エピソード01 「子猫の幻覚」
恋とは、相手の事をもっとよく知りたいと思う心の囁き、
愛とは、相手を失いたくないと思う心の叫び、
二人の距離が近付く程に、心は自由を失って閉じ篭り、
歪に変形した棘で、互いを傷つけ合って、
だから、ほら、こんなにも痛い。
轟:「何見てるんですか?」
意味も無く宙を見つめる猫の様に、私は先程からボーっと、行き交う雑踏を眺め続けていた、…らしい。
会社の後輩が、オープンテラスのテーブルでビールジョッキを傾けながら、ボソリと追求する。
正:「いや、別に。」
別に、有りもしないものを探し続けていただけだ。
こんな所に、居る筈も無いのに、
腕時計は21時を過ぎていたが、相変わらず日は未だ高い。
私はペローニの瓶を指で転がしながら、秒針が時を掻き混ぜるのに暫し見蕩れる。
正:「そろそろ帰るか。」
轟:「今日はもう少し付き合ってくださいよ。飯食い行きましょうよ。寿司が良いなぁ、」
彼は、殆ど理不尽な失態をイギリス人の上司に咎められた件で、チョット凹んでいる訳だ。
正:「仕方が無いな。」
私は、半徹明けで眠い目を擦りながら席を立つ。 目の前の通りがぶつかった先はレスタースクエアへ抜けるA401、ビルとビルの隙間を横切る人波の陰に、…
見覚えのある真っ白な少女が居た。
正:「まさか、…な、」
一瞬の内に、胸が、締め付けられる。
そして直ぐに背の高い青年が少女に追いついて、自分の甘酸っぱい期待が、唯の思い違いだった事を知る。
轟:「どうかしたんすか?」
正:「どうかしているな、…」
いい加減、未練は良い思い出に変えて、すっかり立ち直った筈だったのに、…
あれから、もう、2ヶ月が過ぎようとしている。
正:「久しぶりに日本酒でも飲むか。」
轟:「良いっすね!」
明日は土曜日で休みだから、もう少し位遅くなっても差し支え無いだろう。 特に誰かが待っている訳でも無い気楽な単身赴任の身分である。 混雑するエロス像前の交差点を避けて、一本奥の裏道から出てリージェントストリートを渡る。 イギリス式に習うと全ては自己責任だから、信号も横断歩道も、まあ、適当である。
大通りから脇道に入った直ぐのところに、その寿司屋は有った。
正:「こんにちは、二人、入れるかな?」
マキ:「あら、お久しぶり、平居さん。」
和服姿の仲居さんが一階の窓際の一番奥のテーブルへと案内してくれる。 厨房に近くて店の従業員達と一寸した雑談がし易いテーブルだ。 特に常連という訳でも無いのだけれど、同じ日本人のよしみで、何かと気さくにしてくれる。
頼みもしない内から、暖かい緑茶が運ばれてきた。
マキ:「此方は、どなた?」
轟:「始めまして、平居さんの部下の轟慶太と申します。」
社交辞令な自己紹介だ、…因みに部下だなんて思った事は一度も無いな、あくまでも歳の離れた同僚で可愛い後輩だ。
マキ:「此方こそ、宜しくお願いします。 水瀬と申します。 以後、お見知りおきを、…」
仲居さんは、一旦湯呑みに注いだお茶を、直ぐに急須に戻して、暫し寝かせた後、改めてゆっくりと注ぎ直す。
温まった湯呑みで、日本の味がする普通のお茶を啜りながら、私はメニューにチラリと目を通して、
正:「取り合えずビールと、握りの盛り合わせを貰おうかな。後、漬物、」
轟:「俺、野菜の天麩羅頼んで良いっすか?」
正:「ああ、何でも好きなモノ頼みナ。」
仲居さんは、オーダーを厨房に持って行って、直ぐにまた戻って来た。 …何だか、ニヤニヤしている。
マキ:「平居さん、元気になったみたいじゃない。心配してたんですよ。」
轟:「えっ、先輩、元気無かったんですか?」
全く、余計な事を、…
マキ:「そうよ、こないだ内なんて、あんまりしょ気てるから、私が特別に慰めてあげたのよね。」
轟:「何ですか、良いっすね、特別コース有るんすか?」
もう少し、ほとぼりが冷めてから来るべきだったか、…
正:「良いよ、そんな話は。」
若いウィトレスが、瓶ビールと突出しを持って来て、
私は手酌でコップにビールを注ぎながら、枝豆を摘む。
そこへ、二階から顔見知りの女の子が降りて来た。
以前カメラを買う時に相談に乗ってくれた、カラオケクラブの女の子だ。
ミサト:「あっ、やっぱり、平居さんだ。こんばんわぁ!」
正:「やあ、この前はどうも、」
ミサトは気合の入ったドレスに香水の良い匂いを振り撒きながら、テーブルに近付いて来る。
ミサト:「あれから、いい写真撮れました?」
正:「実は、ギリシャに行ったっきり、その後は引き出しに仕舞った侭なんだ、…」
ミサト:「そうだ、ギリシャの写真見せてくださいよ! 夕焼け、綺麗でした?」
正:「いや、まだ、携帯に転送してなくて、、」
ミサト:「現像上手く出来ましたか?」(一眼レフのRAWモード撮影からの画像調整の事)
正:「はは、何だか、難しくて、…」
ミサト:「しょうがないなぁ、私が行って、やってあげましょうか?」
いやいや、色々写っているからそういう訳にも行かなくて、…私は取り敢えず、その場凌ぎに苦笑いする。
轟:「先輩、良いっすね、モテモテで、」
正:「別にもててないよ、…」
仲居さんが、クスリと鼻で笑う、…
マキ:「そうね、平居さんの場合、何て言うのか、…放って置けないのよね、」
ミサト:「そうそう、草食動物的な「寂しそうオーラ」出し捲くってるもんねぇ、」
そんなに、寂しそうに見えるのだろうか、…
正:「ミサトさん、処で、こんな所で油売ってても良いの?」
ミサト:「あっ、そうだ、おトイレ…って言って抜けてきたんだった!」
つまり彼女は、この後クラブへ同伴出勤するお客さんとのディナー中な訳だ、
ミサト:「じゃあ、平居さん、またお店に来て下さいね!」
正:「ああ、またね。」
彼女は、そそくさとテーブルを後にする。
轟:「可愛い女性ですね、」
正:「そうだな、」
マキ:「あら、私は?」
仲居さんが、着物の腰を、私の肩にぶつけて、押し付ける。
正:「うーん、マキさんには頭が上がんないからな、」
この前、結局、…まあ、…色々有った訳だ。
轟:「先輩、良いっすね、モテモテで、」
正:「別にもててないって、…」
やがて、漬物が運ばれて来る。
乳酸菌発酵食品は日本人にとってソールフードだから、定期的に摂取しないと健康に悪影響を及ぼしてしまう。
私は、追加で純米酒の冷を注文して、パリポリと漬物を齧り、…
そうだな、…私には、色々と不足した栄養が、沢山有るに違いなかった。
だからまた、こんな処に居る筈の無い「幻覚」が、窓の外を通り過ぎて行く、…
轟:「あーあ、どっかに可愛い彼女居ないかなぁ~、」
水瀬:「轟さんは独身なの?」
轟:「コッチに来る前は居たんですけど、最近はメールも返してくれない。」
青年:「Excuse me. Can I have a table? (すみません、食事できますか?)」
店のドアが開いて、…
マキ:「Sure, はい、ただ今、…」
仲居さんが、私にチラリと目配せする、
マキ:「凄いイケメンの男の子よ、どうしよう、平居さん!」
彼女は小声で囁きながら、…入り口へと向かう。
青年:「良かった。日本語OKですか? 二人です。」
私は、背の高いイケメン男子の陰に隠れる様にして俯く、その、白い少女に釘付けになっていた。
マキ:「どうぞ、お二階の方へ、…」
轟が、日本語に振り返り、同じ様に息を呑んで、…石化する。
轟:「凄い、…綺麗だ、」
私達は二人とも、まるでこの世のモノでは無いモノを見てしまったかの様に、その美少女に、…見蕩れていた。
正:「どうして、…」
その呟きに、白い美少女は私に気付いて、アカラサマな驚きの表情で、…身を竦める。
ミルミル内に、その美しい貌が、真っ赤に紅潮して、…それから、今にも泣き出しそうになって、
周囲の人間が、漸く…異変に気付く。
青年:「どうかした? …しおり、」
連れの男の呼びかけも耳に届かない風に、…
その少女は、黙った侭じっと、私を、…凝視し続ける。