番になったとたん、犬猿の仲の護衛騎士の心の声が聞こえ始めたのですが
色とりどりの花を浮かべた水盤の上に、精霊女王様が姿をお現しになった。
七歳以上の女性王族は、朝晩精霊女王様に祈りを捧げることが公務となっている。けれど、実物に会えるのは成人の儀のときだけ。
私が女王様に会うのは今日が初めてだ。
あまりの神秘的な美しさに、一瞬すべての悩みを忘れそうになる。
それほどに美しい精霊女王様は柔らかな笑みを浮かべ、
「第一王女、レティシア・ブーランシェ」と私の名をお呼びになった。
「ここに」と私は答え、精霊女王様の前に進み出る。
「成人、おめでとう、レティシア」
「ありがとうございます」
カーテシーでもって謝意を表す。
落ち着いてできたと思う。心臓が爆発しそうなほどバクバクしているようには、見えなかったはず。彼の面前で情けない姿をさらすわけにはいかないもの。
「それでは、レティシア」
来た。緊張で体が強張るのが自分でもわかる。
「教えましょう。あなたの番はアレッシオ・スカラッティです」
――え?
「この国の安寧のために、運命の番と良き夫婦生活を営みなさい」
――えええええ? 私の番が彼なの? 本当に!?
「レティシアとアレッシオに祝福を」
精霊女王様の言葉が終わると神殿内に花々が舞い、祝福の鐘が鳴り響いた。
ごくりと唾をのみこみ、硬直してしまった体を懸命に動かして振り返った。
後方に並ぶ私の護衛騎士たち。その一番端でアレッシオ・スカラッティは、苦虫を百匹嚙み潰したような恐ろしい表情で、私をにらみつけている。彼の燃えさかる炎のように赤い髪は、彼の怒りを表しているみたいだ。
そうよね。私となんか、結婚したくないわよね。
だって私たちは幼いころからの犬猿の仲だもの。
でも本当は――
胸にズキンと痛みが走る。
私はずっと彼に片思いをしている。
◇◇
「まさかレティシア殿下の番様がアレッシオだとは!」
成人の儀が終わり精霊女王様が姿を消すと、アレッシオの父親であるスカラッティ公爵がとんできた。口調は軽いけれど顔面蒼白で、玉のような汗がいくつも浮かんでいる。
「レティシア殿下におきましては、忸怩たるものが――いや、憤懣やるかたない――いや、エトナ山の大噴火のごときお怒りがあるでしょうが、どうぞ我が愚息を処することだけはご勘弁いただけないでしょうか」
居並ぶひとたちが全員、気の毒そうな目で私と公爵を見比べている。
「そんなことはしない」と、私の母たる女王が毅然と公爵に返した。「精霊女王様がお選びになった番は世界の理でもある。力づくで排除すれば我が国がどうなるか、歴史に現れているではないか」
その言葉に公爵は、安堵の表情になった。
アレッシオがどんな顔をしているかは、わからない。怖くてもう見られなくなってしまった。
我が国は精霊女王様の加護のもと、繁栄している。初代女王が精霊女王様の娘だったためらしい。
以来、国の長は女性だ。
また。女性王族の伴侶となるものは、精霊女王様が決めた番というのが習わしだ。
番を無理やり変更した場合――特に女王やその位を継ぐ予定の王女の場合には、疫病が蔓延し何度となく天災が起こり、国の存続が危ぶまれるような状況になる。
だからどんなに番を気に入らなくても、絶対に結婚しなければならないのだ。
アレッシオにひそかに恋してきた私には嬉しいことだけれど、私を大嫌いなアレッシオにとっては地獄にちがいない。
「アレッシオ・スカラッティ、ここへ来い」
女王にそう命じられたアレッシオが険しい顔のまま私たちのもとへやって来て、私のとなりに並ぶ。
「精霊女王様のお導きにより」と女王。「第一王女レティシア・ブーランシェとアレッシオ・スカラッティは、ここに婚約を結ぶ。婚礼は慣習どおりに一ヵ月後」
「承知しました」と、私とアレッシオの声が重なる。
そのことに、ほっとする。本来ならば拒否できないことだ。だけどアレッシオは苛烈な性格をしているから、激しく抵抗する可能性もあると心配していた。
「では、アレッシオ」とお母様が表情を緩めた。「これから神殿前で国民への発表だ。レティシアをエスコートしなさい」
「……承知しました」
アレッシオが返事をするのに、わずかな間があった。きっとイヤでイヤでしょうがないのだろう。
彼が私を見る。心底憎々しそうな表情。乱暴に手を差し出し、
「……お手を」とつっけんどんに言う。
ありがとうと言いたいけど、彼は言われたくないだろうから黙って手を重ねる。
(手! 手! 手! 手が俺の手に触れている!)
「――!?」
びくりとして、思わず手を離した。
今、なにか聞こえた。ものすごい早口でなにかまくしたてていたような。
いったいなに?
「レティシア、どうした?」とお母様が訊く。
「今、変な声がしませんでしたか?」
「いいや」
スカラッティ公爵や神官、そのほかのひとたちを見たけれど、みんな首を横に振った。
「気のせいだったのかしら」
自分の夫が誰になるのか、ずっと心配だった。精霊女王様が選ぶのだから、おかしな人ではないとは信じていた。だけど何年たってもアレッシオへの気持ちを捨てられない私が、そのひとを愛せるのかが不安だったのだ。
だからこのところは寝不足だ。それでおかしな幻聴が聞こえたのかもしれない。
不愉快そうな顔で待っているアレッシオの手に、再び手を重ねる。
(イヤなのか? イヤなのだろうな。レティシアは俺を嫌いだもんな)
「――っ??」
思わずまた手を離す。
「レティシア?」とお母様。
「あ、の……」周囲を見回し、最後にアレッシオを。
やっぱり彼は、凶悪な表情をしている。
「……あなた、なにか言った?」
「いえ」と不機嫌そうに返答するアレッシオ。
でも。そうだわ。さっき聞こえてた声は、確実に彼だわ。同じ声だもの。
もう一度、彼と手を重ねる。
(どんなにイヤがったって、逃してやるものか。ようやく手に入れたんだ。絶対にレティシアを俺に惚れさせてみせる!)
「――っ???」
どういうこと? 今、なんて? 私を惚れさせるって言わなかった?
アレッシオの不機嫌全開の顔を見る。
(ああ、可愛い。なんでそんなに可愛いんだ。妖精か?)
ふえっ!?
ボッと顔に血がのぼる。
可愛い? アレッシオが私を見てそんなふうに思っているの? まさか?
(なんで赤面しているんだ? でもそんな顔も可愛い。天使かもれしない。ああ、力いっぱい抱きしめたいっ)
えっ!?
(抱きしめて桜の花びらのような唇にキスをして――)
「待って――――っ!!」
両耳を両手でふさいでしゃがみこむ。
いったいなんなの?
こんなことをアレッシオが言うはずがない。
もしかして、私の願望?
こうだったらいいなと思うことが幻聴になっているの?
だとしても抱っ…‥とかキ……とか、そんな大それたことは申し訳ないから考えたことはないはずなんだけどっ。
……たぶん。
あんまり自信はないかもしれない。深層心理ではそんな欲望があったとか?
「本当にどうしたんだ、レティシア」
「お、お母様、ちょっと休憩させてください。心臓がもちません!」
「ダメだ、国民が待っている」
でもでも。アレッシオに手を重ねると、おかしな声が聞こえるのよ? とてもこれでは進めない。
「エスコートなしではダメでしょうか」
「当然」と一刀両断にするお母様。
アレッシオから盛大なため息をつく音が聞こえた。
「往生際の悪い。精霊女王様の番宣告は絶対でしょうが」
苛立たし気な声が頭上から振ってくる。
「そうだけど、そうじゃないの!」
ふたたびため息が聞こえた、と思った次の瞬間にアレッシオに抱き上げられた。
膝の下に手を入れられた、いわゆるお姫様抱っこだ。
憧れの抱っこをアレッシオが!
私に!
「落とされたくなかったら、俺にしがみついてください」
(ああ、ムカつく。そんなに俺が嫌かよ。いや、自業自得なのはわかっているが。このまま寝室に連れて行ってや――)
「ダメ――!!」
叫んでまたも両手で耳をふさぐ。
わ、私そんなに破廉恥だったかしら。もう無になるしかないわ!
目を固くつぶり、我が国の歴代女王の名前を順に口に出してあげていく。
「なにをしているんだ……」とアレッシオの呆れ声。
仕方ないじゃない。煩悩を払わないと、正気を保てそうにないのだもの。
私は幻聴を聞かなくて済むよう、必死に意味のない言葉を紡ぎ続けた。
◇◇
神殿前でのお披露目と王宮へ戻るパレードを、どうやってこなしたのか、まったく記憶にない。
気を抜くと幻聴が聞こえてくるから、必死に心の中で古典を暗唱していたのだ。それでも思考の隙間を塗って、アレッシオの声で、
(レティシアはなんて可愛いんだ)とか、
(早く夫婦になりたい)とか、
(幸せすぎて夢のようだ)とか、
(ああ、好き!)
とかが聞こえてくるので、正気を保つのが大変だった。
それですっかり疲弊してしまった私は、寝不足もたたって王宮に帰り着いた途端に気絶してしまったのだった。
私の成人と婚約を祝うパーティーがあるというのに。
すでに始まっているそれに参加するため、大急ぎで支度をしてもらい自室を出る。アレッシオはひとりで参加して、王女の婚約者として招待客たちの相手をしているという。
きっと怒り心頭だろう。
彼だって最初から私にあたりがきつかったわけではないのだけど。
むしろ、仲は良かった。
出会いは八年前の十歳のころだ。
この国には精霊の加護を得て、不思議な力を使える精霊師と呼ばれるひとたちがいる。
力を得た者は都市ごとに集められ、そこで先輩精霊師から指導を受けることが法律で定められている。指導無しでは使いこなせるようにはならないからだ。
そしてアレッシオと私の出会いが、この指導の場だった。
女性王族は生まれつき精霊女王の加護を受けて、あらゆる種類の力を使える。一方で普通の精霊師は一種類。だけどアレッシオは火と風の二種類の精霊の加護を受けた珍しいタイプだった。
複数の加護持ちである私たちは、年も同じですぐに意気投合した。
彼も私も大の負けず嫌い。最初は仲良く、やがてお互いにライバルとして切磋琢磨して精霊師としての技能を身につけていった。
第一王女である私は、いずれ女王になる。普通ならば、私に加護の力で勝てる者はいない。だけどアレッシオは並外れた負けん気と努力で、しばしば私を負かした。
私はそれが悔しくも楽しくて。いつの間にか彼を好きになっていた。
けれどアレッシオは反対の気持ちだったらしい。
少しずつ態度が冷たくなっていき、決定的なことが起きたのが私の十三歳の誕生日。
『お前の生意気なところが大嫌いなんだ!』と面と向かって罵倒された。
それからはずっと、犬猿の仲。顔を合わせてもろくに話さない。話せばお互いをあしざまにののしる。
私はそんなことはしたくなかったけど、精霊師の指導は終わってしまっており、口論することでしかアレッシオと繋がっていられなかった。
惨めだけど。私は初恋を捨てられない愚か者なのだ。
決定的な日から三年。十六歳になったころ、アレッシオが近衛騎士になった。見習いをしていることは知っていた。だけど、剣術を身につけるために学んでいるだけだと思っていたから、正式に入隊したと知ったときはかなり驚いた。
彼はスカラッティ公爵家の嫡男で、いずれ後を継ぐ。そのような人間が近衛になることは極めて異例だ。さすがに心配になってアレッシオになにがあったのかを尋ねたけれど、返ってきたのは『あなたには関係ないことだ』との冷たい拒絶だった。
このころから彼は私に敬語を使うようになった。私の前ではいつも苦虫をつぶしたような酷い面相で、不機嫌。心底私を嫌っているようだった。
それなのに、どうしてなのか彼は私の専属護衛となった。
もしかしたら、近衛隊の中で嫌がらせを受けているのかもしれない。そう不安になって、アレッシオに『近衛連隊長に配置換えをお願いする?』と訊いたら、冷ややかに『王女殿下は余計な口は出さないでください』と返されたのだった。
結局彼はそれから今まで、ずっと私の専属護衛をしている。今では専属隊の副隊長だ。まだたった十八だというのに。
とんでもないスピード出世だ。
しかもアレッシオは精霊の加護をふたつも持ち、いずれ公爵となるエリート中のエリート。
当然すごくモテるし、縁談話が途切れることなく舞い込んでいると聞く。それなのにいまだ婚約者はいない。
噂によると、隣国の公爵令嬢に縁談を申し込んでいる最中で、その返事待ちとのことだ。才女かつ美人らしい。国内にとどまらず、近隣諸国のあらゆる男性から求婚されている令嬢だとか。
そんな素晴らしい人を妻にと望んでいたアレッシオは、希望が断たれてさぞかしがっかりしているのだろう。
だけど精霊女王様が彼を選んだのだもの。私の夫になるしかないのだわ。
これでは余計に嫌われて当然ね。
――ああ、そうか。だから私は悲しくて、幻聴を自ら生み出しているのだわ、きっと。
廊下を進む足を止め、息を吐く。
アレッシオが番で嬉しい。だけど、今のままではダメだ。私のため彼のため、それから国のために関係を改善しないと。
でも、どうやって?
あなたが好きと伝えたら、少しは変わるかしら。
「レティシア様、大丈夫ですか?」と、同行している侍女が声をかけてきた。
彼女だけではない。護衛たちも不安そうに私を見ている。
「ええ」と、笑顔で答える。「ごめんなさいね、行きましょう」
そうして歩き出そうとしたところで、
「レティシア!」と私の名前が廊下に響き渡った。
従兄のクレメンテが血相を変えてやって来る。
「君の番、アレッシオ・スカラッティなんだって?」
「そうよ」
「なんてことだ!」と彼は首を横に振る。
二歳年上のクレメンテは、お母様の兄であるセルヴァ公爵の長男だ。彼ら親子のことは、あまり得意ではない。
「これだから番制度はおかしいんだ!」とクレメンテは声を荒げて怒る。
本気なのか演技なのかは、わからない。彼らは精霊女王否定派で、古臭い番制度はやめて現代にあった在り方に変えるべきだと主張している。
でも、自分が王になりたいだけなのだ。男性には王位継承権がないから。
「君が嫌っている男が番だなんて、おかしいだろう? それで国が安定すると言われて信じられるか?」と、クレメンテ。
「私は信じるわ」
「まったく! 聡明な君が盲目的に精霊女王を信じてしまうのだから、怖い慣習だよ」
「どいてくださらない? 私は急いでいるの」
「待って!」とクレメンテが私の手首を掴む。「君だってわかっているはずだ。番制度のせいで王族は激減していると!」
痛いところを突かれた。
彼の言うことは間違っていない。
現女王たるお母様の子供は私だけ。番であるお父様が事故で早世したためだ。
番が死去した場合、精霊女王様に頼めば新しい番を選んでくれる。だけどそれは、あくまでスペア。本物の番との結婚ほどの安寧を国にもたらしはしない。
だからお母様は新しい番を持たなかった。お父様と深く愛し合っていたかららしい。そして、このような女性王族は多いみたいだ。
更におばあさまも、産んだ子はふたりのみ。お母様とセルヴァ公爵だ。彼女の場合、体が弱くてそれ以上の子供を産めなかったとか。
王族が少ないのは事実で、私にもしものことがあった場合は、クレメンテの妹が次期女王になる。彼女も即位できなくなったら、かなり遠縁の女性が選ばれることになるだろう。
「あなたの言いたいことはわかるわ。でもその主張は私ではなく母や精霊女王様にしてね」
「レティシア!」
彼が私の腕を掴む手に力を込めた。痛さに顔が歪む。
「痛いわ、離して」
「僕と結婚してくれ!」
「なんですって?」
「ずっと君を愛してきた。だけど女性王族に好意を伝えるのは――」
「なにをしているっ!!」
思わずビクリと身をすくめるほどの大声がした。アレッシオだった。
不機嫌極まりない表情をして、大股でこちらに歩いてくる。
「アレッシオ・スカラッティ!」とクレメンテも負けずに大声を出す。「僕は絶対に君なんて認めない! 番制度は廃止にして、レティシアは僕と結婚するんだ!」
「寝言は寝てから言え! お前は王位がほしいだけじゃないか!」
「僕はレティシアを愛している! 彼女を嫌っている君が選ばれ僕が外れるなんて、制度そのものに不具合があるからとしか考えられないだろう!」
「愛している男はなあ――」
そう言ってアレッシオは、私を掴んでいるクレメンテの手首を握りこむと捻り上げた。
ほとばしる悲鳴とともに、私の手は自由になる。
「大切な女が痛がることなんてしないんだよっ!」
アレッシオが手を乱暴にふると、クレメンテはバランスを崩して派手に転倒した。
「王女への暴行、女王陛下に報告するからな」
彼は吐き捨てるように言うと、私を見た。苦虫を百匹潰したような顔で。
「……目覚めたと聞いたので迎えに来ました」
「……ありがとう」
クレメンテは立ち上がると、捨て台詞をはいて走って行った。セルヴァ公爵に言いつけにいったのかもしれない。
アレッシオが私の手を取り、クレメンテに強く掴まれたところを見た。
「跡になっている」
「パーティーが終わったら冷やすわ」
(俺のレティシアにこんなことをしやがって)
あ。まただわ!
私の妄想が……!
(もっと痛めつけてやればよかった)
アレッシオが私の手を顔に近づける。と思ったら、掴まれたところに唇を寄せた。
どうして!?
(くそっ、あとで絶対半殺しにしてやる。レティシアは俺のものだ。精霊女王だって認めたんだ)
「ア、アレッシオ!?」
名前を呼ぶと彼はようやく私の手首から唇を離した。
美しい緑の瞳が、私の目の奥を覗くかのようにみつめてくる。
「……治療です」
「うそ」
(さすがに誤魔化せないか)
「殿下。パーティーが終わったら、話したいことがあります。時間をとってくれますか」
(ああ。これを伝えたら、どうなるだろう)
なんだか、頭がこんがらがってきたわ。どれかアレッシオの本当の声で、どれが私の妄想かわからない。
「レティシア殿下? ダメでしょうか」
ええと。これは彼の声、ね。
「終わったあとね。わかったわ」
侍女を見て、予定に組み込んでねと合図をする。なぜか彼女も、周りに控える近衛たちも安堵の表情だ。
クレメンテをアレッシオが撃退したことにほっとしているのかもしれない。彼らでは王兄の嫡男に強い態度は取りづらいから。
アレッシオが握ったままの私の手を、ふたたび顔に近づけた。
今度は手の甲にキスをされる。
(俺が愛していると言ったら、レティシアは信じてくれるだろうか)
――なんですって?
私の妄想による幻聴は、あまりにも都合が良すぎではないかしら。
◇◇
大広間で大々的に開催されているパーティーは、滞りなく進む。
私はなるべく無でいたいけれど、アレッシオの声はなんども聞こえてきた。
可愛いだとか好きだとか、私が欲しい言葉ばかり。
これはもう、あれだわ。
悪魔のささやき!
きっと成人になって精霊女王様の加護が強くなった私を、悪魔が誘惑しにきたのだ。私が道を踏み外したら、彼らは大喜びするのだろう。
声が聞こえるのは私がアレッシオに触れているときのみで、内容は私に関することだけ。ほかのことにたいしての言葉は聞こえない。
ほらね。やっぱり悪魔の仕業なのだ。
でなければ私を嫌っている彼が、『愛しいレティシア!』なんて言うはずがないもの。顔はいつだって仏頂面で、表情と言葉があっていないし。
もっとも私も彼に対しては笑顔を見せないことにしているから、表情だけはおあいこだわ。
招待客への挨拶が途切れたところで、額に汗を浮かべたスカラッティ公爵がやってきた。
「アレッシオ。その不機嫌に見える顔をなんとかしなさい」
父親に注意されたアレッシオは私から手を離し、給仕からグラスをふたつ受け取った。そのひとつを私に目も向けないで渡しながら、
「こんな顔になったのは誰のせいですか」と父親に向けて言う。
「100パーセント、自分のせいだろう!」
公爵が小声でなじると、お母様が声をあげて笑った。
「誰のせいかを論じるより、先にすることがあるだろう?アレッシオ。お前はレティシアを手に入れたのだ」
アレッシオがお母様をぎろりとにらむ。次に私を。それから目をそらすと大きく息を吐いた。
……幻聴は私の妄想に過ぎないのだと、よくわかる。
彼にとって私との結婚は辛いもの。
きっとため息とひきかえに、私の伴侶になる覚悟を決めているのだろう。
「アレッシオ」
声をかけると、手で制された。アレッシオは持っていたグラスを父親に渡す。そして――
頬を張る、高い音が響き渡った。
アレッシオが自分で自分の両頬をはたいたのだ。
「なにをしているの!?」
「レティシア」
彼がそう言って、緑の瞳を私に向ける。
レティシア?
呼び捨てで呼ばれるのは、いつぶり? あ、これも幻聴かもしれないわね。
「レティシア!」と今度は離れたところから別の声がした。
目を向けると、クレメンテだった。父親を後ろに従えて、思いつめたような表情でやって来る。
「こんな茶番はよすべきだ!」と、クレメンテ。「嫌いな男と結婚して、どうして国に安寧をもたらすことができる? 精霊女王の選択は間違っている。そもそも番制度が狂っている」
セルヴァ公爵が大きくうなずく。
「女王よ。私も、こんな歪な慣習はこの子たちの代でやめるべきだと忠告してきたはずだ。なのに聞き入れないから、こんなことに。娘が不幸になっても構わないのか?」
「僕は!」とクレメンテは叫んで私の前にひざまずいた。「レティシアを愛している。君と結婚したい」
「断――」
断ると言おうとしたけど、最後まで言葉にできなかった。アレッシオが私を抱き上げ、クレメンテから遠ざけたのだ。
(ふざけんなっ! 隠し子がいるくせにレティシアに求愛するなんて。地獄に落ちろ!)
え? 隠し子? クレメンテに?
思わずクレメンテを見る。必死な表情で、元からの甘い顔つきとあいまって、私に恋焦がれているように見えなくもない。そんなひとではないと知っているから、騙されないけど。
でも、これだけしておいて、彼には隠し子がいるの?
というか今のアレッシオの声は、私の幻聴とは思えない内容だったような――
「レティシア!」と今度はアレッシオが私の名前を呼んで、その場にひざまずいた。凶悪な顔で私を睨みあげている。
「五年前の誕生日に『大嫌いだ』と言って傷つけてすまなかった」
「――え?」
何度となく夢で聞いてきた言葉だ。
だけど表情と言葉がちぐはぐすぎる。
きっと、また幻聴なのだわ。手は触れていないけど……。
「レティシア、好きだ」アレッシオの表情が崩れ、泣き出す寸前の表情になる。「ようやく伝えられた。俺は、ずっとレティシアが好きだった。だが言えなかった」
衝撃のあまり膝から力が抜けて、その場にへたりこでしまう。
これは幻聴? それとも本当に聞こえている言葉?
「貴様……!」クレメンテがアレッシオににじり寄る。「王配の地位がほしくなったのだろう
!」
アレッシオは彼を無視して、私の両手を取った。
「俺はこれから全力をかけてレティシアを愛す!」
(だから、俺を拒まないでくれ。レティシアの番になるために生きてきたんだ!)
「どういうこと?」
アレッシオが私の手に唇を押し当てる。
「信じてもらえないのは、わかる。五年前、父上に言われたんだ。『いずれ番と結婚しなければならない女性王族を惑わしてはならない。好意を伝えてはならない。それができない者は王宮を去らねばならない』と」
スカラッティ公爵がうなずき、お母様が、
「それが決まりなのだ」と静かな声で肯定した。「国と、女性王族自身を守るためのものだ。番を拒否して国に災いをもたらした者の末路は、いずれも悲惨だからな」
「だから俺は、ああ宣言するしかなかったんだ」
(でなければ好きだと言ってしまっていた! 気持ちを押さえるために懸命に我慢していたら、表情までおかしくなってしまったが。でもそうでなければ、愛しく思う気持ちが全部顔に出てしまっていただろう)
えええ??
これは幻聴?
それとも本当にアレッシオは話しているの?
「騙されるなレティシア!」とクレメンテが膝をついたままにじりよってきた。「君を真に愛しているのは僕だ!」
「……クレメンテ」
「なんだい!」
「あなた、隠し子がいるの?」
「ごふっ!?」
クレメンテは盛大にむせて、咳き込んでいる。かなり慌てているようだ。
これは事実みたいじゃない?
ということは、私が聞こえているのは幻聴ではないの?
悪魔の囁きでもない?
まさかと思うけど、アレッシオの心の声なんてことはないわよね?
「レティシア」とアレッシオに呼ばれて、彼に視線を向ける。
「この五年で君に嫌われてしまったことは、よくわかっている」
(だが専属護衛でいるためには、そのほうが都合がよかった)
「もしかしてアレッシオが近衛兵になったのは――」
「レティシアのそばにいるためだ」
(それから精霊女王を脅すため)
ん?
今、なんて?
アレッシオが再び私の手にキスをしながら、 美しい緑の瞳でまっすぐに私を見ている。
「レティシアに愛されたい。この顔はまだうまく笑顔をつくれないが、俺は誰より君を愛している」
とくん、と胸が高鳴る。
「これは幻聴?」
「まさか! 俺はちゃんと言葉にして君を口説いている」
彼が私の手を自分の唇に当てた。
「ほら、動いているだろう?」
(今までは心の中でしか思いを伝えられなかったが、これからはもう)
「レティシアの番に選ばれて嬉しい」
確かに彼の唇は動いていて、そこから声が聞こえる。
「幻聴ではないみたい」
「だろう? 俺を愛して?」
アレッシオは仏頂面が少しましになった程度の厳つい顔で、私をみつめている。
今まではそんな表情に悲しくなっていたけれど、もうその必要はないのね?
「私もアレッシオが好き。あなたが番で嬉しい」
「レティシア!」
アレッシオに抱き寄せられる。
(レティシア、レティシア! ようやく手に入れた! 夢みたいだ。大好きだ、レティシア!)
怒濤のようにアレッシオの喜びの声が聞こえてくる。
スカラッティ公爵が夫人と手をとりあって嬉し泣きをしているし、お母様は、
「これで我が国は長きにわたって安泰だ!」と客人たちに向かって演説を始めた。
「私だって夢みたいだわ」と、アレッシオだけに聞こえるように囁く。「精霊女王様には心の底から感謝するわ」
「そうだな、俺も」
アレッシオはそう言って、嬉しそうな笑みを浮かべた。
◇◇
丸い月が浮かぶ藍色の空のもと、アレッシオと手をつなぎ庭園を散策している。
今までは異性とふたりきりになるのを禁止されていたのに、今日はパーティーが終わったとたんにお母様に『デートでもしてきなさい』と送り出された。
番と仲を深めなさい、ということなのだと思う。
アレッシオからは、恥ずかしくてたまらないほどの愛の言葉が聞こえてくる。たぶん、彼の心の声。しっかり顔を見ていれば、口が動いているときとそうでないときで判断がつくようになった。
どうしてこんな不思議なことが起きているのかは、わからない。精霊女王様の新しい加護なのかもしれない。私たちが再び仲良くなれるように、と。
「歩くのは疲れたか?」とアレッシオが不機嫌そうな表情で訊く。
「いいえ。だけどどこまで行くの」
「すぐそこ」
そう言った彼が私を連れて行ったのは、里山をイメージして作られた庭園にあるガゼボだった。正面に人工の泉があり、水面に満月を映している。そのまわりでは月明かりの中で、百合やキキョウの花が風に揺れている。
「素敵だわ」
「いつかレティシアと来たいと思っていた」
並んで座ったアレッシオが私の手にキスをする。
「これからは毎日でも来られるわね」
「ああ」
(本当に夢のようだ。日々精霊女王を脅しておいてよかった)
はっと息をのむ。
すっかり忘れていた。その一言はパーティー中も聞いたのだったわ。
どうしよう。尋ねたいけど、『あなたの声が聞こえるの』なんて言ったら気味悪がられないかしら。
「そのことについては、私が答えましょう」
アレッシオではない女性の声がした。
いつの間にか泉の上に精霊女王様が立っている。成人の儀でしか会えないはずなのに。
しかも精霊女王様の月に照らされた美しいお顔には、憂いが滲んでいるようだ。
「女王様。どういうことでしょうか」
精霊女王様が深いため息をついた。
「そこのアレッシオ・スカラッティはあなたの護衛として神殿に入るたびに、私を脅していたのです。『自分をレティシアの番に選ばなければ、この国を焼き尽くしてやる』と」
「ええっ!」
アレッシオを見ると、彼は困ったような笑みを浮かべていた。
「だって、レティシアを手に入れるには、そうするしかないだろう? 幸い俺には火と風の加護があるから、簡単に実行できる」
「こんな番は初めてです」と精霊女王様。「私を脅さなくとも、運命の番はアレッシオだったのですが」
「そうなんですか!」とアレッシオが嬉しそうな声をあげた。
「あなた以外の人間がレティシアの番になった場合、必ず彼女は不幸になりますからね。あなたのせいで」
んん? どういうことかしら?
「俺は彼女の幸せしか願っていませんよ」
「願いと深層心理は別物なのでしょう」
精霊女王様はそう言って、私にだけ自分に近寄るよう命じた。
「よいですか、レティシア。あなたに彼の心の声を聞かせたのは、彼がどれほど重い男かを知らしめるためです」
囁くような声で言われた言葉に首をかしげる。
「重いですか?」
「……あなたはそんな認識なのですね。本当にお似合いのふたりだわ。けれど、これだけは忘れないでください。アレッシオ・スカラッティはあなたが手に入らなければ、魔王になる運命でした」
「ま……!」
思わず大きな声が出そうになり、慌てて手で口をふさぐ。
「この国どころか、世界が崩壊します。あなたは世界の平和のために、運命の番と良き夫婦でいなければなりません」
「それは、もちろんです」
「頼みましたよ」
精霊女王様はアレッシオも呼び寄せた。そうして私たちに祝福を与えてくれた。
藍色の世界に虹色の光がうずまく。
「きれい!」
アレッシオが私の腰に手を回し抱き寄せた。
いつの間にか精霊女王様の姿が消えている。
「夢みたいだ」とアレッシオが吐息交じりに私にささやく。
そのとき、彼の心の声が聞こえなくなっていることに気がついた。もうその役目を終えたということなのかもしれない。
でも、聞こえないほうがいいわ。アレッシオの熱烈な愛の言葉に、私の心が羞恥に耐えられないもの。
「私もよ、アレッシオ。あなたと一緒。いつも精霊女王様に祈っていたわ。番はアレッシオがいいって」
彼の目が見開く。
「脅してはいないけど!」
それから私たちはどちらからともなくキスをして。
世界が滅びないように、懸命に愛を深めたのだった。
《おしまい》
◇おまけ◇
「隠し子とはどういうことだーー!!」
セルヴァ公爵が息子の肩を両手で掴んで、ガクガクと揺さぶる。
「ちょ、父上、待って、死ぬ、死にます、やめて……!」
「お前、本当にそんなものがいるのか!」
激しく揺さぶられているクレメンテは、父親から目を反らしている。
パーティー会場を埋め尽くしていた客人たちは彼らから距離を置き、だけど興味深そうな表情で親子の諍いを見守っていた。
「なんだ、公爵は知らなかったんですか」と、私を抱きしめたまま、アレッシオが声をかける。
「母親は下町の酒場に勤める看板娘の可愛い子ですよ」
「下町……!」と絶句する公爵。
「子供は2歳になる利発な男の子だとか」
「2歳……!」
「すでに手切れ金も養育費も払い済みだそうだから、なんの心配もないでしょう」
アレッシオがそう締めくくると、公爵はふたたび息子を睨んだ。そして――
「このバカ息子! レティシアの番が決まるまで女遊びはするなとあれほど言ったのに! お前というヤツは……!」
と叩き始めた。
「痛い! 痛いです、父上!」
「勘当だ! 出ていけ、阿呆者!」
ふたりは喚き散らしながら、大広間を出て行った。
「アレッシオは詳しいな」とお母様が感心したように言う。
「ちょっと小耳に挟んだのですよ」
(恋敵になりそうなヤツ全員の弱味を握っておくのは当然じゃないか)
「え?」
「どうした?」と私を見るアレッシオ。
全員の弱味って。いったい何人を……?
まあ、なんでもいいわ。
アレッシオがそれだけ私を思っていてくれたことが嬉しいもの。
「なんでもないわ」
「ところでレティシアは、どうして隠し子のことを知っていたんだ?」
「それは……私も小耳に挟んだの!」
「なるほど」
(運命が俺の味方をしているんだな!)
そうかもしれないわ。
アレッシオの腕に手をそっとかける。
(手! 手! レティシアが自ら俺の腕に手をかけてくれた! やった!)
それからも途切れることなく、アレッシオの喜びの声が聞こえてくる。
私の幻聴ではないわよね?
私も喜んでいいのよね?
アレッシオを番に選んでくれて、ありがとうございます。精霊女王様!
《おわり》