5.訪問
オデットが目を覚ますと、そこは自分の寝室だった。
いつも側にいる侍女はおらず、代わりにベッド横の椅子に腰掛けていた召使が彼女の目覚めに気づき、大丈夫かと声をかけた。
「かなりうなされていたので喉も渇いていらっしゃるでしょう。落ち着くようにお水でもいかがですか?」
彼女は普段見かけないが、細やかな気遣いには慣れているらしくオデットに優しくそう尋ねた。
オデットが頷いたため、水差しのところに召使が行くと、彼女はあら、これは……と声をあげた。
「どうしたの?」
「いえ、紙に書かれているこの印。前に勤めていた家の家紋ですね」
何でこんなところにあるのだ、と彼女は紙を手に持ち顔を顰めた。
彼女がオデットに見せたのは、夢や髪の毛で表されたあの印だった。
その瞬間、オデットは脈が早くなるのを感じた。
その印が? どこの家のものなの? 教えて!
と叫ぶようにして聞くと、召使は彼女の剣幕に驚きながらサルバトールという男の家のものだと伝えた。
召使によれば、なんでも仕事もしていない、収入になる土地を持っているわけでもないのにも関わらず、彼は贅沢に暮らしていた。
ただ、趣味の一環として魔術を研究しているようなのだが、その資金は一体どこから出ているのか屋敷の誰も知らない。
いや知っていても、後ろ暗いから教えてくれなかったのかもしれない。
名前すらもサルバトールというだけで、それが名なのか、姓なのか、もしくは本名なのか偽名なのかすらわからない。
給料はそこそこ良かったものの度々職場の仲間が急に消える事があったので、怖くなって辞めたのだと彼女は言った。
啓示。
それは今まさにこの瞬間なのではなかろうか。
自分はその人物に会わなければならないのだ!
その衝動に駆られたオデットは居ても立っても居られず、大急ぎで召使に着替えを手伝わせ、家族が止めるのも聞かないで無謀にも一人で彼の館に向った。
先ほどまでの晴れていた空も道中急に悪くなり、雷が鳴り響く中、オデットは馬車を急がせた。
全く見ず知らず、しかも突然の訪問だった。
建物は古めかしいが美しく威厳のある外観だ。
いざ来てみたはいいものの、見知らぬ客には会わぬと追い返されるかもしれない。
あるいは何も情報になることなど得られないかもしれない。
急激に湧き出た不安に彼女は襲われつつも、その屋敷の扉をコンコンとノックした。
すると、古めかしい扉の音と共に年老いた執事が彼女を出迎えた。
そして驚くことにこう言ったのだ。
「お待ちしておりましたオデット様。さあ、どうぞ中へ。ご主人様がお待ちしております」
すんなりと中に入れてもらえた上に、自分の名前を知っているなんてと驚きつつも、オデットはさらに屋敷の中に驚かされた。
この館は評判通り、美術品や剥製など贅の凝らしたものであふれており、さらに内装も精緻な細工がされており豪華だった。
羽振りのいい貴族や商人の館といっても過言ではないだろう。そう彼女に思わせた。
「お待ちしておりましたよ。オデット嬢。さあ話を聞かせてください」
客間で待っていたこの館の主であるサルバトールに、オデットは腰かけるよう促された。
彼の年頃はきっと40をとうに超えているのだろうが、体つきは細く、また深いシワが目元に刻まれているのが印象的な黒髪の男性だった。
また、魔術を研究しているとは聞いてはいたが、服装は怪僧のような黒のローブではなく、案外普通の貴族の装いとなんら変わりのないものだった。
なぜ自分の名前を知っているのかということはさておき。
彼女は突然ジョエルがおかしくなってしまったこと、またある日、奇妙な印とサルバトールという名を知り、ここに導かれるようにしてやってきたと一連の出来事を彼に話した。
「非常に馬鹿げていると思います。でもあなたの元に駆けつけなければならない。どうしてもそんな気がしたんです! 何か、何かご存知なのでしょうか?」
サルバトールから何を言っているんだと、笑われるのも覚悟のうえで彼女は必死にそう言った。
すると彼は、オデットが予感した通り笑いを大きく上げた。
しかし、それは彼女を馬鹿にするという意味ではなかったようだ。
彼は机の引き出しから小箱を取り出し、中から不規則な形をした小石を全て取り出した。
オデットに奇妙な出来事を思い浮かべながらそれらを掴むように言うと、さらに机に黒字で書かれた魔法陣にそれら全てを投げ入れるよう指示をした。
その通りに彼女が行い、ばらばらと石が方々に飛んでいくのをサルバトールは静かに見つめた。
石の位置を確認しながら、彼はジョエルに何が起きたのか答えがわかったと言った。
「これはあなたとジョエル様の繋がった精神世界の糸を辿ったものです。石の言葉によると、ジョエル様はどうやら呪いにより魂が肉体から追い出され、別の人間の魂が肉体に現在宿っている状況のようですね」
「えっ……それじゃあ、今のジョエルは別人ということですか? ……でも、そうしたら、ジョエルは? ジョエルはどこに?!」
オデットは嫌な予感、いや最も恐ろしい予感に囚われた。
ジョエルの魂がもういないと言う事は、彼自体がこの世にすでにいないという可能性も……
「あぁ。いえいえ、安心してください」
彼女の狼狽えている様子を見て、サルバトールはニヤリと笑いながらそう声をかけた。
「あの方の魂はまだこの世界に留まっています。でなければ、石はここまで広がらず中央に留まっているはずですから。え? 勿体ぶらずに教えろですって? ほら、あなたが一番よく知っている……あの方を模した人形の中に。もちろん早く戻りたがっているご様子ですよ。ほほほ」
「ジョエルの人形に?! それじゃあ、印を髪で示したり、オディールの人形が落ちるのは……」
「あなたに気づいて欲しくて、わざとやっていたのかもしれませんね。それよりも」
さらに彼はこう続けた。
ジョエルを助けたければ、呪いのかかっている今の彼の体に元に戻すための呪術を施さなければならない。
戻すためには、彼の体をここに連れてきて魔法陣の中で縛り、呪文を唱えれば確実だがそんな事は出来やしないのは当然。
それ故に離れた位置から術をかけるため、何かトリガーになる行為が必要。
そうですねぇ……と言って彼は椅子に腰掛けながら脚を組み、親指と中指を擦り合わせて少し考え込むそぶりをした。
ぱちん。
彼は指を鳴らした。
「そうだ。ここはおとぎ話に倣ってキスするという事にしましょう。遠隔で術をかける場合は相手の隙が必要で、一瞬でも何かに集中させておかなければなりませんからね。それがいい。しかも好都合な事に相手は肉欲にはめっぽう弱いようだ。これを逆に利用してやりましょう」
サルバトールの突拍子もない提案に、オデットは面食らった。
ジョエルは普段から最低でも一人は護衛が付いている。そんな彼に近づき、キスをするなんて……
以前の間柄ならともかく、今の関係なら無視だってされかねない。
すると、サルバトールは躊躇っている彼女に対してこう畳み掛けてきた。
あと一週間もすれば、ジョエルの体は結婚してしまう。
様子を聞く限り、そうなればきっと彼は浮気相手にベッタリで近づくチャンスはもっと減ることになる。
それに本物の彼の魂は時を追うごとに、人形に取り込まれて出れなくなってしまうし、そうなればゲームオーバーだろうと。
「まあ、もちろんこの方法はそれなりのリスクも伴いますがね。でもここであなたが勇気を出さなければ、永遠に彼は戻ってきませんよ? さあ、どうなさいます?」
サルバトールはまたしても、ニヤリとした笑みを浮かべた。
勇気。
そうだ。これまでは自分から動く事がオデットの記憶の中ではほとんどなかった。
この館にやってきたことだって、信じられない事だった。
そして、やらなければジョエルとはもう会うことはできない……
彼はあの人形の中に永遠に囚われたままなのだ。
どうしてそのような残酷な仕打ちを彼にする事ができよう。
「わかりました」
オデットがそれで彼を取り戻せるなら、と承諾するとサルバトールはまたしても大きな笑い声を上げた。
「そうですか、そうですか。結構。では、あなたの勇気を讃えて、私から成功へ導く方法をプレゼントいたしましょう。なに、相手のことはわかっています。私のいう通りにすれば大丈夫です。あと、術を遠隔でかけるためにあなたとの繋がりが必要なので、お髪を少々いただけませんか?」
彼はオデットにある作戦を伝えたあと、机からハサミを取り出して、彼女の髪の毛を少し切り取った。