第3話 始めての仲間――アスティ・アストライア・エスペラント・エヴァンジル
「……う……ここは……?」
重たいまぶたを持ち上げると、見慣れた木目の天井がぼんやりと視界に入ってきた。鼻先をくすぐるのは、乾燥させた薬草のほのかな香り。体を動かそうとすると、全身に鈍い痛みが走り、思わず顔をしかめる。
「良かった……目が覚めましたのですね。今、御両親を呼んできますわ」
澄んだ、しかしどこか安心させる声が耳に届く。視線を動かすと、ベッドの傍らに小さな影が立っていた。金色の髪、透き通るような羽――森で助けた、あの妖精の少女だ。
彼女はぱたぱたと羽を揺らしながら部屋を出ていく。
(……そうか)
意識が少しずつはっきりしてくる。俺は自分の部屋のベッドに寝かされていた。身体には包帯が丁寧に巻かれ、額や腕には薬草をすり潰した跡がある。誰かがずっと付き添ってくれていたのは明らかだった。
それに……疲労感。夢にしては、あまりにも生々しい。
(やっぱり……森でのあれは、夢じゃなかったんだな)
扉が開く音がして、足音が近づく。
「ケイト……!」
真っ先に駆け寄ってきたのは義母だった。目を赤く腫らし、今にも泣き出しそうな顔で俺を見下ろしている。
「心配したのよ……もう三日も目を覚まさなかったから……」
その後ろから、義父がゆっくりと部屋に入ってくる。松葉杖をつきながらも、その表情には深い安堵が浮かんでいた。
「ああ。事情はあの子から聞いたよ。お前がボロボロの姿で道に倒れていたときは……正直、覚悟もした。だが、生きていて本当に良かった」
二人の声を聞いた瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
「……心配かけて、ごめん」
それだけ言うのが精一杯だった。
義父は俺の頭に、大きくて温かい手を置いた。
「なに、お前は人助けをしたんだ。簡単に出来ることじゃない……流石は、俺たちの子だ」
「……ありがとう……義父さん」
その言葉を聞いた瞬間、今まで必死に堪えていたものが決壊した。熱いものが頬を伝い、視界が滲む。
(俺なんかでも……意味があったんだ)
この世界に来てからも、村では疎まれ、笑われ、役立たずだと思われてきた。それでも――誰かを守れた。誰かの役に立てた。
そう思うだけで、胸がいっぱいになった。
義母は何も言わず、そっと俺を抱きしめてくれる。義父も静かに肩に手を置いた。その温もりが、何よりも現実だった。
「さぁ……まだ傷も完全には癒えていないでしょう?無理せず、ゆっくり休みなさい」
「それと、お前が寝ている間、ずっと看病していたのは彼女だ。あとで、ちゃんと礼を言うんだぞ」
そう言い残し、二人は静かに部屋を出ていった。
部屋に残ったのは、俺と彼女だけ。
少し気まずい沈黙のあと、俺は視線を向けた。
「その……君が、ずっと看病してくれてたんだな。ありがとう」
彼女は驚いたように目を見開き、すぐに首を横に振る。
「そんな……わたくしの方こそ、危ないところを助けていただいたのですから。あの大きなウルフに立ち向かう姿……まるで勇者様のようでしたわ。あなたは、わたくしの命の恩人です」
「勇者だなんて……大げさだよ」
俺は苦笑しながら、視線を逸らす。
「俺はケイト。ただの、しがない村人さ」
「いえいえ、わたくしにとっては勇者様ですわ。あっ、申し遅れましたわ。わたくしの名は――アスティ・アストライア・エスペラント・エヴァンジルですわ」
そう名乗った彼女は、胸の前で手を揃え、気品のある所作で小さく一礼した。羽の縁がふわりと揺れ、金色の髪が室内の灯りを反射してきらめく。その一つ一つの仕草が、どこかこの小さな村の空気とは異質で、夢の続きを見ているような気分にさせられる。
「ず、随分長い名前なんだな……えっと、ア……アス……エスト……?」
慣れない音の並びに舌がもつれ、情けない声が漏れる。彼女はくすりと上品に笑い、首を軽く横に振った。
「アスティで良いですわ。そう呼んでくださいな」
その言葉だけで、距離が少し縮まった気がした。俺のような村人にも分かるように、歩み寄ってくれたのだと自然に理解できる。
「それでは今日は遅いですし、あなたもまだご無理は禁物ですわ。わたくしも、そろそろ失礼いたします」
そう言って踵を返し、静かに扉へと向かう。羽音ひとつ立てず、足音もほとんど聞こえない。その後ろ姿を、俺は何も言えずに見送っていた。
「ああ、またな」
やっとそれだけを口にする。彼女はドアノブに手を掛けたところで、一瞬だけ動きを止め、ゆっくりと振り返った。
「あの……」
少しだけ視線を伏せ、頬をわずかに染めながら、はにかむような笑顔を浮かべる。
「助けてくれて、本当にありがとうございましたわ。――勇者様」
その一言を残し、彼女は足早に廊下へと消えていった。扉が静かに閉まる音だけが、部屋に小さく響く。
(……ありがとう、か)
胸の奥で、何かがじんわりと広がっていくのを感じた。今まで生きてきて、感謝の言葉を向けられた記憶なんて、ほとんどない。役に立たない、足手まとい、いてもいなくても変わらない――そんな言葉ばかりが頭の中に積み重なっていた。
だからこそ、そのたった一言が、漆黒の闇を裂く光のように、まっすぐ心に届いたのだ。
どうしてだろう。ただ「ありがとう」と言われただけなのに、胸の奥がこんなにも温かい。涙が出るほど、嬉しいなんて思ってもみなかった。
(……この世界なら)
この世界なら、俺みたいな人間でも、生きていていいのかもしれない。誰かの役に立てて、誰かに必要とされる場所があるのかもしれない。
そんな考えが、初めて自然に浮かんだ。
それは希望と呼ぶには、あまりにも小さく、淡い感情だった。けれど確かに、俺の心の中で静かに灯り続けている。
生まれて初めて――俺は、この世界で生きていたいと、そう感じていた。




