第18話 逆転補正――弱者は、勝たなくていい
俺の視界の外、
誰にも認識されない場所で。
淡く、歪んだ文字列が、
一瞬だけ宙に滲んだ。
《条件確認》
対象:ベヒーモス
判定:圧倒的格上
《差分成立》
――逆転補正、適用
音もなく、
説明もなく、
ただ“当然のように”。
身体の奥が、妙に軽くなった。
痛みが消えたわけじゃない。
むしろ、全身は悲鳴を上げている。
なのに――
「今なら、動ける」
そんな錯覚が、確信のように胸に広がった。
(……なんだ、これ……?)
理由は分からない。
考える余裕もない。
俺は、無意識に踏み込んでいた。
真正面からじゃない。
横へ。
低く。
ベヒーモスの脚――
関節の、わずかな隙間。
――ズバァッ!!
「……ッ!?」
自分でも、信じられない手応え。
硬い鱗の間に、剣が吸い込まれるように入り込み、
黒い血が噴き出した。
「グォォォォォ……!!」
初めて聞く、苦悶の咆哮。
巨体が大きくよろめく。
「……効いた……?」
呆然と呟く。
偶然だ。
絶対に。
狙ったわけでも、技術があったわけでもない。
ただ、必死に振っただけだ。
だが――
ベヒーモスの動きは、確実に鈍っていた。
怒り狂い、暴れ回る。
その度に、俺は吹き飛ばされ、地面を転がる。
「がっ……!」
「ぐ……!」
肋が軋み、血が口から溢れる。
視界が赤く滲む。
それでも。
(……まだ……)
なぜか、立てた。
足は震え、腕は痺れている。
それでも、剣を構えられる。
背後で、イバールが呆然とこちらを見ていた。
逃げ出すことも、声を上げることも忘れ、
ただ、ボロボロになりながら立ち続ける俺を。
「倒す必要は……ない……」
自分に言い聞かせるように、呟く。
「……止められれば……それでいい……」
弱者の戦い方。
勝てない相手には、
勝たなくていい。
ベヒーモスが、再び踏み出そうとする。
だが、傷ついた脚が耐えきれず、巨体が大きく傾いた。
――ズシン。
地面が揺れる。
「……今だ……!」
誰にともなく叫び、俺は最後の力を振り絞る。
弱くて、
才能もなくて、
守られる側でしかなかった人間が。
それでも、
見捨てないと決めた、その瞬間。
理由も分からぬまま、
俺は再び、剣を振り上げていた。
弱さが、
いつの間にか――
牙になっていることにも気づかずに。
「……うおおおお!!」
本人は、
ただ叫びながら剣を振り下ろしただけだ。
力任せで、
無様で、
必死な一撃。
だが――
ベヒーモスの視界が、一瞬だけ狂う。
本来なら見切れていたはずの軌道。
避けられていたはずの速度。
だが、その一瞬。
ほんの一瞬だけ、
“強者であるがゆえの余裕”が、
裏目に出た。
――ズバァァッ!!
剣は、
またしても鱗の隙間へと吸い込まれる。
「グォォォォォォッ!!」
悲鳴というより、
困惑に近い咆哮。
ベヒーモスは理解できない。
なぜ、
こんな小さな存在の攻撃が、
こうも続けて届くのか。
俺は、知らない。
自分の動きが、
ほんの僅かだけ“最適化”されていることを。
踏み込みの角度。
剣を振る速度。
体重の乗せ方。
すべてが、
本人の意思とは無関係に、
「勝てる可能性が最も高い形」へと寄せられていることを。
俺は、ただ思っていた。
(……運がいい……)
(……たまたま、だ……)
(……今だけ、だ……)
再び、
見えない場所で。
《弱者補正、継続》
《格上限定効果》
――《下剋上等》、静的発動中
文字は、
誰にも読まれぬまま、霧散する。
「……っ……はぁ……っ……」
俺は膝をつきながら、
荒い息を吐く。
全身が痛い。
視界は滲む。
腕は、今にも剣を落としそうだ。
それでも。
ベヒーモスは、
もう一歩も踏み出せずにいた。
強者が、
弱者を警戒している。
その異常に、
本人だけが気づいていない。
背後で、イバールが呟いた。
「……なんだよ……それ……」
震える声。
恐怖と、
理解できない光景への困惑。
「……お前……
本当に、ただの一般人なのか……?」
俺は、答えなかった。
答えられなかった。
なぜなら、俺自身も分からないからだ。
剣を支えに、
もう一度、立ち上がる。
「……まだだ……」
その言葉は、
自分に向けたもの。
だが、世界はそれを――
合図として受け取った。
《発動継続》
《勝利条件:撃破不要》
《目標:生存・排除》
ベヒーモスは、
本能で理解する。
この相手は、
もう“楽に踏み潰せる存在”ではない。
だから――
巨体は、ゆっくりと後退を始めた。
森を壊しながら、
怒りと困惑を残して。
俺は、
その場に崩れ落ちながら思う。
(……助かった……)
(……本当に、運が良かった……)
弱さが、
牙になっていたことも。
世界が、
俺の側にだけ、
ほんの少しだけ不公平だったことも。
――何一つ、知らないまま。
ただ、
ボロボロになりながらも立っていた。




