第2話 どん底からセカンドライフ
澄み切った空はどこまでも高く、淡い青の中を白い雲がゆっくりと流れていく。足元に広がる大地は柔らかな緑に覆われ、風が吹くたび草葉がさざめき、その合間を縫うように小さな光――精霊たちが歌い、舞い、戯れていた。
機械音も排気ガスもない。耳に届くのは鳥のさえずりと、木々の葉が触れ合う音だけ。現代とはあまりにもかけ離れた世界。
通称、魔法と剣が織り成す異世界――
「マナリア」
この世界には人間だけでなく、森に溶け込むように生きるエルフ、深海に都市を築く人魚、獣の血を引く亜人族など、数え切れない種族がそれぞれの文化と誇りを持って暮らしている。
だがその平穏は、魔界から現れた魔王と、その配下である魔王軍の侵攻によって脅かされていた。王都周辺ではすでに幾度も戦火が交わされ、世界は確実に不安定な時代へと足を踏み入れている。
――もっとも、今の俺にはそんな戦争の実感はない。
俺が転生したのは、戦場から遠く離れた、山と森に囲まれた辺境の小さな村だった。朝霧に包まれ、夜になれば満天の星が降り注ぐ、素朴で静かな場所。
ここで俺は、第二の人生を歩み始めた。
「それじゃあ行ってきます……義父さん、義母さん」
木造の小さな家の戸口でそう声をかけると、家の中から疲れた、それでも優しい声が返ってくる。
「ああ……いつもすまないな、ケイト」
「気を付けて行ってくるんだよ……」
二人の顔には、申し訳なさと心配が混じった表情が浮かんでいた。
『ケイト・シャヴール』――それが、この世界での俺の名前だ。
病に伏せがちな義母と、昔の事故で足を悪くし、もう満足に働けなくなった義父。俺は彼らの代わりに、毎日のように森へ入り、薬草を集め、それを村や行商人に売って生計を立てている。
十六年前。まだ赤子だった俺は、この村の近くの森に捨てられていた。
血の繋がりはない。それでも二人は俺を拾い上げ、実の息子のように抱きしめ、育ててくれた。
その事実を知った時、胸が締め付けられるように苦しくなったのを覚えている。
――だからこそ、今度は俺が支える番だ。
貧しい暮らしではあるが、確かにここには“家族”があり、温もりがあった。
やっと手に入れた小さな幸せ。それを守るためなら、どんな苦労だって耐えてみせる。
そう心に誓い、籠を背負って村の中を歩いていく。
「おい、チキンだぜ。やーい、捨てられっ子!」
「また捨てられないうちに村から出ていけ!」
「お前みたいな汚いヤツ、この村には必要ねーんだよ! ハハハ!」
背後から飛んでくる、聞き慣れた嘲笑。
振り返るまでもなく、村の悪ガキたちだ。俺を見つけると、いつもこうして石を投げ、言葉で踏みにじる。
コツン、と肩に当たった小石の痛みに、思わず歯を食いしばる。
この村は、よそ者に厳しい。
ましてや、森に捨てられていた“出自不明の子供”など、格好の標的だ。運動も苦手、読み書きも人並み以下。転生したところで、俺の中身は何一つ変わっていない。
――結局、ここでも負け組か。
一瞬、そんな自嘲が胸をよぎる。
だが、すぐに首を横に振った。
それがどうした。
いじめられるのは、もう慣れっこだ。前の世界では、それが日常だった。
そして何より――今は独りじゃない。
家に帰れば、待っていてくれる人がいる。
「おかえり」と言ってくれる両親がいる。
なら、俺に出来ることは一つだけだ。
俯かず、走らず、ただ前を向いて歩き続ける。
俺にやれることを、俺なりにやり続ける。それだけでいい。
罵声と笑い声を背に受けながら、俺は村の外れへと続く道を歩いていく。
「ふぅ……今日の分はこのくらいでいいか」
森の中で腰を伸ばし、小さく息を吐く。
籠の中には、薬屋に持っていけばそれなりの値で買い取ってもらえる薬草や素材がいくつか入っている。
量は多くないが、今日一日の成果としては十分だ。
義父と義母の顔を思い浮かべながら、俺は来た道を戻ろうと踵を返した、その時だった。
「きゃあ……誰かっ……!!」
切羽詰まった少女の悲鳴が、静かな森に突き刺さる。
反射的に俺は顔を上げ、声のした方角へと駆け出していた。
木々をかき分け、息を切らせて辿り着いた先。
そこには――羽の生えた、肩に乗るほどの小さな金髪の少女がいた。
背中には薄く光る羽、華奢な身体。妖精らしい。
その妖精の少女は地面に倒れ込み、足を押さえながら怯えた表情で後ずさっている。
彼女を囲んでいるのは、狼のような姿をしたモンスターの群れだった。
「俺が……相手になってやる!」
考えるより先に声が出ていた。
無我夢中で飛び出した俺は、倒れている少女の前に立ちはだかる。
――その瞬間、遅れて後悔と恐怖が一気に押し寄せる。
目の前のウルフは、肩までの高さだけでも俺を優に超えている。
鼻息は荒く、牙の隙間から涎が垂れ、筋肉質な身体が低く構えられている。
数は……一、二、三……十以上はいる。
(ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ!!!
スライム一匹すら勝てない俺に、ウルフなんて勝てるわけねーよ……!
でも、女の子放って逃げるわけにもいかないし……どうすればいいんだよ……)
考えがまとまる前に、一匹のウルフが地面を蹴った。
「グルルルル……ガウッ!!」
黒い影が視界いっぱいに迫る。
反射的に身体を捻り、地面に転がるようにしてかわす。
ビリッ――と嫌な音がして、袖が裂けた。
「うぉっ!! あ……危なかった……!」
心臓が喉から飛び出しそうになる。
たった一撃、掠っただけでこの有様だ。
これが直撃していたら――考えるまでもない。
「この数は無理ですわ……。
私に構わず、逃げてくださいですの……」
震える声で、妖精の少女が言う。
その言葉が胸に刺さる。
確かに、このままでは俺たちがやられるのは時間の問題だ。
……ホント、バカだよな俺。
せめて地形を見てから動くとか、何か作戦を考える余裕があれば……。
だが、もうそんな時間はない。
俺に出来る事は――一つだけだ。
「一時退却だぁぁぁぁぁ!!!!」
「えっ……!? ちょっと……!! わぁっ!」
俺は妖精の少女を両手で包み込むように抱え上げ、そのまま全力で駆け出した。
これは逃げじゃない。
戦略的撤退だ。
戦わずに守る選択だ。
無理に勝とうとする必要なんてない。
この子を安全な場所まで連れて行ければ、それでいい。
……もっとも、逃げ切れれば、の話だが。
木々の間を縫うように走り、息が焼けるように苦しい。
背後からは、ウルフたちの足音と唸り声が確実に近づいてきている。
その時だった。
「おっとっ……うわぁぁ!」
張り出した木の根に足を取られ、視界が反転する。
地面が一気に近づき、身体が宙を舞った。
「いってて……っ」
背中を強く打ちつけ、息が詰まる。
それでも腕の中の温もりだけは離さなかった。
「悪い……大丈夫か?」
「はい……何とか……ですが……」
彼女は震えながらも、無事だ。
それだけが、救いだった。
だが――
「ああ……しくじっちまったみたいだな……」
視線を上げた先。
ウルフたちは完全に包囲を終え、円を描くようにこちらを囲んでいた。
そして、その中心に立つのは――
他の個体より一回り、いや二回りは大きな体躯をしたウルフ。筋肉の隆起した脚、濁った黄色の眼光、血と土の匂いを纏った牙。
低く唸り声を上げ、鋭い瞳で俺たちを見下ろしている。
逃げ場は、もう無い。
(こいつはおそらく、群れのボスだな。……ハハハ……終わったな、俺)
「グオォォォォォ!!」
ボスの咆哮が夜の森を震わせた瞬間、合図を待っていたかのように子分のウルフたちが一斉に動き出す。
四方八方から迫る殺意。逃げ場は、もうどこにもない。
「ぐあああああああああっ……くそっ……!」
牙が腕を裂き、爪が背中をえぐる。
熱い。焼けるような痛みが全身を走り、次の瞬間には感覚が鈍っていく。
気付けば足元には自分の血が滴り落ち、視界の端が暗く滲み始めていた。
痛い。
怖い。
……でも、それ以上に――
(この傷じゃ、二人で逃げるのは無理だな)
ウルフたちの視線は、完全に俺へ向いている。
今なら、妖精の彼女への視線を逸らすことが出来る筈だ。
「はぁ……はぁ……」
荒い息を吐きながら、俺は必死に言葉を絞り出した。
「俺が……一瞬、時間を作る……。その間に……君だけでも、逃げるんだ」
血で濡れた手を地面につき、震える足で体を支える。
立っているだけで精一杯だというのに、それでも前に出るしかなかった。
「そんなこと……できませんわ」
少女は首を横に振り、小さな声で否定する。
だが、俺は無理やり笑ってみせた。
「このままじゃ……どのみち、二人ともやられる……。だから……いいな……早く行け……」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
怖くないわけじゃない。
震えが止まらない。
それでも――
(ここで逃げたら、また同じだ)
現実でも、ゲームでも、いつも逃げて、何も守れなかった。
だから今回は……せめて一度くらいは。
俺は歯を食いしばり、ウルフの群れをかき分けるように前へ踏み出す。
進行方向に立ちはだかるのは、あのボスウルフ。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおお!!!!!」
叫び声と共に、残った力をすべて腕に込める。
剣も魔法もない。
あるのは、ただの拳と――守りたいという想いだけ。
拳が振り抜かれる。
(終わった……今度こそ、終わった)
この次の瞬間、ボスの牙が俺を引き裂く。
それで全部、終わりだ。
(義父さん、義母さん……ごめんなさい)
(でもさ……ヘタレな俺にしては、ちょっとくらい……カッコ良かっただろ?)
(女の子を守って死ねるんだから……あの世で、少しは褒めてくれるかな……)
――そう思った、その瞬間。
「ガァ……ギャオォォォォォン!!!!!!!!」
耳をつんざく断末魔が森に響き渡った。
衝撃音と共に、巨大な影が吹き飛ぶ。
ドォォン――!!
倒れ伏したのは、俺ではなかった。
「……え?」
視界の先。
地面に横たわり、痙攣するように動かなくなったボスウルフ。
信じられない光景に、子分のウルフたちは一斉に後ずさる。
やがて――
恐怖に染まった鳴き声を上げ、尻尾を巻いて森の奥へと逃げ去っていった。
「す……すごいですわ……」
少女の呆然とした声が、遠くで聞こえる。
俺は――
もう、立っていられなかった。
膝から崩れ落ち、その場に座り込む。
全身の力が抜け、ただ荒い呼吸だけが残る。
「……えっ……なにが……どうなってんだ……?」
自分の拳を見下ろす。
血に染まり、震えているだけの、何の変哲もない手だ。
「はぁ……はぁ……」
「……でもまぁ……」
少女が無事で、ウルフはいなくなった。
理由なんて、今はどうでもいい。
「……助かったみたいだし……なんだって、いいか……」
そう呟いたところで、俺の意識は、ゆっくりと闇に沈んでいった。




