い濃紺のジャケットを羽織っていた。両手をポケットに差し込んでいるが、誘拐犯の5人はまるで拳銃を突き付けられているように緊張をして固まった。その男性のまとうオーラはそれだけ気圧されるものであった。
彼は辺りを見回すと何も見ていないようにその中を平然と歩いていった。すると、ようやく火庄は何とか言葉を紬出した。
「誰だ。何が目的だ」
すると、彼は低い声で呟くように言葉を零した。
「夢の力を操る者、だ」
「何を馬鹿なことを」
風巻は鋭い視線を突き刺しながらその男性の前に立ち塞がった。
「邪魔だ」
彼は静かにそう言った。その1語1句に重みがあった。そのサングラスの奥にあるだろう人を見透かすような冷たい視線を風巻は必死に絶えていた。
「貴様、何様のつもりだ」
すると、彼はサングラスを取り、冷たい眼差しで睨み付けた。すると、次第に風巻の様子が変わっていった。彼は急に震え出した。
「俺じゃない、俺は悪くない…」
そう言うと突然その場に座り込んで定まらぬ視線を泳がせていった。
「兄貴」
火庄と波向が駆け寄るが風巻は怒られている子供のように怯えた。
「何遊んでいるんすか」
少女のことをすっかり忘れて、木崎はその男性に近付いた。そして、顔を近付けてドスの効いた声を振るわせた。
「何をやらかしてるんだ、お前」
そして、襟首を掴むがその拳は僅かに振るえている。その男性は視線を彼の額に突き刺した。すると、彼は力失せてその場に座り込み、信じられないものを見たように目を見開いて口から涎を垂らした。次の瞬間、弾かれたように彼は駆け
出して去っていった。
「何をしたんだ?何者なんだ?」
混乱して金杉はその男性に想い切りそう喚いた。しかし、彼は冷やかな視線を傾けた。
「だから言ったろう。夢の力を操る者、だたそれだけだ」
そう言って彼は金杉の肩を軽く叩いた。すると、急に彼はお腹を力強く押さえて痛みを訴え始めた。脂汗を流しながら必死に床を転げ回った。
「今度は何を?」
火庄は涙目でその男性を見た。彼は再びサングラスを掛けると俯いて吐き捨てるように囁いた。
「目障りだ、さっさと失せろ」
火庄は怯える風巻を肩に担ぎ、波向は苦痛に顔を歪ませる金杉を背負い、逃げるように慌てて去っていった。
静寂を取り戻した空間で少女はその不思議な力を使う男性を眺めた。彼は溜息をつくと、少女に目をやった。今、彼女の存在に気付いたかのように少々驚きを見せたように目を見開くがすぐに視線を目の前に戻す。そして、ドアの正反対の壁に辿り着くと、壁を透視するように手を壁に擦りながら何かを探る。そして、ある1点を想い切り押した。壁はその部分で凹み、それがスイッチになっていたのか壁がドアのようにある長方形部分が開いた。
少女はやっと聞える声を搾り出した。
「助けて」
彼はその新たに開いた入り口に入ろうとした足を止めて、横目で視線だけ彼女に注いだ。しばらく、考えていたのか動きを止めていたが、彼女に近付きロープを解いた。
「ありがとう…」
しかし、彼は何1つ言葉を発せずに先程の入り口に向かって足を踏み入れていった。彼女はロープで鬱血した腕と足を擦り大きく息を吐いたが、すぐに勇気を振り絞って彼の後を追った。壁に入り口が口を開けている。その中に歩み進むと薄暗い空間に数々のおびただしい死体が転がっているのに息を飲み、その場で嘔吐をした。一体ここで何が行なわれていたのだろうか。何かの実験か、何かの儀式か。
「どれだけ死者を冒涜すれば気が済むんだ…」
その男性は拳を握り絞めた。遺体はいずれも黒い1枚布の黒衣を着せられている。歳は18歳くらいから36歳くらいまでのいずれも体付きのいい男性ばかりであった。
窓には黒い布で遮られ入り口からの光で、中は仄かな視界を確保されていた。部屋の奥に儀式の用意のようなものがされていて、生臭い腐敗臭で満ちていた。
「一体どういうことなの?」
彼は1言も答えずに足をさらに進めた。そして、奥にある儀式のようなものの中央に行く。床にも何か模様が描かれてい
る。
「黒魔術みたい。この人達はその生贄にされたの?」
すると、彼は長身痩躯を曲げてあるものを拾った。それは広げられた1冊の古い書籍だった。中の文字はイギリス英語の文語体である。その他にも儀式や人形らしきものの挿絵が描かれていた。
「遅かったか…。何ということだ」
「どういうこと?」
彼は厳しい瞳を彼女に放った。それには憂いと悲哀の色が浮かんでいた。
「そうだ、黒魔術だ。かつて、歴史の表に浮かぶことのなかった宮廷人形師のアラン・スチュワートによって研究された魔魔術」
彼女は愕然となって彼の表情を覗き込んだ。彼は哀れみの視線を注いでゆっくりと言葉を織り出した。彼によって金のジッポのライターで火を点けられた魔術書は緑に似たどす黒い煙を上げた。少女は思わず咽てハンカチを取り出し口にた。
「そう、お前の祖先だ。このビルのオーナー、奈美・スチュワートの長女の神波真奈美、おな」
しばらく、張り詰めた静寂の糸がこの空間に張り巡らされたが、彼はさらに間を充分に置いて続けた。
「だが、生贄というのは誤りだ。彼らはある禍禍しい実験の犠牲になったんだ。死してなお愚弄された憐れな存在」
戦慄の予感が辺りを包む。彼女は堪らずその空間から脱出した。そして、振り向くがそこには部屋の入り口はなかった。
あの遺体の山も今は見えない。全ては夢だったような…。
―――ゆっくりと運命の輪が回り始めた。あの時のようにメビウスの形の…。
その時、壁の向こうから静かにオルゴールの調べが悲哀を運んで来た。
2.もう1つのプロローグ
「信じることだ。それが全ての鍵であり、トリガーなんだ。すでに、大きなトリガーは引かれている」
彼は意味ありげなことを話し出した。リノリウムの床はところどころ欠けている。老朽化してしまった為に、1ヶ月後に取り壊される予定になっている。
この廃墟に槐聖二は親友の我神修兎と来たのはある事件が契機であった。ある生ける人形の死を目にしたのである。そして、新たな『敵』が現れることを確信したからである。修兎は目の前にいる人物に1歩進み出た。彼らは大学生で同じクラスである。
「チャンスはまだあるはずだ。チャンスを見つけて掴むんだ」
すでに禍禍しい悪魔が復活させられた今、『彼ら』に打ち勝つ勝機があるかそうは言ったが修兎にも不安があった。
「いいや。チャンスなんて本来存在しない。いや、どこにでも転がっている。要はリズムに乗ること。頭で考えずに感覚に任せるんだ。波に乗ってタイミングよく流れを自分のものにすることだ」
「よく分からない」
聖二は困惑した表情を横の修兎に向ける。さらに、彼は話を続けた。
「全ては大いなる流れの中にある」
修兎は鋭い目付きを細くして錆びついているデスクを両手を勢いよく叩いた。この場所は東京の某所にあるところで、近々新しく改装される予定になっていた。そこに彼がこんなところにいるのには訳があった。ここにはスチュワート家に関わる『あるもの』が封印してあった。
「今はそんなことを言っている場合じゃない。大変なことになった。未だかつてない最大の危機だ」
「分かっている。しかし、そう悲観することもないさ。今見えている道は道じゃない。今、歩んでいる道に執着し過ぎては駄目なんだ。執着は道から外れた際に取り返しのつかない多大な影響を受けてしまうんだ。その目の前に見えているものだけが全てじゃないんだ。道なんてどこにでもある。今、見えている足の下の道から外れても広い大地が広がっているんだ」
そして、彼は咳払いをして続けた。
「道は与えられるものじゃない。自ら生み出すものなんだ」
「何が言いたいんですか?」
聖二は訝しげに顔を曇らせて言った。彼は表情を変えずに話を続ける。
「つまりだねぇ。今の話は人生だけにいえることじゃないんだ。まぁ、話を変えよう。君達の言う危機というのは『彼ら』のことだろう。とうとうまたまた復活されたと聞いた。しかも、我がスチュワート家直系の悪魔の一族が死体を使って『彼ら』を復活させることに成功したと。3体だけだということだが。『彼ら』に対抗するにはある意識が必要なんだよ。論理的過ぎてはいけないが論理立てて思考ができないといけない。感情に流されてはいけないが感性を最大限に生かす必要がある。そう、『彼ら』に対峙した時に有利なのは、極度に感性的であり、かつ極度に理性的であることだ」
「矛盾しているな」
修兎が吐き捨てるように言う。しかし、彼はその言葉に動じなかった。
「現にそういう人物は存在する。それに矛盾とは人間の概念の範疇でしか考えないから生まれる。そもそも大いなる流れには矛盾など存在しない。我々はアーティストであり哲学者でなければいけないんだ」
「哲学者は物理学者であり科学者であり、文学者、宗教家であるからな」
修兎はそう言って、ふと部屋の片隅にある石版に視線を注いだ。
「これは?」
「ああ、我がスチュワート家に伝わる石碑で『彼ら』の秘密が書かれているらしい。ここから黒魔術の書が解読、研究されたことは確かなのだが、私は先祖ほど賢明じゃないのでね」
そう言って、彼、マーク・スチュワートは石碑の前に歩み寄り優しく視線を注ぎながら呟いた。石版の多くに『MOBIUS』の文字が刻まれている。
「『我を滅せよ。さすれば道は開かれん』この最初の刻印は分かったのだが」
「どういう意味ですか?」
聖二が質問をするが、彼は苦笑して石碑を撫でた。指先には『CODE』という文字が刻まれている。
「実は内容は解明されていないんだ。ただ、先祖の過ちの原型であることだから、魂の破壊者の製作方法も記載されていることだけは明白なのだけど。やっと、言葉を解明してもさっきの言葉のように何を意味しているのかが分からない。今の言葉からこの文章は始まる。全ての始まりの言葉なんだよ。『何か目に見えない大いなる重大な何か』のね」
そして、部屋の奥まで歩くと振り返り、いつもの緩んだ表情を初めて真剣に引き絞めた。
「今回は流石に呑気に言ってられないな」
「だから、さっきから言っているんだ」
少々声を荒げて修兎はマークに近付いた。
「もともと、例え彼らの夢の力に打ち勝つ者だとしても、無力の人間達が彼らに勝ってきたことだって奇蹟に近いことなんだ。今回ばかりはそうはいかない。こちらにも不思議な力かそれに変わる力が必要だ。何か方法が要るんだ」
修兎の言葉に彼は頷き部屋の真中にある木箱の上に腰を下ろした。
「これが我々の最後の切り札だ」
箱を叩いてマークはそう言った。
「この建物に封印されているものを呼び出す」
聖二と修兎はお互いに顔を見合わせて冷や汗を流した。
「天使の人形を?」
「そう、彼らの中でも重要な存在の1体、彼女を」
「まさか、『葵』を?彼女はすでに山奥の屋敷で燃えてしまったんだ」
「その葵は以前に君達の父親とともに悪魔の人形達を倒す為に力を貸していたのだよ」
「でも、あの人形は確か、アラン・スチュワートの子孫の1人に生み出されたはず…」
聖二の言葉を遮るように修兎が口を挟んだ。
「転生か。クラウンの人形も何回も見かけられている」
「そう、セカンドコンタクト――人形達に悪魔の魂が入れられて覚醒してから、彼らの能力、『夢の力』と対抗する力を持つ人間により滅ぼされる事件の2番目のことだが――アランの子孫、エドワード・スチュワートにより代々伝わる魔術書により生み出された人形達が活動した時にクラウンは初めて転生している。彼らは死ぬことはないんだ。同じ魂が何度も現れる。忌まわしい人間の禍禍しい術によってね」
修兎はうむと唸ってゆっくり歩みマークの背後に回るとそこにある本を手に取った。
「それはかつて悪魔の人形と戦った者達の1人が書いた自費出版の小説だよ。私はそれが事実であることを信じているけどね」
修兎はペラペラとページを捲りながらしばらく速読をして、上目使いにマークを一瞥した。『哀夢~生ける人形の悲劇~』という題名の本はかなりの厚さであった。『春日真治』という著作名をちらっと見て彼はマークの言葉を待った。
「そう、それに書かれているように夢の力に打ち勝つ者は葵、封印されし悪魔の人形の魂を復活させる能力がある。特に大きな『夢の力に打ち勝つ能力』を持つ聖二君は実際に5人はいないといけないところを1人で間に合わすことが出来る。そして、『奴ら』の魂を浄化する力を持っているんだ」
「もう、止めろ。葵を復活させるな。何故、そんな酷いことを…」
「今はそれしかないんだ」
マークは穏かな空気を一変させて修兎を一蹴した。
「私だって不本意なんだ。しかし、分かってくれ」
彼はゆっくり木箱の蓋を開けるとそこには妖艶な美しい蝋人形が横たわっていた。まるで、人間の女性が眠っているようであった。
「これは特注だよ。…彼女の魂を受け入れることのできるように、夢の力に打ち勝つ者達の6人の能力で製作されている。それでは何故、彼女の魂をここに呼び寄せることができるか?それは簡単。ここが結界の場だからだよ」
聖二はデスクに腰を掛けると修兎に向かって口を開いた。
「あの葵ちゃんが消失した山奥の屋敷にも結界が張られたじゃないか」
「つまり、結界は葵が張っていたということだ。葵が彼らにとって重要な存在である訳はそこにある。葵も人形の魂を復活させることができる。そして、彼らの魂を浄化することもできる。つまり、葵は彼ら、ソウルブレーカー、魂の破壊者の重点であるんだ。彼女は自分を封印した時にもう復活しないように、辛苦を自他に与えないように結界を張ったんだ。しかし、忌まわしい儀式の前にはかなわなかった。だから、山奥の屋敷にも結界が張っていた。ただし、彼女自信は気付いていないようだが。そう、無意識の内に精神の保護の為に結界を張っていた。結界の力も彼らの原点である葵ならではの能力なんだ。あ、確証はないんだけどね」
「でも、どうして、こんなところに彼女は自分の魂を封印して結界を張ったんですか?そのおかげで彼女の魂の居場所が分かったんだけど」
聖二はそう訊くとマークは床に指差した。そこには何か儀式の為の図のようなものが描かれていた。
「これが彼女を呼んだんだ」
「誰が…」
振り返り本を近くの破れたソファに放り出して修兎がそう呟くとマークは瞳を閉じて重々しく言った。
「第3勢力。夢の力を持つ生ける人形、ソウルブレーカー、それを召還し何かを企む者達。実際には逆に悪魔に操られているんだけど。これが我々の敵。今は人間の死体に彼らの魂を入れる実験を繰り返している。人間の身体は心身ともに彼らにとても優位な力と状況を与える。生きている人間に魂を入れると、オリジナルの意識が邪魔になるしな。これは前例ありだ。
次に夢の力に打ち勝つ者達を含むソウルブレーカーに対峙する勢力、これが我々。
今回はその他の者達の存在が見え隠れしている。彼らが何者で、どんな能力で知識を持ち、何の目的を持っているのか。彼らが敵なのか味方なのかも定かではない」
「この葵の魂の召喚、封印の結界の模様はその第3勢力の誰かの仕業ってことか」
修兎はそう呟きマークの側に近付き、箱の中の仮初めの肉体に視線を注いだ。
「おそらくね」
マークが慎重な面持ちでそう言った。
すると、1人の人間が姿を現す。そして、彼は静かに言った。
「その魔術の模様を描いたのはその石碑の内容を知る者、ジンと呼ばれる大柄な男の仕業だ。君達の言う第3勢力のね。その名はCODEと言う」
その新参者は壁に寄り掛かりながら腕を組みそう言ってコンクリートの冷たい天井を見詰めた。
「それは彼女『SNOW』、日本語では『雪』か。『雪』の魂の召喚の紋章だ。君達は『葵』と呼んでいるようだが。ちなみにここに魂を移動させて結界で守護することで奴らの手から護った。とだけ言っておこう。後は彼女をどうしようと君達の自由だ」
彼は『魁』とだけ名乗り、CODEの1人で今の所は敵ではないことだけを彼らに告げて去っていった。
男性は建物から出て空を見上げた。すでに太陽はビルの隙間から顔を覗かせている。溜息をついて煙草を咥えるとふと
人の気配に気付き振り返った。そこには髪をつんつんに立てた三白眼の痩せた男性が電柱に寄り掛かっていた。
「お前は敵か」
彼は不躾にそう尋ねた。彼は無視をして煙草にライターの火を移した。煙の塊はゆっくりと空に向かって溶けていった。
「質問を変える。ソウルブレーカーはお前の敵か」
彼は少しだけ頷いた。
「では、少なくとも今は敵ではないな」
電柱から離れると腕組みを解いて彼に近付いた。彼の名前は翡翠翔。かつて、悪魔の人形と戦った者
の1人であるが、夢の力に打ち勝つ者ではなかった。その代わり彼はある能力を持っていた。
「では、『コード』とは何だ?」
その翔の質問に明かに彼は顔色を変化させて鋭い眼差しをサングラスの奥から放った。
「どこで聞いた?」
翔は彼が答える気がないのを悟るとそのまま踵を返した。彼はその翔を視線だけで追うがそのまま翔の去った方向と逆に向かって足を進めた。
男性はしばらくして大通りに出るとサングラスを取って目を細めた。
――いる。
人並みの中で手のひらを前に向けて腕を前方に伸ばした。回りの空間が一瞬にして凍りつく。彼の視線の先には巨大なスーツケースを引きずる漆黒のスーツをまとった男性がいた。その表情はサングラスとマスクで隠しいかにも怪しかった。
その垣間見られる肌は妙に青白かった。まるで、血が通っていないような…。
彼が能力を発揮しようとしたその時、刹那彼の腕を抑え付けられた。横目で確認すると、そこには見知らぬ男性がいた。彼は真剣な面持ちで沈黙を保ちながら首を横に振った。
「邪魔をするな」
やっと聞き取れる程の低い声で彼は目標をその男性に変えた。彼は何か目に見えぬ能力を発したようだった。しかし、彼は何も変化を見せることはなかった。
「お前、夢の力に打ち勝つ者だな」
手を下ろして眼だけで黒装束の男性を見送った。人ごみが流れていく中で彼は人並みを逆らって歩き出した。先程の男性が後にくっついていった。格好はラフでベージュのスラックスに軽いシャツを羽織っている。
「夢の力をキャンセルする者が本当にいるとはな」
「こっちこそ驚いた。人間なのに夢の力を操る者がいるとは。とにかく、いくら『敵』を見たからってここであの力を使うのはまずいよ。多くの人の目に触れるし、犠牲者も大勢出る。また、倒す機会はあるから、今は見送る方がいい」
男性は長身で早足の彼に追い付こうと小走りになりながら息を切らせた。
「夢の力に打ち勝つ者は力をキャンセルしている訳ではないんだよ」
「え?」
彼は立ち止まり青年の次の言葉を待った。この夢の力に打ち勝つ者は自分にはない知識を持っている。
「僕は榊将樹。以前、あの悪魔をこの身に宿らせた唯1人の者。だから、彼らの知識も少しは分かっている」
「生きた人間にもあいつらは宿ることができるのか」
――道理で死人に憑依できる訳だ。
「これから死者への冒涜を止めにいく。その為にお前の知っていることを全て聞かせて欲しい」
将樹は俯き少し考えたがすっと彼の顔を眺めて鋭い憂いの込めた瞳を見せた。
「その前に貴方のことを教えて下さい」
彼は息を飲みサングラスを掛けて空をゆっくり仰いだ。そして、大きく息を空に吐いて、翔が付いてくるのを気付いていな
がらあえて気にせず、首を横に振って将樹を連れてある場所に向かい始めた。
彼は『ジン』とだけ名乗り詳しい話もしないで早足で急いだ。その先にはある老朽化したビルがあった。その廃墟に『敵』も向かっているらしいし、これから大きな闘いが待っているのだ。将樹は少しは力になるだろう。あそこには『SNOW』の魂も封印されている。全ては彼女がフェイトを握っているのだ。雨の降りそうなその不吉な道をできるだけ急いだ。
3.大いなる企み
自分への手向けとして道端の花を焦げ跡に投げた梶原龍生は今、瓦礫の山を目前にしていた。隣り
にいるのは大手出版社の網代文雄である。彼の車は舗装されていない雨上がりの道路を通って来たの
で、泥だらけになって林の中に空いていた広がりに止められている。その中央に建物の跡が広がっていた。
龍生は気持ちの悪い静寂に堪りかねて、沈黙の空間を破った。
「ここで何があったのか、知っていますよね」
彼は振り返り真剣な表情をしながら、その問いに慎重に言葉を選んでいくように言葉を紡ぎ始めた。
「俺は1度ここに泊まりに来たことがあったんだ。小さな木造のホテルが建っていてね」
そして、煙草を咥えてライターの火を移すと白い塊を空に向かって吐いた。それはゆっくり彼の過去の記憶を辿るように、雲の多い青空に溶けて広がっていった。
仰いでいた顔を再び残骸に向けて彼は話の続きを語り始めた。
「ここで去年殺人事件があったんだ。そして、最後に謎の火災によってその事件は終焉を迎えた。ただ、事件が終結しても引っかかるものがあったんだ」
そう言うと瓦礫の焦げ跡の中からある破片を摘み上げた。それは雨に濡れていた人形の首である。このホテルは人形が多く存在していたのだ。
「気になることって?」
龍生はそう訊くと彼は振り返りその人形を遠くに投げ捨てて煙草を地面に落して踏み消した。その瞳は憂いが浮かんでいた。
「噂さ。元々、俺がここに訪れたのは五十鈴一先生の原稿をもらったついでに、その噂を調査する為だったんだ。怪談話があってな」
そう言って彼は4つに折り畳んだ1枚の紙をポケットから取り出した。その内容は目の前の変わり果てたホテルに付きまとっている噂であった。
『この屋敷は山奥に孤立して存在し、イギリスより移住したケート・スチュワートによりホテルとして建築された。ある雨の日の深夜に1人の女性が訪れて1晩宿泊した。次の日、彼女は部屋にはいなく、荷物でさえ存在しなかった。確かに様子がおかしかったが、まさか、宿泊費を払わずに逃げてしまったのでは、周りの森のどこかで自らの命を断つ為にここに来たのでは、と従業員に噂されたが、結局、屋敷のどこにも、周りの森の中にも女性の姿を見つけることはできなかった。
その直後よりケートは様子がおかしくなり、従業員が次々とやめていった。そして、約1年後に彼女は西の屋敷に篭ってしまい、オーナーをその娘が引き継ぐことになった。
それから、この辺りに白装束の女性の霊が出るようになったとのこと。なお、ケートの夫、北条光ノ介は彼女の錯乱をきっかけに家を出て、行方をくらませてしまった。その後、彼が移り住んだ東京の某区の事務所兼住居の古いビルには、何故かケートのホテルで神隠しにあった女性と思われるの霊が出るようになったという。彼はその後すぐに謎のビル転落死でこの世を去った。
以降、ここには少女の霊が出るようになったという。なお、この話は割愛することにする』
それをざっと目を通した龍生は文雄に視線を向ける。彼は悲哀に満ちた表情で呟く。
「この話で気になるのは、白装束の消えた女性と何故か気を狂わせたケートの存在」
彼が何を言いたいのかよく分からなかったが、龍生を導いたその理由が忌わしき運命とともに朽ちたホテルに由来することだけが分かった。文雄が再びゆっくりと口を開く。
「これからある人物に会いに行く。彼はルポライターで以前一緒に仕事をしたことがあるんだ。そして、この事件の際に現場に居合せた人物の1人でもあり、この事件を調べ、解決した者の1人でもある。そう、彼は事件の全容を知っているんだ。…彼なら俺の違和感を解消してくれるだろう」
聞き手に回っていた龍生は頷き微笑んで車に向かって歩いていった。焦げ跡に視線を落した文雄は石をその中に蹴り飛ばして、車のキーを取り出してくるくる回しながら龍生の後に続いた。
エンジン音がけたたましく鳴り響き、泥を後方に蹴りながら車が去った後に瓦礫の中から1人の人物が現れた。それは白装束の女性で妖しげに微笑んで両手に抱える人形に話掛けた。
「全てはこれから始まろうとしているわ」
すると、その背後から男性が現れる。老女は振り返り微笑んで彼を迎えた。
「久しぶりね、アル」
「そうですね。ところで我が一族の計画が今始まろうとしています。…しかし、それに気付き阻もうとする者達が現れています」
老女、ヘレン・スチュワートは穏かに微笑んで、まるで、妨害者を歓迎しているように優雅に振舞った。
「私が昔、この屋敷の主のケートに何故一族に伝わる秘伝書を渡したと思う?」
アルバート・スチュワートは少し考える振りをして首を傾げてみた。彼女はその心を見据えたように横目で軽くあしらうと瓦礫の中に開いた地下室への入り口に視線を下ろした。
「私達は今まで時期を見ていたのに直系でない、アランの言い伝えを中途半端にしか伝えられなかった者達が人形を復活させて騒動を起してしまったからね。反対勢力の拡大を促進してしまい、あのCODEが活動を始めてしまった」
「それで、敢えてケート達にあの人形覚醒を行わせて反対勢力と共倒れさせようとしたと。しかも、ケートの精神を狂乱させることで多くの強力な兵隊を作るように仕向けた、そんなところですかね」
「相変わらず甘いわね、アル。CODEの尻尾を掴む為でしょ?彼らが人形のことを知れば必ずやってくる。勿論、ここにやって来たわ」
「そして、葬ることができた、ですか?」
「ええ。でも、本当に死んだのかしら。警察の報告では彼の死体は存在しなかったようだけど」
ヘレンは地下室から持ち出した怪しき人形の頭を優しく撫でて、溜息をついた。
「彼らの能力なら死を偽ることも可能だと」
「まぁね」
「でも、『SNOW』の身体が地下室で無事だったのは幸いでした。ヘレン様がアラン邸の秘密の地下室から持ってきたセカンドモデルドール。これに彼女の魂を入れることができれば、魔術書がなくとも彼らを召喚できます」
「今では私の持つ1冊のみとなってしまったからね」
「計画の実験も問題はありませんし。実験は成功しました。これから全てが始まるのです。幕はすでに上げられました。さぁ、行きましょう。彼らの元へ」
アルバートは老女ヘレンの手を取ると背後の森の中に入っていった。
「それで俺をあそこに連れて行った訳は?」
梶原龍生は自分のアパートの近く喫茶店に来ていた。向かいに座る文雄に真剣な面持ちで訊いた。元々無愛想な彼だったがさらに敵対心を感じさせるものがあった。
文雄はそんな表情の龍生にもものともせず、頷いてゆっくり話を始めた。
「実は大スクープの話があるんだ。インターネットのあるサイトで――真偽はともかく――あの場所にあの人物の秘密があるってな」
「勿体ぶるな」
龍生の催促にも気に掛けずにオーダーしたウィンナコーヒーをゆっくり啜った。おっとりした文雄にはとげとげしい龍生も叶わなかった。
「香住愛香、は勿論知っていますね」
龍生はアイスコーヒーのストローを指で遊びながら勿論と言うように頷く。
「当たり前だ。平成の歌姫と言われて今週もCD売上ランキング2位の今、最も注目されているアイドルだろ」
「実は彼女の母親もアイドルだったと知っていた?」
「それはあまり知られていないからな。香住涼子だろう。俺の中では一発屋で終わった感じだけど」
「確かに16歳でデビューして僅か2年でアーティストの世界から去ったのだから」
「その涼子がどうしたんだ?」
苛立ちを顕わにして龍生は急かした。彼は相変わらずマイペースに話を続ける。
「その香住涼子はかつてある人形を手に入れて、その人形は一瞬だけ流行ったことがあったのを覚えているかい?」
「さぁな」
半ば諦めぎみで文雄の話が進むのを待った。
「それはラックドールと言われて願いを叶えると言われた。しかし、ある日突然その人形達は全てこの世から消えて、持ち主のほとんどが謎の死を遂げたんだ」
「それは知らなかった。で、それがあの場所と何の関係があるんだ?」
「まぁ、順序立てて話すから。…その中で生き残った者がいたんだ」
「愛香がいるんだから、生き残ったのは涼子だろう」
「勿論、彼女は引退してすぐに結婚、出産したんだけど。その他にもう1人いる。細波相馬という人物だ。しかも、彼は涼子と知り合いだったらしい。それは置いておいて、その息子の明日真という人物についてそのサイトに記述してあったんだ」
「やっと、サイトの話に繋がったな」
すっかり空になったコップを何気なく回しながら龍生は嘆くようにそう呟いた。彼は笑顔で頷き更に話を続けた。
「明日真という少年があの屋敷にまつわるエピソードに関係しているという訳」
話が終わると龍生は大きな溜息を落した。
「で、どういう話が載ってたんだ?」
文雄は水を一口含んでからゆっくり口を開いた。
「その少年が屋敷の事件後にあそこで行方不明になったらしい」
「何故、あんな所へ行ったんだ?」
「それを知っている者は誰1人いなかったらしい」
龍生はうむと唸って腕を組むと色々脳裏に思案を巡らせた。すると、喫茶店に2人の男性が入ってきた。
聖二と修兎であった。彼らは多神龍久の代わりにやってきたのだ。フリーのルポライターの龍久は新たなネタが手に入り、それどころではなくなってしまい、彼の信頼する青年達を遣したのだ。彼らにはあのホテル延焼事件のことを事細かに話をしている。彼らは口をぽかんと開けて彼らを見詰めた。
彼らは軽く事件のあらすじを話すと聖二はジュースを子供っぽく飲み干した。そして、悪魔の人形に関係しないように、ただの女性の復讐の事件、という形で話を完結させた。彼らは残念そうに期待を初めてからしていないように首を横に振りそのまま礼を言うと伝票を摘んで去っていった。それを見て安心してこれ以上、部外者のジャーナリストの大いなる危機への立ち入りを阻止した。
しばらく、下らない話をしていたがその内に第2の事件の話になった。
「神が存在するのだったら、俺は存在していないはずだ」
いつもの修兎の口癖が始まった。
「『第2の月夜見館事件』だろう。奴らも賢くなった。召喚の為の人間の死体サンプルを集める為に『信仰』という人間の弱い心の支えである『依存』を利用したのだからな」
「悪者を抹殺することと死体召喚の実験。禍禍しいけど、一石二鳥のことだったんだね。でも、第3勢力であるCODEのメンバー、そして、お前と匹敵、それ以上の『夢の力に打ち勝つ力』を持つ少年によって悪魔は殲滅したよ。その爆発、炎上の中で今だ行方不明なんだけどね」
すると、ふと聖二は天井を眺めながら呟いた。
「でも、CODEってなんだろうね。彼らには重要な意味があるみたいだけど。電気コードのようなコード、細い糸?」
修兎はない知恵を絞ってキリマンジャロのカップにあるスプーンをゆっくり掻き混ぜながら言う。
「CODEの意味はそれだけじゃない。ほら、コードナンバー、コードネーム、バーコードとか言うだろう。『コード』には秘密、のような意味も存在するんだ」
すると、後ろの席にいた女性が振り向き囁いた。
「CODEはメビウスが操る世界への影響の目に見えぬ不思議な力。運命がどうしてもサブリミナルコードや偶然では片付けられない時の最後の手段。大きな超自然な力。それは使者達によって施行させるの。その名も魂の破壊者、ソウルブレーカー」
その白い肌にショートヘアの愛らしい女性は魅力的に微笑んだ。
「私は柏崎愛夢。勿論、CODEの1人よ。彼らはすでに死体への召喚実験は成功しているの。貴方達に手伝ってほしい」
「その前に、CODE、メビウス、夢の力に打ち勝つ者について教えてほしい」
全く信用していない修兎は鋭い眼差しで愛夢に言葉を突き刺した。しかし、彼女は動じることなく微笑んで煌く薄いグロスが目立つ魅惑的な唇を開いた。
「ある少年が言っていたわ。『自分は魂の力が使える。そう、かつての人形『葵』の持った力、より強い『夢の力に打ち勝つ能力』。全ては魂の力なんだ。君達メビウスの使徒の降臨・浄化・封印・CODEの無力化。そう、この力は歪んだもう1つのCODEの力さ。『葵』が使えたのも法の存在に混沌の強い感情が込められた為に偶然その力を手に入れたんだ。メビウスの帯のように裏表のないCODE。この2つの力は裏表だけど1つに繋がっているのさ』ってね。封印というのは、結界を生み出す力も含まれていると思うけど」
そして、オレンジジュースを一口飲んで話を続ける。
「彼らは木で出来ていようと蝋で出来ていようと自由に固形を流動的に人形の身体を動かすことが出来た。それは『波動』の力の応用のようだが定かではない。また、その『波動』により宙を浮くことも物に衝撃を与えることができる。人間の精神に多大な影響を与えることもできる。まぁ、それは知っているよね」
2人は素直に頷いた。
「彼らのボス、悪魔のクラウン人形はこう言っていたわ。数々のソウルブレーカーと『夢の力に打ち勝つ者達』との闘いの中で、我々には2体に重要な存在がいることをお前達は知った。
そう、俺のような-残虐で異常な悪魔のクラウン-とソウルブレーカー召喚の力、すなわち『誕生』と魂をメビウスの形体の運命――地獄――に戻す力、すなわち『浄化』の力を抱く凄まじく強い『夢の力に打ち勝つ者』、すなわち『SNOWCODE』の血をより多く受け継ぐ人間と同じ能力を持つ天使の蝋人形、『SNOW』、君達の言葉で『雪』と呼ぶべきかな――これは葵ちゃんのことね――彼女はすでに浄化されてしまっているけどね。
スチュワートの子孫、エドワード・スチュワートにより、多くの思いを込められた天使の魔術書により作られた人形『雪』は『葵』と名付けられた。数回の浄化と召喚を繰り返されたあげく、今は魂はある建物に、形代は北の月夜見の館に隠された。そう、『雪』、いや君達には『葵』という名の方が相応しいかな?君達は彼女がどんな形代でも誕生できると思っているらしいが、そうではない。最初に誕生した時の蝋人形は作り手の異常な感情が込められて蝋を加工された。次もその次も同じ身体で復活させられた。しかし、もうその身体は燃えてしまいこの世に存在しない。
そして、北の方に視線を向けて嘲るように微笑んだの。
彼女を復活出来る形代は北の館の主人、ケート・スチュワートがある人間からかつて受け継いだファーストモデルドールだけ。今はな。オリジナルの次に作られたセカンドアンティークの人形。しかし、おそらく北の屋敷もろとも燃え切ってしまっただろうって」
聖二達はその光景を直に見ていたので、葵の浄化は痛いほど分かっていた。
「その『SNOWCODE』の血を引く者が『夢の力に打ち勝つ者』で、その血が濃ければ濃いほどその力も強いということか…」
感慨深く修兎は聖二をまじまじと見た。
「でも、今、私達の入った情報では、すでに彼らは『雪』を手に入れたの」
「馬鹿な」
咽て修兎は驚愕の表情を大袈裟に見せた。
「身体も魂もマークが護っている。結界でね」
彼女は妖艶な瞳で誘うように長い睫を触って見せる。
「それはどうかな?セカンドアンティークはあの初代、アラン・スチュワートが作ったものなのよ。形代としてはあっちの方が完全だわ。それにあの結界が破られたら魂も呼び込める。スチュワート本家でこの大いなる計画を企てているのはスチュワート家の3人と古くからの付き人1人。彼らは死体が依り代のソウルブレーカー、つまり、実験体3体とマークのいるボロビルに向かったわ。勿論、結界とマークの護衛、そして、彼ら、『敵』と生ける屍、ゾンビ達を倒す為に私の仲間も向かっている所。さぁ、大詰めよ。大いなる危機のキーは『雪』の復活に関わっているの。もう、彼らは魔術書を持っていないから、魂の破壊者を増やすには彼女の復活が不可欠だし、ソウルブレーカーは『雪』と『クラウン』の2体が揃うことは彼らに重要なことなのよ」
愛夢はそっけなくそう言った。
「可哀想な葵…」
聖二が誰にも聞えないようにそう呟いた。
「さぁ、行くわよ。私達も奴らを阻止するの」
3人は喫茶店を逃げるように飛び出して、マークのいるボロビルに向かって駆け出していった。歪められた運命の歯車は突如急に早く回り始める…。
4.全ての始まり
彼女はイギリス人と日本人のハーフであった。だから、小さい頃は2カ国語の交わされる生活の中で過ごしていた。しかし、彼女は両親から英語は教わってなく英語の話は理解できなかったので、英語の会話が始まると秘密の話をされているように感じていた。
「お母さんの悪口言っちゃ駄目」
3歳くらいのときに叔母と母親の会話の間を割ってそう言葉を放ったこともあった。だから、彼女は言葉を理解しなくても人の心を見抜けるようになっていった。否、それだけが理由ではない。彼女はその弱い性格から人の顔色を窺い、自分が悪い印象を与えていないか気にすることも原因かもしれない。
それに彼女の母親は叱る時は必要以上にヒステリックに自分の鬱憤を全て晴らすように彼女の良心を責めた。自分が悪い(或はそう思い込んでいる)彼女にとっては感情の逃げ道はなく、自責の念が倍以上に自分で自分を追い込み罪悪感がさらに彼女の心を弱くして、人の心、気持ちを気にするようになっていった。1歳から5歳までは母親もそんなことはなかったのだが。彼女は幼い頃の記憶さえも完全ではないが覚えていた。
少しのことでもいつまでも気にする性格なのが災いしたのである。そんな彼女も心も弱い何も信じることができないようになり、16年が経っていた。
その人の心を読む彼女の名前はの神波真奈美といった。彼女は初めて信じられる人間が中学2年の頃にできた。親友というべき存在であった。しかし、彼女に意を決してリーディングの能力の話をした。始めは冗談と思われたが、実際にやってみせると彼女は気味悪がった。パラノイア、そう、4大精神病の1つ、変質病かもしれない。そう言って彼女は真奈美から遠ざかっていった。
高校に入って少ししてから、彼女が大手建設会社の社長令嬢であることがどこからか知られると、友人になろうと近付く者が多くなったがその見返りの欲求を読み取ると人間不信になり、それから人を近付けないようになった。人間恐怖症の彼女は虚無と孤独の心がほとんどの、誘拐から助けてくれた謎の大男、ジンに興味を持った。
彼にもう1度会うにはあの悪魔の所業を調査すればいいのではないか。真奈美は再びあのビルに向かうことにした。例え、あの誘拐犯達がいても。
彼女が再びあのビルの前に来ていた。いつ見ても嘔吐感を誘う嫌悪すべき空気で満ちている。足を踏み入れるのにしばらくかかってしまったが、中に入った時に急に辺りの光りが急に暗くなった気がした。時は12時を過ぎたばかりなのに、彼女が建物に侵入した途端、曇天になったのだ。
呆然とエントランスを先に進んでいると心の声が胸に響いていた。
『殺して…、苦しいよ』
『何も悪いことしてないのに』
彼女は胸を掴み屈み込んでしまった。頭を横に激しく振って目を瞑っていると、もう1つ誰かの声が頭に響いた。これは心の声じゃなく直接頭に聞えてくるものであった。
『全てを捨てて』
それが何を意味しているのか分からなかった。全てを捨てる。彼女は心の声を聞えないように心を塞いで感情をできるだけ塞いだ。やっと、落ち付くと顔を上げて目の前を見た。何もない殺風景な打ちっ放しのコンクリートの壁ばかり。冷たい感覚が肌に突き刺した。
『天の声を聞いて』
―――天の声?信仰?神様ってこと?それとも、他の何かの意志の声…?
立ち上がり埃を掃うと階段の方に足を向けた。すると、急に厭な予感、戦慄が全身を襲い心が氷水に沈み込まされた感覚を覚えた。情を受ける感覚を感じたことのないことも、この上ない孤独も、誰も信じられない懐疑観も、なに1つ依存すべきもののない不安感も慣れていた。他人だけでなく自分でさえ自分を追い込むほど『敵』であることでさえ。
そんな彼女がこれくらいの畏怖くらいで挫ける訳がなかった。心は弱かったが、強くもあったのだ。誰も感じたことのないくらいの心の痛みを知っていて、なおもこうして生きているのだから。
彼女は突如背後にとてつもない凶を感じて咄嗟に駆け出した。転びそうになるのを何とか態勢を整えてカモシカのような足は今までで1番速いのではないかと思われるくらいのスピードで走った。
建物から出ると細い路地を駆け抜ける。周りの歩行者が不思議そうに見ていようと気にする暇さえなかった。気付くと彼女はあるビルの中で足を止めていた。荒い息を整えて辺りを見回すとそこはデパートであった。しかし、不況の為に買い物客は少なくもう直閉店という噂もあるくらいであった。
―――何故、ここに来てしまったのだろうか。不安の為に人の多い所へ?対人恐怖症で人の心の声を怖れる自分がそんなことを考える訳がない。まるで、何かの『運命に近い見えない力』によって導かれたかのように。
…天の声に耳を傾ける。それはその運命の力に従えという意味だったのだろうか?
「ここから逃げて」
その時、女性の心の声が心を裂くような勢いで響いた。誰の声?先ほどのビルの声はあの死体達の中の今だ死に切れていない人の声だった。あれとは違い『人間の心の声』と異質なように感じる。体が金縛りにあったように動けないでいると、突如その建物は照明が全て消えて悲鳴やざわめきが様々な場所から放たれる。と同時に大きな地震が起きて激しい衝撃が建物全体に発生した。
彼女は何が起きたのか分からずにその場に倒れて気を失ってしまった。その後、異様な静寂が長い間続いた。
こつこつこつ…。渇いた靴音が聞える。男性の革靴のようだ。心の声に耳を傾ける。大部分の人間は気絶、もしかしたら死んでいるらしく空虚であった。先ほどの衝撃であれば棚や動くものは全て倒れ零れ落ちて破損しているだろう。しかし、真奈美自身は無傷なのは不思議であった。その靴音は背後で止まり、何かが地面に放られる音が辺りに響いた。
カラカラカラ…。勇気を出して置き上がり振り向くとそこには少年が懐中電灯を持って屈んでいた。床に転がったプルトップ付き缶詰やジュースを必死に集めて置いていたが、彼女が自分を見ていることに気付くと苦笑した。
「とりあえず、食料と飲み物は確保したから当分は大丈夫。でも、今はいいけど、SNOWが活動を始めたら最後。すぐに地上に向けて慎重に逃げるよ」
焼き鳥の缶詰を味わい始めるその少年をよそに、真奈美は彼が床に置いた懐中電灯を取り辺りを見回した。しかし、すぐにそれを彼は取り返して真剣な表情で言った。
「見ない方がいい」
確かに彼の言う通りであった。回りの棚は全て倒れ品物は散乱している。壁のクロスが破れ、コンクリートが割れて零れて鉄筋が折れ曲がり、鉄骨が向き出しになっているところがあった。
梁は2/3ほどのところから折れて地面に刺さっているものもある。照明や窓が割れて落ちている。窓から向き出しの濡れた土が見える。何より、棚の下敷き、剥がれた壁のコンクリートの下敷き、落ちた天井の下敷きで見るも無残な重症や死亡している人々が倒れている。直に呻き声や助けを求める心の声が彼女を襲ったが除々に途絶えていく。生存者は果たしているのだろうか。ショウケースの割れたガラスの大きな欠片で腹部を切り裂いた中年男性が、あさっての方向に向いた足と折れてぶらぶらさせた右腕をもがきながら、這って内臓を引き摺りながらエレベーターの方へ向かっている。そして、エレベーターホールで力尽きて動かなくなってしまった。それも暗闇の中の出来事なので2人にはわからなかった。
「一体、何が起こったの?」
その真奈美の声はかなり震えていた。彼は2つ目の缶詰を平らげてコーラに口を付けていたが、すぐに緊迫した表情に変わった。
「まず、自己紹介。俺の名前は竟水舜。SNOWCODEの血を多く引く者の1人で、より多くの『夢の力に打ち勝つ能力』ともう1つのCODEの力を持つ者。何て言っても分からないよね」
彼は高校2年生。実は舜は2回目の月夜見館事件で魂の破壊者との闘いで爆発、炎上してから行方不明であったのだ。それはジンについてCODEの力を見に付けて修行していたり、この戦いについての知識を身に付けたりしていたのだった。
「SNOWCODEって?」
「俺もよく知らないんだけど、ある人の話だとかつて中国の北西地域にいた法力を持った民族でSNOWの力に近いCODEの力を精神作用だけキャンセル出来るところからSNOWCODEとその民族やその力、血を呼ぶらしい」
「このデパートはどうなったの?」
「地下に落下したよ。3体の死体に宿った悪魔によってね。まぁ、今頃はジン達に―――ジンというのは俺のCODEの力の師匠で『奴ら』の対抗組織CODEのリーダー的存在なんだ―――倒されているはず。死体に召喚したことで『奴ら』は倍の強さを手に入れたんだ。CODEの3人が戦っても、かなりの強さのジンがいても手間取ったんだ。全ては君の本家、スチュワート一族のヘレンとアルバートの仕業さ。彼らは3体の生ける屍にSNOWという魂の破壊者の重要な存在の魂の封印されている結界のあるビルに向かわせて結界を破らせたのさ」
―――『SNOW』。さっき、逃げてって心の声で叫んだ女性だ。
真奈美は心の中でそう呟く。そして、舜の心の中を見た。彼は嘘偽りは一言も言っていない。しかも、彼の知識も下手な
言いたいことも全て知り、感じることができた。なおも彼の話は続く。
「で、解放された彼女の魂はヘレンが持っていた、北の月夜見館に隠されていたセカンドモデルドールに召喚されてしまったんだよ」
「彼女は存在は『敵』なのに、心は『味方』って感じでしょ?」
「まぁ、彼女は天使の魔術で生まれたから。魂の破壊者は2種類いて、悪魔の魔術書で生まれる全ての人間を殲滅しようとするものと、その魔術の手順のある箇所を抜いて召喚する天使の魔術書があるんだ。そいつは悪い心を持つ人間のみを殲滅しようとする」
「生き物は皆生きる権利があるのに」
すると、舜は寂しい瞳をして暗闇を見詰めた。真奈美は缶詰を食べ始めながら、彼の言葉を聞く前に言おうとしていることを先に心で覗いて息を詰まらせて思わず咽てしまった。
「人間は善悪関係なく死ななければいけない人間はいるんだ。死ななければいけないか、生き続けなければいけないかは本人の意見でも他人の意見でもない。運命で決定されていると思っているよ」
「言い忘れたけど、僕はジンの命令で君を護る為にこの建物が地下に封印されるその一瞬に侵入してCODEの力で君の居場所を探知して衝撃から護ったんだ。だから、君は傷1つなく助かった」
そう言いながら彼は俯いた。心の中で、『本当はデパートの中の全ての人間を助けたかった。やはり、けして人は天使にはなれないんだ』という言葉を聞いて真奈美は少し彼を信用できると判別して安心した。
「でも、3体の屍はジン達に倒されたけど、ヘレン達は姿を消した。彼らと一緒にいた将樹という少年が後を追ったらしいけど、捕まえるのはおそらく難しいだろうね。それより、恐ろしいのがこれからなんだ。何故、彼らは試験体を使って、ジン達に殲滅させられてもこの建物を地中に落したか」
息を飲んで舜は戦慄を思わせる面持ちになる。真剣で張り詰めた空気が真奈美の感覚を鈍らせた。彼のような特殊な力がなくてもこれから起こる畏怖は感じることができた。最大の人類の危機が始まろうとしている。
「彼らはSNOWにあることをした。彼女の魂を天使ではなく悪魔の魔術で召喚してしまったんだ。もう、彼女は以前の優しい彼女じゃない。これから、この建物の中に地上に残ったペントハウスから侵入して、ここの中で死んだ人間達をみんな『奴ら』の仲間にしようと、そして人間を全て殲滅しようとしているんだ」
「悪魔と化しても彼女は優しい昔の心を残しているわ。2人の彼女の意志が互いに戦っているけど、今は悪魔が勝ってしまっているの」
すると、その言葉に舜は一瞥して懐疑的で同情的な瞳の色を見せた。
「君は心が読めるんだね。…色々苦労したんだね」
彼女は何故か分からないが自然に涙が溢れ、今まで踏ん張っていた心が溶けて舜の腕を掴んだ。彼女に初めて依存できる人間が現れたのだ。彼は心の中が見られても全然気にしないといった感じで、現に彼の思考はそうであった。
『早く逃げて。もうすぐ…』
おそらく良い意志のSNOWの心の声だろうと思われる叫びが聞えた。すると、周りから異様な匂いと呻き声、そして恐怖の感覚が立ち始めた。これから全てが始まろうとしている。メビウスの帯の形の運命が音を立てて回り始めたのだ。
5.地中の迷宮
「どうして、この上ない邪悪で残虐な人間を滅することはいけないことなのだ?」
アルバートが言った。将樹がヘレン達に追い付いたのはすでにあの沈没したデパートから2km離れた大通りであった。
観念してアルバートはヘレンを掴んで共に立ち止まって将樹の方に振り向いた。
「君達がしたことは間違っています。魂の破壊者が人形に宿らせるように魔術が開発されたのには訳があります」
すると、アルバートは鼻で笑った。
「人形に召喚した理由?運命の意志、メビウスが古代エジプトの民族にシャーマンを使い残した魔術を石版にして、それを手に入れて英語に解読して石版に残した歴史に葬られしイギリスの宮廷人形師、我等が先祖アラン・スチュワートにより研究された。そして、それが黒魔術として研究されて自ら作った人形に魂を入れたくて魔術書を作り召喚したのだ。2種類の魔術書を作った理由は研究の為でもある。そして、子孫に伝えたんだ。人形師であったからだ」
「彼らは死体に入魂すると、その残虐さは増す。法を混沌の器に入れるんです。アランも想像の付かない化物が沢山生まれてただでさえ人間を全て殲滅しようとしているのに…」
「彼らが人間を全て殲滅しようとしている?」
アルバートが訊き直した。将樹は頷くと彼はヘレンの方に振り向く。彼女はアルバートの視線を避けるように横を向いた。
「彼らの本質は、本能は人間を殲滅することなんです」
「ヘレン、どういうことです?まさか、彼女に天使ではなく、悪魔の術を?邪悪な人間だけを殲滅するんじゃ…」
「全てはメビウス様の思し召しさ」
そう言って、全て計画通りに最悪の悪魔の誕生、増殖に成功し満足を見せるとそのまま車道に飛び込んだ。ダンプカーが緋色の液体を飛び散らせてやけに耳障りなクラクションを長く鳴らしてガードレールに突っ込んだ。
「僕は1度彼らを自分の体に召喚したことがあります。今はSNOWの力で彼は浄化したけど、彼らの知識、記憶は残っているんです。僕の言うことを信じて下さい」
アルバートは自分の過ちに気付くと将樹とともにデパートに戻ることにした。
アルバートは小さい頃から正義感の強い、素直な性質であった。だから、ヘレンにも簡単に騙された。この最大の危機を及ぼす計画にも片棒を担いでしまった。そんな彼が極端なほどの責任感、正義感に満ち溢れ、残虐な人間を殺したいほど憎むのには理由があった。
彼の父親は最悪に自己中心的で、自分が世界で一番偉く自分の気に入らないことは全て一喝、一蹴した。彼は人間として最低な存在であった。回りの人間もそれを感じていたが、何を言っても彼には無駄であった。可笑しな性質と言っても過言ではない。
他の人間は諦めたが彼は非難し続けた。しかし、自分の過ちを認めるという概念のない彼には無意味で、逆に機嫌を損ねた。その非難もエスカレートし、激突が最高潮になったのは、彼が中学2年の冬であった。
言い合いがエスカレートし彼は精神的に限界に達した。そう、言わば激しい言動のストーカーに虐待された子供のように彼は精神的に追い詰められ、殴る、蹴る、唾を吐くといった行為にも及んだが、彼は無意味だった。とうとう彼は果物ナイフを向けた。それが彼の精神を護る最後の抵抗であった。
結局、母親に阻まれた。
「もう、止めて。本当に殺されちゃうわよ」
その彼女が父親に言った言葉がその惨劇の終焉の幕を下ろした。
それ以来、彼は心の底より彼を拒否するようになった。夢の中で父親が死に本当に喜んでいたほどであった。死ぬほどの、精神的に追い込まれた虐待された子供がその父親、母親と一緒に暮さなければいけない子供の心は精神の破壊へと追いやられていった。
彼には兄弟がいた。しかし、彼らもまた、多少なりとも父親の性質を受け継ぎ、それなりの性質であった。だから、彼は兄弟とも心の壁を作り拒否した。
元々小さい頃から虐められ、優秀で比較されていた姉は――母親が機嫌を見て恐怖を抱くほどのすぐに機嫌を損ね、暴力に訴え、気に入らないことがあればすぐに表に表して拒否していた――すでに距離を置いていたし、弟とは中学3年の冬にある喧嘩を境に決別した。
そして、彼は両親と同じ空間にいるだけでも心的外傷後ストレス障害(PTSD)を起し、自荷中毒を起すほどであった。
それが原因でアルバートは邪悪な人間を非情に憎むようになった。デパートはすでにペントハウスを残して地中に潜り、悪魔の迷宮と化していた。その出入り口のドアには結界が貼ってある。これはジン達の仕業だろう。今のところ生ける屍達が外に出て人間を襲うことはないだろう。絶え難い罪悪感を持つアルバートはその光景を見て瞳を潤ませた。将樹にはもう、彼の砕け散った心を助けることはできなかった。彼は自分から狂ったように悪魔の巣窟に飛び込んでいった。将樹は黙ってただそれを見送ることしかできなかった。彼もまた『奴ら』に襲われて悪魔の仲間と化すだろう。
デパートが激しい衝撃を受けた時に2階のトイレの中にいてそこが偶然にも彼を助けることになり無傷で助かった。否、それだけが彼を助けたのではないのかもしれない。陶器達は砕けてしまったが。トイレを出ても暗闇なので動きが取れずにいた。彼の名は木曾平太である。
彼はここにいるのには原因があった。それは二重人格のもう1つの人格、仰がこの周辺の雰囲気の異変に気付き、平太の意志を無視してやってきたのだ。
彼がそんな精神状態になったのには原因があった。仰は無意識のもう1人の彼という存在の本質の1つといってもよかった。
彼が高校2年の秋に彼は1つの疑問を持ち始めた。丁度思春期の精神的変化と哲学的思考が重なった時期でもあった。
彼は他人から自分が感じ取っていた自分のイメージと友人の言う自分のイメージが異なることに気付いた。尤も、中には楽天的という人もいれば悲観的という人も、元気ではしゃいでいると思う人も大人しく無口な人もいたのだが。
そして、他人の意見を、どうして自分のイメージと違うのかを考えているとその他人の意見を肯定してみることができた。
すると、今までの自分の感じ考えていたことと違うものの見方ができるようになった。
多面的なものの見方、複数のことを、相反することを肯定し否定できるようになった。すると、今まで自分が感じ行動してきたものの中に、悪行が、今まで悪くないと思われていたものが悪く思えてきた。尤もそれは大して悪いことではなかった
のだが。
そう、自分の傲慢な性格を、人間が普通に持つ自分の正当化の考えが理解でき、精神を、人間の心を掘下げる結果になった。
どんどん自分がしてきたことや自分がもつ性質を悪く感じていき、全てをも悪く、自分の存在、自分自身を悪く思うようになった。自分を追い込み周りからの自分の心への攻撃を何倍にもして、本来、正当化や責任転換、他への攻撃、精神的のバリアを解放して自ら心に突き刺した。元々強い心ではない彼は心を、ガラスの石を打ち砕いた。
自分を悪魔、存在してはならない者として蔑み恨み滅しようとしたが、寸前でかなわなかった。
超悲観主義と化した平太は本能をも凌駕するほどの精神的潔癖症になっていった。
そんな彼も性格が変化しても前の性質が消え失せたことにはならなかった。人間は様々物事を身に付けていく。しかし、そうした中の変化は変化前の性質が変わったことではなく、前の性質を心の奥に押し込めて新たな性質が表に現れているに過ぎないのである。
正反対の性格、性質(あるいは心の病)になった平太も例外ではなかった。悲観的な性質を持ちつつ以前の性質を持っているである。それは知覚できないまでも感じ取ることはできるし、自分を客観視できる彼には容易なことであった。そう考えるとその表の悲観主義、その奥の以前の観念、その他の多面的な性格が一体に存在するということになり、その性質は意識下のものであるが存在はしている。つまり、弱い意志があると言えないだろうか。
多重人格とは言わないまでも意識外の精神的性質に意志に近いものがあるのではないか。少なくても彼はそう感じ取っていた。
その彼はあることが原因で他の性質を表に現す術を身に付けたのであった。そう、そのきっかけは以上のような精神の追い込まれた状況であった。
その苦しい時に誰もいなかった。味方が一人もいない。全てが敵で自分を傷付け自分さえも敵であった。一番大変な時に独りであるということは辛苦に満ちた状況であった。
心を壊した真の孤独の彼は誰かが近くで支えてあげなければいけない状態であったが、それはかなわぬことであった。
その中で転換期が訪れたのは、幼馴染との再会であった。小学校卒業とともに分かれ、ずっと会っていなかった彼が突如彼を訪ねてきたのだった。それも彼が死を決意してビニールロープをカーテンレールに掛けていた時であった。
それは偶然というべきなのだろうか。
彼が初めての彼の心の声を素直に受け入れてくれた人であった。親にも理解されなかった心の叫び、助けの声。しかし、彼は受け入れてはくれても理解はできなかった。そう、彼の心理状況、心を理解するにはそれなりのものを背負っていなければならなかった。
幼馴染は楽天的、かつポジティブで彼とは正反対であった。しかし、そんな彼との再会が全ての歯車の動きを変えた。
それが絶望的な彼を救い、仰を生み出したのだ。仰は平太を感知できるが平太は仰を感知できない。それは仰が無意識に属する意志であるからであった。
彼はそれから少し前向きになった。正確には後ろ向きなのかもしれないが。死ねないなら生きるしかない。生きるならこの息を吸っているだけでも心身ともに絶え難い苦痛を抱く状況が厭だ。だから、心をよくしたい。イコール前向きにならなければ。そう思うようになった。
彼が心に重症を負ったことでこの上ない優しさ、欲を捨て、ストイックで見返りを求めることさえ罪悪感を感じ、少しのこと、悪くないことさえ罪悪感を感じて、なれない天使の心を目指し他尊自卑を手にした。
そう、彼は純粋過ぎたのかもしれない。
それが仰が主導権を握りやすくした彼にとどめを刺した出来事があった。それは、初めて彼女ができて別れたことであった。
出会いは3年前の大学の学食であった。文学部の美崎夢華はランチを食事していると、藍色のスラックスにお洒落なトレーナーを自然に着こなした平太がA定食を持って向かい側に座った。彼女は気にしないようにしながら箸を進めていると視線を感じた。彼女は人になるべく視線を向けないようにしていた。それは視線を与えると失礼な気がしていて、目の前から知り合いが来ても気づかないほどである。堪らず視線を上げると平太が一瞥してまた食事を始めた。
――男性っていつもこう。女性を鑑賞する。外見だけしか見なくて美形でグラマーな女性をへどが出るような嫌悪的な視線を投げ掛ける…。
すると、また視線を感じる。今回はしつこいので彼女は箸を置くと鋭い眼差しを目の前の男性に突き刺した。
「何故、私のことを見るんですか?」
彼は一瞬驚くがすぐに穏かな表情を装いぼそっと囁いた。
「人間が美しいものを見たいと思うのは自然だと思うけど」
夢華は面食らって次の言葉も発することができなかった。すると、平太は頬笑み首を横に振った。
「…冗談。後ろだよ」
彼女は後ろを振り向くとマネの模写が大きく掛かっていた。途端に頬を染めて俯いた。
「自分のことと思った?」
笑いを堪えてそう訊いた平太に夢華は恨めしそうに睨んだ。彼は箸を止めて慌てて言った。
「ごめん、ごめん」
彼は再び食事を始めると、彼女は胸に突っかえができたような感覚を覚えた。
「ねぇ、アートに興味あるの?」
何故か、彼が不思議に気になった。
――周りの男性と違う。
彼には不思議なほんわかした雰囲気がまとわりついていた。彼はにこやかに微笑んで頷いた。男性嫌いの男性恐怖症の彼女の初めての感覚であった。
「印象派は特に良いね。モネ、ルノワール。セザンヌは作品によっては好きな物もあるけどね」
「私は超現実主義かな」
「ああ、それもいいよね。僕は特に代表と言えるルネ・マグリットが最も好きだな。写実的だけど幻想的なところがいい。特にピレネーの城がね…」
「紹介がまだだったね。私は美崎夢華。文学部の2年よ」
「僕は木曾平太。理工学部の2年。夢華って変わった名前だね」
彼女は表情を曇らせた。
「夢に華って書くの」
「いい名前だ。名は体を現すって本当だね」
「在り来たりのきざな台詞。言ってて恥かしくない?」
「きざも綺麗ごとも好きでね。そう言う風にしか生きられない不器用な奴なんだ。でも、自分の心に素直になってそれを表わすことはそんなに嫌悪すべきことじゃないさ」
彼女は首を傾げて鼻で笑った。そして、水を口に含んで笑顔で言った。
「君って今まで会ったことのないタイプね」
それから彼らは親しくなっていった。
そして、それから頻繁に食堂で顔を合わす機会が増えて、その度に長い時間席を共にして話をするようになった。その1ヶ月後には、毎日暇さえあれば一緒にいることが多くなった。彼らはお互いに気付かない内にそれが自然になっていた。そんなある日、平太は学校の近くの喫茶店で待ち合わせをしていた。
「私って可愛いでしょ」
「君が言うと冗談にならないって」
頬を染める彼女を穏かに眺めながら彼はある志を自ら心の中に確かめた。そして、自分の心の傷の話をやっと打ち明けた。受け入れてくれないことを分かっていながらも。
「生きていれば、そのうちいいことがあるわ」
「それは常人の意見だ。彼らにはがんばれ、とか励ましの言葉は禁物だよ。彼らはがんばらない方がいいんだ。もっと、心を休ませないとね。それにその言葉は彼らにしたら、モルヒネさえ効かないくらいの苦痛に全ての時を支配された末期癌患者に『いずれ治るからもうちょっと苦痛を我慢しようね』って言うのと同じ意味に感じているんだ。彼らにとって自殺は精神病患者の安楽死を意味しているんだ」
そして、興奮を抑えて溜息をついてもう、彼女の前ではけしてその自分の精神、心の話はしないことにした。
それから半年後のことである。公園の片隅で平太と女性がしんみりと話をしていた。
「いいんじゃないか。君が負い目を感じることじゃない。僕が君の心を掴み切れていなかったんだ。幸せにしてあげられなくてごめんね」
「何で、どうして…。誤るのは私の方じゃない。貴方を酷い形で振るのよ。ずるいよ、優し過ぎるよ」
「ごめん、優しさは時に人を傷付けることは分かっているんだけど。本当は君が厭な気持ち、自責の念を抱かないように終焉を演じればよかったんだけど、生憎、不器用な僕は嘘がつけなくて」
そして、大切な存在と別れの言葉を交わした後、彼は呟いた。
「これで心残りはなくなった」
全てを失った平太は溜息をついて夜空を仰いだ。真から冷たい空気が肺の奥まで浸透していった。自分の腰掛けているベンチの隣りを眺めながら、徐々に消えていく温もりを想い出とともに失せていく最後まで残っていた大事な結晶の欠片は彼の心を絞め付けていった。そして、以降仰が意識や身体の主導権を握る期間が長くなっていった。
別れてから平太の元に再び夢華が姿を現した。彼にとってはこの上なく残酷な出来事であった。
「信じてくれるの?」
「ああ」
「よかったぁ。誰も信じてくれないし、彼氏とそれで喧嘩しちゃって飛び出していっちゃうし」
「まぁ、人は信じているもの、自分の持っている思考、概念に反するものを否定してしまうもの。それが超自然で信じ難いものならなおさら。その上、畏怖に繋がるものであれば、その為に恐怖から逃れようと強くその概念を排除しようとする。その場合、自分の精神を保護するのでいっぱいになって、その意見を持つ者の心まで気を使う余裕がないんだ。人は信じること、信じ続けること、信じていることを疑い改めることが極めて難しいんだ」
そう言って平太は遠い眼をして大きく息を吐いた。
「…だから、彼を攻めないで欲しい」
すると、彼女は瞳に涙を溜めると蚊の鳴くような声を零した。
「こんなの、都合良過ぎるよね。ごめんなさい」
「こんな話、信じてくれる人が少ないのは当然だ。僕に気を使わないで厄介ごとをどんどん持ってきて楽になればいい」
彼はリビングに夢華を通すとハーブティを用意した。そして、小さなソファに腰掛けて落ち付くと窓の外に視線をやりながら言った。
「僕は許せないんだ。人の命を奪う、人の幸福を脅かす者がね。それが人間であっても幽霊であっても、…悪魔であってもね」
「悪魔…」
「で、その悪魔の人形が君を襲った場所は?」
そう、それは魂の破壊者、ソウルブレーカーのサードコンタクトの時のことだった。結局、平太は彼女を支えて『夢の力に打ち勝つ者』達によって悪魔は退治されたのだった。
結局、それ以来彼女とは会っていない。彼女と接することに心がそれ以上もたないから、彼にとっても仕方のないことなのかもしれない。
そんな彼は今、主導権をこの悪魔の巣窟で仰から取り戻してしまったのだ。最悪の状況である。暗黒の中で彼はあることに気付いた。あの時と一緒だ。あの悪魔の人形の一件の時と同じ感覚だ。そして、気配を感じ警戒をするとその人物はこう言った。
「俺は翡翠翔だ。仰に話がある」
そう、ヴィジョンの能力、自分の知りえないことを網膜の映像、脳裏、頭の中で見ることのできる力を持ち、数々の魂の破壊者の事件の解決に関わった者でもあった。
「これからゾンビがうようよ現れる。そこでお前にも手伝ってほしい」
翔を知らない平太は戸惑っていた。そう、翔はヴィジョンの力で彼のことも彼のもう1人の人格、仰が特殊能力を持ち自分の手助けになることも知っていたのだ。彼が異様な雰囲気を感じここに来たように、彼には感知、解析の能力があった。彼は翔と似た力を持っていると言える。そして、同じ格闘のセンスを持っていた。平太はおどおどしていると、翔と彼の回りに沢山の生気のない気配が集まってくるのを感じた。大いなる闘いがこれから始まろうとしていた。
続く
後半を読まないとなかなかこの作品だけでは導入的な感じですが、それでも今までより格段に進展しているシリーズの作品だと思います。
後半を是非、読んで下さい。