第17話 置き去りにされた者を、俺は見捨てなかった
――森の奥で、大地が唸った。
目の前に立ちはだかるのは、ベヒーモス。
本来この森に存在するはずのない、規格外の魔物。
岩の塊のような筋肉に覆われた巨体。
黒褐色の皮膚は鋼鉄の鎧のように硬く、無数の古傷が歴戦を物語っている。
二本の巨大な角は天を裂く刃のように反り、
口を開けば、並ぶ牙は剣より長い。
吐き出される息だけで、周囲の空気が腐ったように重くなる。
「はは……で、でかいな。だが装備は万全だ。
このボク、勇者を目指すイバール・アルタイルが相手なら――」
虚勢を張るイバールの声は、途中で掠れた。
「お、おい……これ、ヤバくないか?いくら悪魔の森でもこんなヤツはいない筈だぞ…。」
マネーが一歩下がる。
マッスルも顔を引きつらせ、汗を流していた。
だが――
「ガハハハ!!
ビビってんじゃねぇぞ!!」
前に出たのは、筋骨隆々の男、ジャイトス。
重斧を肩に担ぎ、獣のような笑みを浮かべる。
「俺が一発ぶち込んでやる!!」
制止の声が上がるより早く、ジャイトスは地面を蹴った。
「うおおおおお!!」
全身の筋肉をしならせ、渾身の一撃。
重斧がベヒーモスの脚へと叩き込まれる。
――ガギンッ!!
金属を打ったような音。
「……は?」
刃は、皮膚を裂くことすらできず、弾かれた。
次の瞬間。
ベヒーモスの前脚が、何気ない動作で振るわれた。
「――っ!!」
衝撃。
ジャイトスの身体が宙を舞い、木々をなぎ倒しながら叩きつけられる。
骨の砕ける鈍い音。
二度と立ち上がることのない肉塊。
「……たっ…たった一撃で……?」
イバールの喉から、かすれた声が漏れる。
沈黙。
理解する前に、恐怖が全身を支配した。
「い…いやあああ。こ…こないでよ。バケモノ!!!!!」
「ゴージャス、よせっ!!」
『バーニング・フレア!!』
ゴージャスの杖から激しい炎が放たれ
ベヒーモスの身体を激しく燃やす。
「アハハハハ!!魔法ならどう?」
「えっ…効いてな…」
しかし炎はベヒーモスの硬い皮膚の前には成す術もなく
ゴージャスは悲鳴もなく食い破られる。
「……ム、無理だ」
マネーが震えた声で呟く。
「こんなの勝てるわけない!」
「簡単な試験じゃなかったのかよ?割に合わねーよ!」
「お、おい! 待て!!」
イバールが叫ぶ。
だが、マネーとマッスルは、もう彼を見ていなかった。
「悪いな、団長!!」
「死にたくねぇんだ!!」
二人はイバールを置き去りにし、森の奥へと全力で逃げ去っていく。
「ま、待ってくれ……!」
足に力が入らない。
腰が抜け、その場に崩れ落ちる。
「そ、そんな……」
高級な鎧が、地面の泥で汚れる。
誇りも、勇者の夢も、恐怖の前では何の役にも立たなかった。
ドン……ドン……
ベヒーモスが、ゆっくりと近づいてくる。
一歩ごとに、大地が揺れる。
巨大な影が、イバールを覆った。
「た、助けて……」
情けない声が、喉からこぼれる。
牙が、開かれる。
――その瞬間。
「――やめろ!!」
横合いから、誰かが飛び出した。
剣を構え、必死に立ちはだかる影。
それは、俺だった。
心臓が壊れそうなほど鳴っている。
足は震え、喉は渇き、視界は狭い。
それでも。
「……もう、見捨てるのは嫌なんだ」
ベヒーモスが、ゆっくりとこちらを向く。
殺意に満ちた黄金色の瞳が、俺を捉えた。
本来なら、絶対に敵うはずのない相手。
何の力も、才能もない俺。
それでも――
俺は、イバールの前に立った。
「来いよ……ベヒーモス」
弱さを抱えたまま、
それでも逃げずに、剣を握り締めた。
「グォオオオオオオオオ……!!」
ベヒーモスの咆哮が、森を引き裂く。
空気が波打ち、木々が悲鳴を上げる。
(……無理だ)
頭では、はっきり分かっていた。
こんなの、勝てる相手じゃない。
それでも――
身体が、勝手に動いていた。
「う、うおおおお!!」
理由なんてない。
考える余裕もない。
ただ、目の前の化け物から――
逃げ遅れた人間を守らなきゃいけない。
それだけだった。
剣を振りかぶり、突っ込む。
狙いも雑だ。
フォームもめちゃくちゃ。
ガンッ!!
硬い感触。
剣は、分厚い鱗に弾かれる。
「っ……!!」
直後、視界が反転した。
――ドゴォン!!
尻尾の一撃。
空を飛び、木に叩きつけられる。
「がっ……!」
肺から空気が押し出され、声にならない悲鳴が漏れる。
全身が軋み、骨が折れたかと思った。
(……動け……)
指が、震える。
脚が、言うことを聞かない。
それでも、剣を手放さなかった。
地面に突き立て、必死に身体を起こす。
視界の端で、ベヒーモスがイバールへと向かっていくのが見えた。
「……っ!」
背後で、情けない声が震えていた。
「な、なんで……
ボクなんかのために……」
イバールは、腰が抜けたまま動けずにいた。
さっきまで偉そうにしていた貴族のボンボンは、
今はただの怯えた青年だった。
「……黙ってろ」
息を荒げながら、俺は前を向く。
「置いていく側の気分なんて……
一度味わえば十分だ」
ベヒーモスが、巨大な前脚を振り上げる。
地面が砕け、土砂が舞う。
(来る……!)
避けきれない。
分かっている。
それでも、剣を握り直す。
――その時だった。




