9.芽吹いたもの
城の中に戻ったジョエルが静かに自室のドアを開けたところ、続き間の長椅子に寝巻き姿のオデットが腰掛けていた。
「まだ寝ててよかったのに」
「ううん、なんだか目が冴えてしまったから、もう起きてようと思ったの。ところで、ここに置いていた人形はどこかしら?」
何も知らないオデットは部屋をキョロキョロと見渡して、確かここに置いておいた筈なのに、と不思議そうな顔をしている。
「ああ。あれは燃やしたんだ」
一切誤魔化すような素振りを見せず、素直にジョエルは自分の行った事を告白した。
「え? 燃やした……ですって?!」
当然、驚いたオデットは叫ぶようにして問うた。
「そんなどうして? あれは私のものだし、あなたが私に贈ってくれたものじゃない」
「そうだね。君と話し合うべきだったと思う。ごめんね。でもどうしても僕は怖かったんだ」
信じられないという表情をしているオデットの前にジョエルはしゃがみ込んだ。
「いきなり閉じ込められてしまったんだよ? それに助けを求めて叫んでも誰にも声は届かない。またあれに閉じ込められたり、反対に君が閉じ込められるような事になったらと思うと……恐ろしくて仕方ない。だから燃やしてしまったんだ」
どうか臆病な僕を許して欲しい、とジョエルは彼女の両手を包んでキスをし、静かに許しを乞うて彼女を見上げた。
「もう、あんな思いをするのはごめんなんだ」
いつもは冷静なジョエルがこんなに怖がっている。それに加えて、とても屈辱的だったのだろう。
「ジョエル……そう、わかったわ」
オデットは彼の名を呼びながらその体に両手を回し、優しく抱きしめた。
「私もあなたをまた失いたくない」
自分もそうだが、ジョエルが怖がるなら仕方ない。
オデットは彼を責めずに許す事に決めた。
一方、柔らかい彼女の腕に抱かれながら、ジョエルは過去の事を回想していた。
彼がオデットと初めて対面したのは、彼女が5才の頃だった。
オデットは一歳の頃から普通の子供よりも早く言葉を習得し、3歳になる頃にはすらすらと話せるようになり、文字も理解できる少女だった。
そのため他にも候補はいたものの、王家に繋がる血筋を引いているうえ、これほど賢い娘は他にいないとして即座に婚約者に選ばれた。
また、兄たちにはすでに婚約者がいたため、この機会を逃しては勿体ないという理由でもあった。
ただ当時はまだ子供同士であり、会うとしても新年会で顔を合わせる程度だったため、会話も軽く2、3言交わす程度に留まっていた。
それからオデットが14歳になった頃のことだ。
そろそろ二人の仲を縮めても良いだろうと考えられ、オデットとジョエルは家族立ち会いのもと茶会で引き合わされた。
ジョエルは果たして実際はどんな娘なのかと思ったところ……賢いのは結構。
しかし、それは良い言い方で、城の召使たちが噂している言葉を借りれば……当時のオデットは親しみを込めて言うのであればおしゃべり、悪く言えばかなり生意気だったのだ。
そう、今思えば……
まるで口うるさく、男性に潔癖性を求め、視野が狭く、しかも男性といえば家族しか知らないような"穢れを知らぬまま"適齢期を過ぎてしまった女性を思わせる話し方をする奇妙な少女だった。
その席でオデットはいつもとかわらずツンと澄ましながら、この国の政治は改革する余地がある、領地改革だのなんだの言い始めた。
てっきり、その年頃らしい異性を意識した振る舞いをするかと思ったらとんでもない。
まるで、やる気だけが空回りしてなぜ他の者はもっと真剣に取り組まないのか! と、あたかも自分だけが優秀で周囲が劣っているかのように熱弁を振るう、高慢な貴族議員と話しているかのような感覚にさせられる、といった具合だ。
ジョエルは彼女が熱心に話しているのとは裏腹に、国力を強化するための婚姻とはいえ、オデットのことをとてもではないが将来の伴侶とはみれないと感じていた。
そうだ。無口な男として通そう。
こう言うおしゃべりが好きな女性は、無反応な男を嫌う。いっそなら相手側から嫌われてしまえばいい。
そうしてジョエルは黙る事にしたのだが……
ところが、黙りこくっているジョエルに対して何を思ったのかわからないが、同席していた者たちが去り、二人きりになるとオデットは早口で捲し立てるようにこう語りかけてきた。
実は自分はニホンという国から転生してきたものであり、この先起こりうるあなたの未来を全て知っている。
あなたはオデットが大人しいことをいい事に、この先悪の道に直走り、この世界の外側、つまりショーセツという物語を読んでいるドクシャから冷酷な人間だと大変嫌われてしまうの。
でも私はそんなの許さない。
なぜならあなたをとても愛しているから。
あなたは私にとっての大好きなオシなの。
私がいる限り大丈夫。私は公爵令嬢らしからぬ、大人しくて自分の意見をハッキリと言えないようなオデットとはちがう。
あなたが悪の道に走ったのも、無知で弱々しい愚かなオデットのせいよ。
そんな真似を私はさせやしない。少なくとも私の方が彼女よりも賢いのだから。
その代わり、あなたを皆から愛される素晴らしい君主にするように導いてあげる。
私が魅了されたその美しい見た目のままに、理想的で素敵で完璧な王子様でいるべきなのよ。
よその国から脅威とされる残忍な王なんて似合わない。皆から賞賛される王にならなければならないの。
それに今のままであれば、いつかあなたは滅ぼされてしまう。
服装だって今着てるそんな暗い色の服よりも明るい色の方が似合うはず。そうよ。結婚したら毎日私が選んであげるわね!
生まれ変わったつもりで、新しい物語を私と一緒に始めましょう。
議会だって私も参加してどんどん変えようと思う。大臣だって私にぜひ選ばせて! 二人で頑張りましょう!
そのようなことを困惑しているジョエルに構わず、婚約者はぐいぐいと夢いっぱいに語ってきたのだ。
それを伝えられ終えた後、当の本人であるジョエルは、心臓から指先まで氷水を注がれたような感覚に襲われていた。
ジョエルはそれまでは、幽霊や悪魔と言った類は信じない主義だった。
しかし、今目にしている彼女はまさにそのような類となんら変わらない。
生意気なんてまだ可愛らしいもので、自分を取り込もうとする奇怪で恐ろしい、文字通り別世界から来た何か、この世の者ざるものだった。
そう思った瞬間、ジョエルは心の中に重い幕がかかり、形容し難い闇が広がっていくのを感じていた。
それに比例して、奇妙な事に、同時に強く何かに惹かれていくことも。
そのような中、事態は急速に変わった。
ある日突然長兄が病にかかり、彼と同時に狩りをしていた次兄、三男も同じ病を発病し、相次いで亡くなってしまったのだ。
合わせてオデットまで同じ病にかかって高熱を出し、一時期生死も危ぶまれた状況にまでなってしまった。
そしてこれがジョエルにとって運命をがらりとかえた。
熱が下がり彼女が目が覚めた後は、以前と比べてあの利発的な面が消えていた。
代わりに穏やかで素直に従う、普通の令嬢よりもお淑やかな従順な少女へと変貌していたのだ。
彼女の両親はあまりの変わりぶりに、ジョエルがますます娘を気にいらず、また長所がすっかり消えてしまったため破談にされる事を恐れた。
そんな彼らの不安とは裏腹に、ジョエルはむしろすっかり変わった彼女の事を大変気に入った。
控えめで、恥じらいがあり、奥ゆかしい。これぞ自分の理想とする女性ではないか。
ああ、なんという奇跡。
かくして彼らの絆は冷え切っていたものから絶対的なものへと変わったのだ。
「あんな恐ろしい事になったんですもの」
ジョエルの事を抱きしめながら、オデットは囁くようにしてそう言った。
「ごめんなさい、あなたの気持ちも考えないで。あなたもずっと前に、世間知らずだった私を許してくれたのにね。私も寛大な心を持たなければ。でもどうか、もうどこにも行かないでね。私もあなたのそばにいるから」
オデットの言葉に反応するように、ジョエルは彼女の頬にキスをした。
「うん。どこにも行かない、行くつもりもないよ。僕の清らかで無垢なオデット。僕らは二つであり一つなんだ。許してくれてありがとう」
しかし、感謝している彼の目は、どこかぼんやりと遠くを見つめていた。