3-2.
「心当たりはないの?」
透子の質問に、千寛は小首をひねった。
「心当たり?」
「どうして千寛くんの魂が真寛くんのからだに宿ったのか、なにかきっかけになるようなことは感じなかった? わたしの写真に写り込んだということは、千寛くんはずっと真寛くんのそばにいたんだよね?」
命を落とした日から、千寛の魂は真寛とともに祖母の家で過ごし始めたと語られていた。つまり、真寛は知らなかっただろうけれど、千寛は常に真寛のすぐそばにいたわけだ。火事の日から今日までずっと。
千寛は再び写真に目を向け、小さく息を吐き出した。
「僕はただ、真寛のことを見ていただけだよ」
「真寛くんと入れ替わりたいと思ったりしたことは?」
「まさか。思うわけない。生き残ったのが真寛で本当によかった、真寛が幸せに生きられたらいい……僕の願いはそれだけだよ。真寛は周りに求められる存在だからね。賢いし、優しいし、スポーツも得意だし、性格も前向きで明るい人気者。なんでもできちゃうスーパーマンみたいな人だから、みんなから頼りにされててさ」
「千寛くんは違うの?」
「全然違うよ。僕は一人でいるのが好きで、真寛みたいにみんなでわいわいやるのはあんまり得意じゃないんだ。リーダーシップも皆無だし、性格も真寛と違って前向きじゃない。ほんと、全然違う。不思議でしょ、双子なのに」
真寛の容姿でそんな話を聞かされるから余計にピンとこないけれど、下がりっぱなしの視線で語っているところから察するに、確かに千寛は真寛と違って、みんなの前に立って先頭を行くタイプではなさそうだった。
似てるな、と透子は思った。透子も同じだ。美弥の指示に従い、常に彼女の一歩後ろを歩くことに居心地のよさを覚えている。先陣を切れと言われたらパニックになるかもしれない。そういうことはずっと苦手で、だからわたしはピアニストに向いていないのだとつくづく感じる。舞台に立っても、自分の演奏に堂々と胸を張ることがうまくできない。
写真の中の真寛を、千寛はそっと指でなぞった。
「いつも真寛が僕の一歩前に立ってた。それでよかった。僕には心地よかったんだ。僕の苦手なことは全部真寛が引き受けてくれたから、僕は影に隠れていられた。火事のときも、僕じゃなくて真寛が助かった。神様が真寛を選んだんだよ。真寛がいなくちゃ、僕はうまく生きられないから。真寛なら、一人でも強く生きていける」
「そんなことない」
遮るように、透子は千寛の言葉を否定した。
「そんなこと、ないよ」
まっすぐに視線が重なる。千寛が驚いた目をして透子を見ている。
真寛なら大丈夫。真寛だから大丈夫。そう主張する千寛の言葉を退けずにはいられなかった。
お姉ちゃんは大丈夫。でも、透子は――。そうささやかれ続けた昔の自分と千寛の姿が重なって、無理にでも否定しなければつぶれてしまいそうだった。
それに、千寛を失った真寛が一人で強く生きられているとは思えなかった。千寛のいなくなった世界で、真寛は必死に自らを鼓舞して生きているのだ。
――上手に笑えてる。
あのときのつぶやきが物語っている。絶えることのない真寛の微笑みは、彼の努力の結晶なのだ。家族と死に別れて六年が経った今でも、真寛は意識的に笑っていようと心がけなければ笑えない。それほどまでに大きな喪失感と、拭い去れない悲哀をかかえ、彼は懸命に生きている。止まることを知らない時間の中で、たった一人で、千寛の分まで生きようとしている。幽霊になった千寛がすぐそばで見守ってくれていることも知らずに。
千寛が静かに席を立ち、その姿を透子は見る。千寛の表情は、意外なほどからっとしていた。
「僕、帰るね」
「え?」
「この状態が長く続くとは思えない。そのうち必ず、また真寛と入れ替わる。いつまでもここにとどまっているより、家にいたほうがなにかと都合がいいだろうから」
例の写真を手渡される。真寛の使っている黒いボストンバッグを肩に担ぐと、千寛は「じゃあね」と透子に言った。
「もう会うこともないと思うけど、久しぶりに生きた人間と話せて楽しかったよ。ありがとう」
千寛が扉に向かって歩き出す。不思議だ。真寛と同じ上履きを履いて歩いているはずなのに、今聞こえている千寛の足音は、この生徒会室に入ったときに聞いた真寛の立てる足音とはまるで違う。
「もし」
扉に手をかけた千寛の背中に、透子は少しだけ声を張って尋ねた。
「もし、明日になっても真寛くんと入れ替わっていなかったら、どうするの」
可能性はゼロじゃないはずだ。なぜ真寛のからだに千寛の魂が宿ることになったのか、そのメカニズムは明らかになっていない。どうしたらもとに戻れるのか、あるいはこの先もずっとこのままなのか、未来は誰にもわからないのだ。
透子は真剣に言ったのに、からだ半分だけ透子を振り返った千寛はからからと声を立てて笑った。
「あり得ないよ、そんなこと。このからだは真寛のものなんだから」
「どうしてそう言い切れるの。いつかまた真寛くんが戻ってくるんだとしても、その『いつか』がいつ来るかはわからないじゃない。今この瞬間かもしれないし、一週間後かもしれない」
「そのときはそのときだよ。学校なら風邪をひいたとか適当に嘘をついて休めばいいし、おばあちゃんのことだって、僕が真寛のフリをすればごまかせる。小さいころはよく真寛と入れ替わって、周りの大人たちをからかってきたからね。母さんはダメだったけど、父さんのことは騙せたんだ。大丈夫。僕にまかせて」
「でも」
「なにも心配することはないよ。真寛のことは僕が一番よくわかってる。僕は死んだ人間で、このからだは真寛のもの。必ず真寛は戻ってくる。明日にはもう、僕はいないよ」
千寛の浮かべた悲しげな表情に、透子はついになにを言うこともできなくなった。
千寛はちゃんと理解しているのだ。自分が死者であり、からだの持ち主は双子の兄の真寛であると。
本当なら、こんなことがあってはいけないのだ。死んだ人間の魂を生きた人間のからだに宿らせたって、死んだ人間は、自分がすでに死んでしまったことをより強く実感することになるだけだ。
「ごめんなさい。わたしがあんな写真を撮ったばっかりに」
「本当だよ。……なんて、冗談。きみのせいじゃない。気にすることはないよ」
千寛は笑顔だった。千寛が笑ってくれることで、胸の痛みが和らいでいく。
千寛なりの気づかいなのだ。どれだけ自分がつらい気持ちでも、透子が意味もなく傷つかないように笑顔を絶やさずいてくれる。
優しい人だ。千寛も真寛も。無条件に他人を思いやれる二人を、どうやったら嫌いになることができるだろう。
「じゃあね。今度こそ帰るよ」
透子に背を向けた千寛は、ひらひらと手を振り、生徒会室の扉をスライドさせた。一瞬のうちに見えなくなった千寛の背中を、透子は残像を目で追うように見つめ続けた。
もう二度と、千寛に会うことはできないのだろうか。
もしかしたら、明日になっても真寛の魂は戻らないかもしれない。このままずっと千寛の魂が真寛のからだに宿り続けるかもしれない。
都合のいい妄想だということはわかっている。千寛は言っていた。明日になったら千寛は消え、真寛の魂が戻っているはずだと。透子もそう思う。科学の発展した現代で、およそ現実とは思えない不可思議な現象がいつまでも続くはずがない。
千寛は六年前に命を落とし、本来ならば透子とは出会うことがなかったはずの存在だ。そんなことは百も承知で、現実を受け入れなければならない。
なのに、このまま千寛と二度と会えなくなるのがどうしても嫌だった。もう一度、あと一度だけでいいから会いたい。なぜそう思ってしまうことを止められないのか自分でもわからないけれど、心の中で千寛の存在がどんどん大きくなっていくのを感じる。
生徒会室の床を蹴り、透子は廊下へ飛び出した。あと少しで先の角を曲がっていってしまう千寛の背中に、ありったけの勇気を振り絞って声をかけた。
「千寛くん」
千寛は透子を振り返ってくれた。黙ったまま、透子の言葉を待っている。
「また、会えますか」
ろくに考えることもせず、正直な気持ちを口にした。どうしてもっと気の利いた言葉が出てこないのだろう。こんなセリフ、千寛を困らせるだけなのに。
透子の思いを断ち切らせる意図があるのか、千寛はどこまでも真剣な表情で言った。
「僕のことは、もう忘れて」
手も振らず、笑いもせず、千寛は廊下の角を曲がり、姿を消した。千寛なんて最初からいなかったかのように、透子だけが立つ廊下は冷ややかに静まりかえる。
忘れられるはずがない。さっきまで透子の目の前にいて、言葉を交わしていたのは真寛ではない。千寛だ。真寛の双子の弟。六年前に亡くなったはずの。
動悸が治まらなかった。足にうまく力が入らず、夢の中を漂うように全身がふわふわしている。
明日、新しい朝が来たら、千寛は消えているだろうか。
消えないでほしい。今日真寛とそうしたように、明日の朝、千寛に「おはよう」と言いたい。
どうしてだろう。真寛ではなく、千寛のことばかり考えてしまう。もう一度彼に会いたい。できることなら、真寛にも会わせてあげたい。
叶わない願いなのだろうか。なにかいい方法はないのか。
ふと、指先に感覚が戻った。右手には、千寛に手渡された写真。
不運な火事によって引き離された兄弟の今が写る、透子に不思議な時間を体験させてくれた一枚。
「もしかして」
一筋の閃光が脳裏を駆ける。透子は食い入るように写真を見つめた。
真寛のからだに千寛の魂が宿ったそもそものきっかけは、透子の撮影したこの写真だ。真寛のソロショットに、千寛の影が写り込んだ一枚。
つまり、生きた真寛の姿と、幽霊になった千寛の影を同じフレームの中に収めることができれば、魂の入れ替わり現象が起きるのではないか。オカルト要素が強すぎてさっぱり現実味はないけれど、まったくあり得ない仮説というわけでもないはずだ。現に二人の魂は、透子によって偶然撮影された非現実的な心霊写真を機に入れ替わっている。
二十枚以上撮った中で、千寛の影が写り込んだのはたったの一枚。狙ったわけではもちろんないので写り込みは単なる偶然に過ぎないのだろうけれど、二十分の一なら確率的には途方もなく小さいというわけではない。同じ確率で出現する保証はないものの、チャレンジする価値は大いにある。
父から譲り受けたニコンで、もう一度真寛を被写体にして撮影する。そうすれば、新たに千寛の影が写り込んだ一枚が撮れるかもしれない。千寛に会えるかもしれない。
真寛がそうしたように、透子も二人の写る写真を胸に抱く。
あと一度でいい。千寛に会いたい。透子だけでなく、真寛もきっと千寛に会いたいと思っているはずだ。血を分けた兄弟と生き別れ、うまく笑えないほど悲しくさみしい日々を過ごしているのだから。
明日になり、真寛の魂が戻っていたら、彼に相談してみよう。透子の立てた仮説が正しければ、千寛に会うためには真寛の協力が不可欠だ。
あるいは、透子よりもずっと頭のいい真寛のことだ。透子が思いつくプランよりも確実で賢いやり方を考えてくれるかもしれない。
心を奮い立たせるように、透子は「よし」とつぶやいた。真寛にリードしてもらえればまともに話すことができるけれど、自分から彼に話しかけるには相当の勇気が必要だ。
胸に抱いていた写真に目を落とす。
今はただ、もう一度千寛に会える未来だけを想像することにした。