第8話 絶望だけが待っていた。
反射的に背中のバッグに手を回し、アスティの気配を確かめる。すぐさま物陰へ隠したおかげで、どうやら存在には気づかれていないようだ。だが安心する暇はない。視線の先、家の出口を塞ぐように立っているのは、一匹のコボルト。犬のような顔に、ぎらついた黄色い目。粗末だが刃こぼれした剣を手に、こちらを値踏みするように見下ろしている。
この距離、この位置関係。
……逃げ切るのは、ほぼ不可能だ。
「男ってのは残念だがよぉ、その胸に抱いてる女はまだ食えそうだなぁ」
その視線が、俺の腕の中――義母さんの亡骸へと向けられた瞬間、全身の血が逆流した。
なんてことを言いやがる。
コイツ……義母さんを、食い物として見ているのか。
「ケケケッ。大人しく女を渡せば、特別に見逃してやってもいいぜ? 男は食っても不味いからなぁ」
嘲るような笑い声。唾を垂らしながら、一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
「……断る」
声は震えていたが、それでも言葉を絞り出した。
「お前なんかには……俺の義母さんは、渡さねぇ」
一瞬、コボルトが目を丸くした。次の瞬間、その顔が醜く歪む。
「馬鹿な人間だなぁ。それじゃあ――力づくでも渡してもらうぜ」
「ケッケっケ!!」
地面を蹴り、俊敏な動きで襲いかかってくる。
咄嗟に身を翻し、その爪と刃を紙一重でかわす。風を切る音が耳元をかすめ、背中に冷たい汗が流れた。
(やはり早い……ッ)
本能的に理解する。全速力で追われたら、俺の脚じゃ逃げ切れない。
だからといって、このまま攻撃を避け続けるのも無理がある。体力は確実に削られていく。
(こうなったら……何とか一発当てて、その隙に逃げるしかない)
脳裏に、以前の戦いがよぎる。
あの時は――ボスだった。それに比べれば、こいつはただの雑魚。
(だったら……非力な俺でも、やれるはずだ)
荒い呼吸を抑えながら、ぎりぎりの距離で攻撃をかわし続け、わずかな隙を探す。そして視界の端に映った――外にある物置小屋。
俺は一気にそちらへ駆け出した。
追いすがる足音がすぐ背後まで迫る。
物置の中に飛び込み、手近にあった壺を掴み取る。重みからして、中身は液体――構わない。
振り返りざま、全力で投げつけた。
壺は弧を描き、見事コボルトの顔面に直撃する。
鈍い音とともに砕け散り、中に入っていた油が、頭から全身へと大量にぶちまけられた。
「この俺様に向かって……人間風情が、調子に乗りやがって!」
激昂した叫び声。だが、油が目に入ったのだろう、コボルトは顔を押さえてよろめき、剣の振りも大きく乱れる。空を切る刃が、地面や壁に当たって火花を散らした。
――今だ。
「いまだ!! うぉおおおおおおおー!」
喉が裂けるほど叫び、近くに転がっていたこん棒を両手で握り締める。
恐怖も悲しみも、すべて力に変えて振り下ろした。
鈍い衝撃。
こん棒は確かにコボルトの頭部を捉え、骨に当たった感触が、じん、と腕を震わせて伝わってくる。
(よし……)
歯を食いしばる。
(これなら……倒せなくても、怯ませるくらいは出来るはずだ)
だが、次の瞬間。
俺はその考えが、あまりにも甘かったことを思い知らされる。
確かにこん棒はコボルトの頭を捉えていた。
しかし、コボルトは倒れない。膝をつくことも、後ずさることすらない。
まるで、ただ軽く小石を当てられたかのように、首を僅かに傾けただけだった。
――ダメージが、入っていない。
その事実を理解した瞬間、胸の奥が凍りつく。
一瞬前まで確かに存在していた希望が、音もなく崩れ落ち、代わりに重苦しい絶望だけが残された。
次の瞬間、俺の身体は宙を舞った。
「ぐっ……うわあああぁぁ!」
コボルトの反撃は重く、鋭く、容赦がなかった。
地面に叩きつけられ、肺の中の空気が一気に吐き出される。
視界が揺れ、起き上がろうとするが、身体が言うことを聞かない。
それでもコボルトは止まらない。
「ケケケ!! どうしたもう立てないのかよ? オラオラァ!」
嘲笑混じりの声と共に、容赦のない追撃が降り注ぐ。
鈍器が身体に当たる度、骨が軋み、内臓が揺さぶられる感覚がした。
「カハッ……く……くそぉ……」
口から血が溢れ、地面を赤く染める。
反撃どころか、防ぐことすら出来ない。
ただ一方的に、嬲られ続けるだけだった。




