表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
掃き溜め  作者: しむ
2/2

メリークリスマス

 今年も冬がやってきた。師走に入り、霜が降り始める。少し積もった雪を掴み投げたり、白い息を吐いたりして遊ぶ。そういった冬の印をひとつひとつ味わうたびに、ひどくそわそわしたものだった。年末年始に控えるクリスマスとお正月。あれが楽しみでならなかったから。

 今年のプレゼントはなんだろうかとか、どうやってお年玉を親に渡さずやり過ごそうかとか、子供ながらに色々と考えたものだった。そうやって、悠久と言い換えてもいい少年時代の体感時間をなんとか紛らわそうとしていた。




「どうしてクリスマスはおめでたい日なの?」


 やはりクリスマスの近づいていたある年、小学校低学年くらいだっただろうか、教会にいた僕はそんな質問をした覚えがある。


「それはね、イエス様がお生まれになった日だからよ」


 女性の牧師がそう答えた。細かい容姿はもう覚えていないが、この上なく朗らかな笑みを浮かべていたことは覚えている。

 うちの母親もこうであったらな、と何度も思った。


「どうしてそれがめでたいの?」


「それはイエス様が、私たちの罪を許してくれた、すばらしいお方だったからよ」


 完全に納得はできなかった。でも、そういうものなのかと思った。

 そうして帰り際、チョコ菓子をもらった。アドベントカレンダーと言って、その日からクリスマスまでの日数分チョコがあり、一日一つ食べようね、というものだった。初めての年は、待ちきれずに数日で食べ尽くしてしまった。




 数年が経った。親の勧めもあり、当時まだ小学生ではあったが、私は洗礼を受けていた。そしてその過程で、様々なことを教わった。

 イエス様は、十字架にかけられ、私達の罪を肩代わりしてくださった。だから罪深い私達も、深い信仰を持てば永遠の命を得ることができるのだ、と。

 そんなイエス様の誕生日ともなればなるほど、これだけ祝うのも納得ができる。確かに死ぬことは本当に恐ろしいしなと、そう思った。


「父なる神を愛しなさい」


「自分のように、隣人を愛しなさい」


 死ぬのが怖かった私は、こういったキリスト教の教えにも従うようになった。そして例のチョコも、教えを守って食べた。去年のサンタクロースは欲しいものをくれなかったので、今年のクリスマスはそんなにわくわくしなかった。




 私は確かに死ぬことが怖かった。しかしそんなこと関係なしに、教えを守りたかくてたまらなかった。

 だから理由は分からなかったが、高学年になった私は、とにかく教えを守った。何をされても許そうと努め、誰も見ていないような所でも、神に誠実な行動をとるよう意識していた。人の悪口は裏でも決して言わなかったし、弟にほしかったものを譲った。でも何故か、虚しかった。


「さすが長男、偉い」


 母親にこう言われた時だけは、悪くないような気がした。


 そうした日々が続き、何か不安なものが、心のうちにわだかまるようになっていた。だから私は神の存在を確信することで、安心したかった。しかし確かめようとすることは教義に反するので、私の不安は堂々巡りするのみであった。


 不安な私は神の代わりに、様々なことを疑うようになった。その一つが、サンタクロースであった。きっかけは色々あった。意地悪なクラスメイトが豪華なプレゼントをもらっているとか、そんな理由だった気がする。


 ある年のクリスマス、夜更かしに成功した私はついに、サンタクロースの正体に気づいてしまった。それだけではない。一つ一つ年を重ねるたび、摩訶不思議な超常現象と思っていたものが一つ一つ、ありふれた常識へと成り果てていった。そうして一つ一つ、神の存在を疑う材料になっていった。

 この頃にはもう、クリスマスは親の顔色を伺いながら、サンタの存在を信じているフリをするだけの日になっていた。


「これが欲しいのか! じゃあサンタさんにお願いしておくからな」


 そう高らかに宣言する父親を、どんな目で見ればいいのか分からなかった。




 月日は流れ、中学、高校生にもなる頃にはすでに、神のことなどこれぽちも信じていなかった。正確に言えば、不死の命にも救済にも、神の愛にも、興味がなくなっていた。音楽性の違いで解散、といった所だろうか。

 

「教会に来ない? イースターのイベントがあるよ」


 そう母親から誘いのチラシをもらっても、なにか理由をつけ断るようになっていた。教徒の方々と話すと、気持ちが落ち着かなくてしょうがなかった。神の愛だとか、不死の命だとか、結局自分の利益のために信じているだけじゃないかと、そう感じてしまった。私もそちら側であったというのに。


 ともかく私はキリスト教から離れ、クリスマスに対する意識も薄れていった。正直煩わしいと思っていた教義から、完全に自由になることができたのだ。けれども、なんだか虚しい。

 虚しいだけではない。私は最大の教えであった神を愛することは止めても、隣人を愛することは続けてしまっていた。

 私は自分というものが心底嫌いなものだから、本当の所誰かを愛することなんて出来はしない。しかし分からないなりに、知らないなりに、せめて誰に対しても優しく接しようとしてしまう。

 優しくなどできていないかもしれないが、とにかく私はそうしているつもりだった。


 


 この行動の理由を、長い間、人から嫌われるのが怖いからだと結論付けてきた。しかしこの頃、気づいてしまった。

 きっかけはなんてことない、近所のおばさんを手伝っているとき、ふと「お兄ちゃん、やさしいねえ」と言われたことであっただろうか。思わず舞い上がってしまいそうな喜びを感じていた。そうした経験を重ねて、私は知った。


 私は本当の所、不死の命も天国への切符もいらなかった。私はただ、愛が、ぬくもりがほしかったのだ。誰だっていい。親でも神でも、見知らぬ誰かだっていい。ただそういったものが欲しかったのだ。

 だから少し褒められただけで愛を与えてもらったと勘違いし、いい人であろうとしたんだ。だからすぐに愛をくれなかった神を、見限ったのだ。

 愛というものがなんなのかはよく知らないが、きっとそうなのだと確信した。




 愛に飢えている。そう気づいてから、少しは愛を意識するようになった。年頃であったから、端的に言うと恋愛というものがしてみたかった。しかしそれは無理だとすぐに悟った。


「あ、おはよう!」


 誰かからそう声をかけられても、「うん、おはよう」と返すのが限界なのだ。特に相手が女性ともなると、あと一歩踏み込めば傷つけてしまうのではないかという恐怖が、全身を駆け巡る。目を合わすことすら失礼なのではないかと思ってしまう。

 そして自分好みの相手であればあるほど、別のもっといい男と付き合って、おしゃれなカフェででも楽しそうに談笑していてほしいと、心の底からそう思えてしまう。

 長い勘違いが私を歪めてしまった。だから私には、愛の権利などないのだなと、そう思った。

 



「席、座りますか?」


「あら、すみません」


 師走ももう下旬。今日もいい子として、愛に似たなにかを享受する。

久々の東北、マフラーを家に忘れたことを強く後悔しながら、電車を降り、実家へと向かう。今年は暖冬で、雪はそれほど積もっていなかった。そしてもちろん、今年我が家にサンタは来なかった。

 僕がいい人である限り、きっと愛とやらに出会えない。そう知りながらも、どこかそれでいいや、とも思っていた。

 少し懐かしくなって、雪を握りしめてみる。量が少なくて、うまく雪玉を作れなかった。手のひらを貫くような冷たさが走る。そういえば、手袋も忘れていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ