よんっ!
ハンカチで口元を押さえながら、朱梨の手を引く。火の元の確認はしたはずなのに、と思う。今さらそんなことを思っても、もう遅いけれど。
唾を飲み込む。
懐かしい記憶を全部、この火は容赦なく奪い去っていく。
失ってしまえば、あっさり風化してしまう。
母さんの顔だって、そうだ。
あんなに憶えていたのに、今では写真アプリを立ち上げないと、その輪郭すら思い出せない。なんて俺って薄情なんだろうって思うけれど、これが現実だった。
紅鮫、紅い悪魔と言われている俺にはお似合いだって思う。
(父さん、ごめん――)
後悔が滲む。最近の俺は悔やんでばかりだ。階段を一足飛びで駆け降りる。振り返ればアパートが轟々と燃え上がっていた。持ち出せなかった思い出の品が、自然と脳裏によぎる。
母さんが使っていた衣装箪笥は、亡くなってからも手付かずで、そのままだった。キッチンのマグカップも。おやつ作りの道具も。母さんのエプロンも。
立てかけていた家族の写真も、全部、ぜんぶ――。
「観月がいないんです! 観月! 観月が!」
俺の思考は、そんな恐慌をきたした声に遮られた。
見れば、同じアパートに住んでいた、朝比奈観月ちゃんのお母さんだった。何度か朱梨に巻き込まれて、一緒に遊ばされた記憶があるから、観月ちゃんのことはよく覚えている。こんな俺の髪に躊躇していた時もあったが、それも時期に慣れてくれた。
あの子も近所の保育園に通っていたはず。そう思い返すと、花園の表情がよぎって、また苦い感情がこみ上げてきた。何か声をかけてあげるべきなのに、言葉が見つからない。結局、自分たちの部屋に視線が向いてしまって――。
その朝比奈さんは、半狂乱になって誰かを探していた。聞くまでもなく、観月ちゃんのことだと思う。
火影が揺れた。俺は目を疑う。今この瞬間も、うねる炎の腕が、アパートを食い貪ろうとしていた。
「あの話ってまさか、さっきの子じゃないよな?」
「それこそ、まさかだろ? この火事のなか、戻るとかないから。いくらガキでも分かるって」
「だよなぁ。友達からもらったプレゼント? 大事なのも分かるけど、状況が状況だもんな。それくらいさすがに――」
野次馬の声に、俺は頭が真っ白になった。
(なんで、お前ら止めないっ!)
頭がぼーっとする。頭痛がギシギシと俺を締め付ける。誰の声か判別できないくらい、歪曲して。まるでDJがスクラッチするように、音が飛んでいく。
――朱理お兄ちゃん!
にっこり笑って、観月ちゃんは笑ったのだ。最初会った時には、目すらあわせてくれなかったのに。
――観月ね、保育園でお友達ができたんだよ。
母さんの表情が風化していくように。風で砂が飛ぶように、消えて埋もれてくれたらいいのに。
正直、面倒くさいと思った。でも、朱梨は毎回巻き込んでくる。だって、お兄? 仕方ないじゃん、みんな会いたいって言うんだもん。お兄のことが大好きなんだって、さ。
――観月と朱理お兄ちゃん、もうお友達だもんね?
満面の笑顔で、彼女が笑う。
母の笑顔が、吹き飛んでいきそうなのに。観月ちゃんの笑顔がより、はっきりと再生されるのだ。
気付けば、俺はアパート前の共用水道の蛇口を全開で捻っていた。
「お、おい!? こんな時に何をふざけて!?」
「ちょっと、濡れるから! やめ――」
「お兄……?」
野次馬の声とともに、朱梨の声が聞こえてきた。
たん、たん、たん。
こんな時に、もう辞めたバスケットボールの音が、鼓膜の奥底で響いた。もちろんそれは幻聴で、気のせいでしかないって分かってる。また熱が上がってきたんだと思う。意識が朦朧とするから、多分そうだ。
――紅い悪魔ねぇ。まぁ、怖い顔をしているけれど、朱理は笑ったら可愛いのにね。
バスケ部のキャプテンが、いつか言った言葉が、耳鳴りのように響く。
――どちらかというと、紅鮫じゃん? だって朱理、決めたら絶対に諦めないでしょ? 朱理のディフェンスってさ、敵ならやっかいだけれど、味方ならこれほど心強いことないからね。
ニッと彼はそう笑う。
だから、さ。
キャプテンが俺の背中を叩く。
――頼んだよ、朱理。
残響。反響。残像。火影。火焔、ゆらゆら、ゆらゆらと。
今は誰に頼まれたわけでもないのに。
だって仕方がない。俺が決めてしまったのだから。
嫌われたって、怖がられたって。結局、これが性分なんだって思う。
「お兄っ!」
朱梨の指先が、一瞬、俺の肘に触れて。
掴もうとして――その前にすり抜ける。
俺は駆ける。ゆれる、揺れる。ゆらゆら、ゆらゆらと。手招きする火焔の方に。
「お兄っっ――」
振り絞るような朱梨の声は、焼き尽くそうとする炎の前にに、あっさりとかき消された。
■■■
炎の熱さよりも、煙で頭がクラクラする。
(本当にバカだよな)
自嘲気味な笑みがこぼれる。
今さらになって、なんて無謀なことをしたのだろうって思う。でも、そんなことを考えるくらいなら、一歩でも先に進むしかない。思考を放棄したら、それこそ俺も観月ちゃんも、死んでしまう。
消防車の来る気配がない。言ってしまえば、火が燃えるに任せている状況だ。だから本当に時間がないのだ。
ハンカチで鼻を押さえながら、外階段を駆け上がる。煙で目を開けていることもできない。轟々と火が燃え盛る。俺の部屋の隣が、朝比奈さんの部屋だった。
玄関を開け放てば、廊下に倒れていた観月ちゃんが視界に飛び込んできた。
「観月ちゃん?!」
慌てて駆けつけると、クマのぬいぐるみを抱きしめたまま、彼女は倒れていた。呼吸が浅い。
(これって?)
今でも憶えている。
8/15、観月ちゃんの誕生日にあげた熊のぬいぐるみだった。
お盆期間で、保育園はお休み。朱梨がどんなに言葉をかけても、観月ちゃんは、塞ぎ込んでしまった。見かねた俺がプレゼントした安物のぬいぐるみだった。
――友達からもらったプレゼント? 大事なのも分かるけれど、状況が状況だもんな。それくらいさすがに……。
野次馬の声が反響する。何度も、何度も、何度も。しつこいくらいに、何度も――。
「観月ちゃん、起きろ! 逃げるぞ!」
観月ちゃんの目が開く。でも瞳孔が――焦点があっていない。意識が朦朧として、体を動かそうにも、彼女自身ではどうにもならない。きっと、煙を吸い込みすぎたのだ。俺は急いで、観月ちゃんを抱きかかえる。
両手が塞がれた俺は、途端に咳き込む。煙が蔓延しすぎていた。目が痛い。
彼女の口元にハンカチを落として、とにかく急ぐ。
玄関を開け放って、空気が少しだけ流れが変わった。今、この段階も頭がクラクラする。 と――。
どぉぉぉん!
鈍い音が響いた。
(ウソだろ?)
目を大きく見開く。眼前にあった階段が、崩れ落ちたその瞬間だった。左右、背後から炎が手招きをしている。退路は断たれて、八方塞がりとはこのことか、って思う。遠くから、消防車のサイレンが響く。
(遅ぇよ)
舌打ちをしながら、駐車場にある、父さんの1970年製、モーリスマイナーが鎮座していた。アイツが一番俺たちに近い。
「お兄っ!」
朱梨の声。
「……朱理お兄ちゃん?」
呼応するように観月ちゃんの声。目の焦点はあっていない。きっと、今のこの状況すら理解できていないと思う。それで良いと思う。悪い夢だと思って、そのまま寝ていてくれたら良い。
この煙じゃ、深呼吸なんかできない。
助走をしようにも、背後は炎が炙ってくる。
迷っている時間は、本当にない。
(ごめん、父さん――)
俺は飛んだ。
ダンクシュートはキャプテンの十八番だっていうのに。なんで、俺が飛び上がっているんだろう。
刹那。背中に衝撃が走って。それでも、観月ちゃんとクマだけは離すまいと、強く強く抱きしめた。息ができない。 2回、3回、何回? 体が跳ねた。
「お兄!」
「観月、秋田君?!」
「朱理?!」
「朱理!」
聞き慣れた声がした。黄島にキャプテン? 騒然とする野次馬。けたたましく鳴り響くサイレン。あぁ、頭が痛い。
「朱理お兄ちゃん……」
観月ちゃんの声。あぁ、ちゃんとある。モフモフの感触。そうそう、この手触りなら喜んでくれるかなぁっと思って買ったんだった。お盆休み明け、保育園で誕生会があるにしても。それまで寂しくないだろ? そう思って――。
「ほら、クマは、無事だから」
なんとか、言葉になった。
目を開ける。
群衆に交じって、花園の顔を見た。お前まで野次馬か――あ、違うか。観月ちゃんが気になって、駆けつけてくれたのか。お前、本当は良いヤツだよな。鉄の聖母とか、甚だお門違いだって思う。
花園が目を大きく見開いて。息をのむ。その体が、震えていた。
言っておくけれど、イジめてないからな。そう弁解しようとしたけれど、声にならない。
瞼が落ちる。その刹那、
――ごめんなさい。
観月ちゃんのそんな声がして。
でも、なぜか花園の声音と重なって。
(なん、で?)
そこで、俺の意識は落ちたのだった。