07「倫理欠落世界の全貌」
エジランカはアルヴレドにつれられてテラスまでやってきた。彼女には見ることはできないが、ここに世の有様を記しておこう。球体の内側に閉じこめられた世界で上下左右などと言っていては分かりにくいので、地球の名称をもとに説明する。
まず北極側には樹木が茂る鬱蒼とした森林地帯が広がり、その中心部には巨大な樹木が高々と背を伸ばす。エジランカたちが暮らすのは、この巨樹の上に築かれた都市だった。
反対の南極側には山々が波立ち山脈地帯を形成している。この山中にある洞窟にも人が暮らすが、彼らについては後で知る機会があるため、ここでは詳細を割愛する。
そして最後、森林と山脈の間を埋めるように、赤道部に沿って平坦な地面が敷かれている。アルヴレドが言った合戦とはこの「地上」で行われる定期的なイベントで、樹上都市に住まう人間たちはことあるごとにテラスやら広場やらに集まってその行く末を見つめるのだった。
「やあやあ、兄さん。まだ始まってませんよね?」
「ああ。早く座れ」
アルヴレドはパッとエジランカの手を離し、一人で自分の椅子に座ってしまう。入れ替わりに両親がエジランカを囲み、テラス最前に置かれた布張りの長椅子まで連れて行った。エジランカは母と父に挟まれてそこに座り、アルヴレドほか二名が後方のテーブル席で陰に沈んでいる。
エジランカは振り返らずに背後の様子をうかがう。
「そなたがあれを連れてくるとは、何があった?」
「あんなことの後ですからね。様子が気になるのは当然でしょう」
「それはそうだが……」
アルヴレドと話すもう一人の声が長兄レヴィヲだろう。口調からして、彼はエジランカを良く思っていないと分かった。テーブル席にはもう一人、初老の女が座している。彼女はエジランカの祖母で、口を一文字にして孫の後ろ姿をじっと見つめ続けた。
ヒリついた視線を背中に感じ、エジランカは寒くもないのに身震いした。
その直後、眼下で合戦が始まった。
地上に暮らす人間をアルヴレドは「中間色」と呼んだ。白に対して黒があるとすれば、二色の間を埋めるのは濃淡様々な茶系の色合いであり、中間色とは肌や髪の発色がまだらな人々の総称である。
彼らは森の裾を拠点にする軍勢と、山脈の麓に住む軍勢の二つに分かれて戦っている。衝突しては時期を見て自陣に引き上げ、時が巡ればまたかち合うことを繰り返してきた。それはもう延々と、気が遠くなるほど長く、昔から。
エジランカの目では遠い地上の動きなど見えるはずもないのだが、この娘は目の機能を補うように聴力が発達しているようで、物音だけはよく聞こえた。聞き取る対象に意識を向ければ、それこそ足音どころか息づかいまで拾えそうなのだ。であれば、怒号や悲鳴といった喧噪はより増長して伝わり、エジランカは恐怖を覚えて目をつぶった。
ところが、視界を遮ったからなのか、今度は頭の中に戦場の輪郭がくっきりと浮かび上がった。それは視神経を経由するよりも鮮明で、明瞭で。凄惨な戦場に渦巻く個々の感情さえ察知できそうだった。
中間色の皆は己が勝つために戦っている。生き延びる目的ではなく、相手を殺すために殺している……ように感じる。
長い髪に顔を隠して蒼然とするエジランカの後ろで、こんな会話があった。
「中間色の戦いは相変わらずか」
「なぜあそこで踏み込むのか理解できぬ。引けば死ななかったものを」
「灰雪荘家の子供でもここまで拙なくはないでしょうにね」
最初の発言者はエジランカの祖母だった。凛とした音で、他者を寄せ付けない冷酷さをはらむ。
ふと、甘い香りが漂ってきた。
「アル。暇すぎて腹が立つのは分かるが、パイプをそう蒸かすな。煙くて仕方がない」
「兄さんこそ苦豆をパリパリする音がうるさいですよ」
「そなたも食べるか?」
「私は煙の方が好きなんです」
人の生死に関わる場面で平然と不満を漏らし、煙草をやって、菓子を食べる。これもまた、「暴力」と言っていい。
エジランカは手で口元を覆い隠し、
「ごめんなさい。お父様、お母様。わたくし、気分が悪くなってきたみたい」
深くうつむいて吐き気を耐えた。両親は互いに顔を見合わせて、そういえばいやに静かだった娘に目をやる。
「そうなのかい? 気づかなかったよ。奇跡が起きたとは言え、やはり病み上がりをあちこちに連れて行ってはいけないね」
「今日は貴方の十歳の誕生日だし、合戦を見たら元気になるかと思ったのだけれど。そうでもなかったかしら?」
「ええ……」
エジランカはフラフラと立ち上がり、背後の三人に向いてしおらしく頭を下げた。それを父が抱き上げ、母が付き添ってテラスを後にする。残る面々は興ざめといった様子で、その殺伐とした空気はエジランカにも伝わった。
甲斐甲斐しい両親に対して、白けた感を醸し出す祖母と兄。
その雰囲気はマオに思い出したくない過去を連想させた。
彼女には一人、姉がいた。
姉は容姿端麗で文武両道、穏和な性格でよく人の話を聞き、かといって言いなりではなく自分の意志も持ち合わせる。人よ斯くあれという理想を絵に描いたような人物だった。
両親は後光が差さんばかりの姉を目にかけ、凡人の妹は見えていないようだった。
一挙一動を賞賛する父母と賛美を受ける姉、そしてスポットライトからほど遠い舞台の袖でその光景を見つめる自分。そもそも比較さえしてもらえない圧倒的な格差だった。そんな姉の前では妹の個性などないも同然で、マオは憧れる人間を真似て個人を演出するようになっていったのだった。
中の人のプライベートな話はここまでにして、エジランカは部屋につくとベッドに寝かされた。これから付きっきりの看病が始まるのだろうか。ウンザリするエジランカだったが、その予想は裏切られた。
両親はあっさりと娘のそばから離れていった。
「私の可愛いエジィ、お姫様。静かにしているんだよ」
「そうよ、わたくしの佳麗なエジィ。しっかり休んでその白眉を保ちなさい」
二人は手を振って背を向ける。エジランカは彼らの態度に違和感を覚えつつ、上体を起こして要求した。
「あの! そうしたら、ルシルを呼んでもらえるかしら。何かあったときにいろいろ言いつけたいの」
「分かった。すぐに寄越そう」
無情にも扉は閉じられた。
「……愛娘が具合悪いって言ってるのに放置すんの。マジか」
わがまま放題を放っておかれたことからも明らかではあったが、この少女を取り巻く家庭環境には問題がある。子供は周囲から多大な影響を受けながら成長するもので、ましてエジランカはまだ十歳と幼かった。彼女が堕落したのは決して本人だけのせいではないはずだ。
「とはいえ、よそ様のご家庭に口を出していいものかどうか……」
しばらく唸っていると、エジランカは壁の向こうからルシルらしき足音を聞き分けた。ドアの前で足が止まり、ノックの後にノブが回る。
「はわ~、よかったぁ。マオさん生きてた!」
ルシルの飾らない声が心にしみる。
エジランカは彼女を味方にできた幸運をひしひしと感じた。