にっ。
あの日は、今にも雨が降りそうな曇天で。イヤになるくらい。思い出すだけで頭痛がするような、そんな鈍色のくもり空だった――。
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――お兄、ちゃんと傘を持っていってよね?
登校前、朱梨に傘を渡されたのは良いのだが、慌てた我が妹は、俺の傘を間違って持って行ってしまったのだ。
(朱梨! 俺のお気に入りの傘、返して!?)
心のなかの叫びは、あいつの中学校に届くはずもなく。願わくば、雨が降る前に、家に帰り着く。ただ、それだけを祈った。赤髪、狐目の男が、ハートの傘をさす姿なんて、想像するだけでイヤだった。
「俺は可愛いと思うけどね?」
ニヤニヤ笑う、黄島を無視して、俺はつかつか歩みを進める。
「ちょっと、朱理? つれないじゃんかよ」
「うるせぇよ、お前は俺をからかって楽しんでいるだけじゃねぇか!」
「バレた?」
にぃっと黄島は笑みを溢す。俺が振り回した拳は、ものの見事に空振りをする。さすが、バスケ部の敏捷性は侮れない。そうは言いながらも、こんな俺に偏見なく付き合ってくれる、数少ない貴重な友人なのは間違いない。
「黄島が、この時間に下校なの珍しくないか?」
「今日は、練習はお休みだからね。キャプテンをデートに送り出してやったのさ」
「あぁ……」
納得してしまった。バスケ部のキャプテンのことはよく知っている。俺も、色々と気にかけてもらったから。彼は良いヤツなのだが――良いヤツすぎる。周囲を優先し過ぎて、自分を蔑ろにする傾向にある。こんな俺に、何の偏見もなく接してくれるのは、黄島やキャプテン以外にほんの数人だから。
きっとバスケ部員達は、キャプテンを見かねてデートに送り出したのだろう。なんとなく、その姿が想像ができた。
「そこに便乗するカタチで、俺も湊とデートとしゃれこもうと思って、ね」
「このリア充が!」
悪態をついてみせるが、黄島とその彼女の海崎なら納得なんだよな。みんなに愛されるカップルがいるとしたら、この二人だなぁって思ってしまう。正直、自分の容姿から人に好かれるなんて思っていないけれど、このお二人を見ていると、少し羨ましいって思ってしまう。ただ、なぁ――。
「朱理も一緒にする? 1 on 1?」
ニコニコ笑って、黄島は笑う。これ、だ。二人そろってバスケバカなのだ。デートと称して、暇さえあればバスケをしているバカップル。バスケップル。それが黄島彩翔と海崎湊というカップルなのだった。
「買い物して帰らないといけないんだよ。うちの事情、知っているだろ?」
「うん。でも、朱理のことキャプテンも待ってるから、ね?」
満面の笑顔で、黄島は言ってのける。
俺は肩をすくめて見せた。それが返答で、お決まりの会話へのピリオド。黄島はしかたないね、と言わんばかりに、苦笑を浮かべる。
「雨が降る前に帰れよ?」
「朱理も、ね」
ニッと黄島は笑う。俺は答えるかわりに、手をひらひらと振ってみせた。
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ぽた、ん。
小雨が落ちてきた。
しかし――これぐらいの雨なら、傘をささなくてもなんとかなる。小走りで、スーパーに向かおうとして、その足が止まった。
ぽた、ん。ぽたん。
泣くのを必死にこらえていて。でも、その目から涙が溢れている、女の子がいた。保育園児くらいだろうか。必死に泣くまいと、空にその顔を向けている。
無視しても良かった。
きっと、俺が声をかけたら、号泣される。カオが怖いと、ついたあだ名が紅鮫だ。終始、距離を置かれていたら、イヤでも自分の顔にネガティブになってしまう。
だけど――って思う。通り過ぎて、無視するのも違う気がした。
「大丈夫か?」
声をかけてから、後悔する。女の子が、俺の顔を見た途端に、ポロポロ涙を流してしまったのだ。
「ちが、お兄ちゃん、違うの。ありが、お兄ちゃん……」
そこから言葉にならず、嗚咽になる。
ぽたん、ぽたん。
雨足が強くなった?
女の子が、俺の顔を見た途端に、堰を切ったように、感情が決壊していく。やっぱり声なんかかけなければよかっ――。
「ちが、お兄ちゃん、違うから――」
そこから言葉にならず、彼女の声は嗚咽に変わる。
ぽたん、ぽたん。
雨が強くなる。
観念した俺は、傘を開いたのだった。
「お兄ちゃんの傘……かわいい?」
彼女は目をパチクリさせる。
どうやら期せずして、彼女の涙は引っ込んてしまったようだった。
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「……なるほどね。弟君ばっかり、お母さんはかまうのか」
「私だって! 私だって、一生懸命、お、お手伝いしてるのに! それなのに全然、お母さん、私のことを見てくれないんだもん!」
そう言うやいなや、また感情のスイッチが入ってしまったらしい。彼女の嗚咽がまた止まらなくなった。なんとなく分かる。きっと、この子のお母さんは、目の前の子育てで精一杯なのだと思う。お姉ちゃんに助けて欲しいって、どうしても思ってしまう。俺の母さんもそうだったから、目に浮かぶ。
――シュリ、お兄ちゃんでしょ?
今となっては嫌いじゃないし、かけがえのない時間だって思う。でも、この子がそれを理解するには、まだ幼すぎた。
(それに、コイツだって甘えたいよな――)
家を飛び出してきた、彼女の気持ちが分かりすぎるくらい、分かってしまったのだ。
同じように、家を飛び出した幼い時の記憶が重なるから。
そう思って、女の子の髪を撫でてあげようとした、その瞬間だった。
「うちの保育園の子を泣かせるなんて――高校生として、恥ずかしいと思わないの?!」
聞き覚えのある声が飛んできて、俺は目を丸くした。
「……花園?」
鉄の聖母というあだ名をつけれた、黒髪のクラスメート。接点も特になかった彼女が、仁王立ちで、俺のことを睨んでいたのだった。