表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
スワップ・スナップ  作者: 貴堂水樹
第一章 撮れるはずのない写真 〈透子〉
6/33

2-1.

 普段より三十分以上早い電車に乗ったら、見事に通勤ラッシュと重なってしまった。学生の姿はほとんどなく、ビジネススーツを身にまとったサラリーマンが車両の九割を占めている。

 あいている席はなく、透子は扉のすぐ脇に縮こまるようにして立った。目の前にいる巨漢のせいか、見えない圧がかかって今にもぺしゃんこにされそうだ。巨漢の羽織っているダークグレーのジャケットは前のボタンがはじけそうになっていて、車両が揺れるたびに震えるボタンがいつ自分の目をめがけて飛んでくるかとヒヤヒヤした。首筋に食い込んでいる白いワイシャツに汗染みができているのも気になる。えたようなにおいもするし、暑いなら上着を脱げばいいのにと何度も思った。ボタンをなくしてからでは遅い。

 そうやってわざとどうでもいいことを考えて、胸が異様なほどドキドキしているのをどうにかこうにかごまかしていた。すさまじい人混みと圧倒的な女性の少なさに最初は痴漢を恐れる気持ちもあったけれど、心臓が早鐘を打っている真の理由はそれではない。これから会いに行こうとしている人のことを思うと、緊張せずにはいられなかった。

 名璋高校では、生徒は朝七時三十分から校舎に入れる決まりになっている。真寛が毎日その時間に登校していることは多くの生徒が知っていた。勉強熱心な彼は、ひとけのない静かな教室で黙々と自習をしているという。美弥から聞いた話によると、彼は医学部進学を目指しているのだとか。

 背負っている黒いリュックの中には、昨日プリントしたくだんの写真が入れられている。オバケを含めた心霊現象全般が苦手な透子にとって、この件を話題にすることはできれば避けたいところだが、万が一、億が一にも、真寛がなにか悪い霊みたいなものに取り憑かれていたらいけない。やはり本人にはちゃんと伝えるべきだと判断した。ちょうど透子の家の近くに家族ぐるみで付き合いのある人が神主をやっている神社がある。そこでお祓いをしてもらったほうがいいと、透子は本気で真寛にすすめるつもりだった。

 電車を降りると、肌に心地よいあたたかさを感じる陽射しが街を包み込んでいた。日中には汗ばむくらいの陽気になると天気予報で言っていたけれど、この時間はまだ春の名残なごりを楽しめる涼やかな空気が流れている。

 午前七時四十分。校門をくぐり、二年四組の教室へと向かう。いつもなら無心で歩く廊下の床から、今日は足を踏みしめている感覚が返ってこない。

 口から心臓が飛び出しそうなほど緊張しながら、透子は教室後方の開きっぱなしになっている扉から中へと入った。教室の中央付近、たった一人で机に向かっている真寛の後ろ姿がまっすぐ目に飛び込んでくる。

 透子の気配に気づいた真寛が顔を上げ、あれ、というような表情で透子を振り返った。

「おはよう、蓮見はすみさん」

「おはよう、ございます」

 勢い余って同級生に敬語を使って挨拶をした透子を、真寛は茶化したりしなかった。いつもどおりの美しい微笑を浮かべたまま、「早いんだね、今日は」と言った。

「写真部にも朝練があるの?」

「いや、さすがに朝練は」

 だよね、と真寛はクスクスと楽しげに笑った。真面目な彼にも冗談を言うことがあるのだとはじめて知った。

 教室に一歩入ったところで立ち止まってしまう。あの話題をどう切り出そうか、あるいは、やはり黙ったままでいたほうがいいか。不快な通勤ラッシュを懸命にくぐり抜けてきたにもかかわらずここに来て心に迷いが生じ始め、観葉植物を演じるかのように教室の片隅で固まったまま動けない。

 そうしているうちに真寛は自習を再開していて、予期せぬ早朝の来訪者への興味はすっかり薄れてしまったようだった。ただでさえ手を止めさせてしまったのに、もう一度話しかけて彼の邪魔をする勇気はない。

 どうする。せっかく早起きして登校したのに。

 窓の外から、野球部の朝練の音が聞こえてきた。彼らの声で、ひらめいた。

 透子は窓側の自分の席へリュックを下ろし、相棒のニコンを手に取った。ストラップを首にかけ、音を立てないようにそっと構える。

 集中してノートにペンを走らせている真寛の横顔を左サイドからとらえ、透子はシャッターを切った。かすかな音でしかないはずの機械音は、二人きりの教室では想像以上に大きく響き渡り、結局再び真寛の手を止めさせることになってしまった。

 真寛は黙って顔を上げる。透子はファインダーから目を離し、頬が赤らむのを感じながら言った。

「やっぱり朝練をしようと思って」

 真寛の言葉と野球部のおかげだ。朝練。実際、朝にしか撮れない写真はいくらでもある。朝日が昇る瞬間。出勤前の大人たちがランニングに精を出している運動公園の風景。真寛が一人で勉強に励む早朝の教室もその一つだ。

 真寛は柔らかい笑みを透子に向けた。

「すばらしい心がけだね」

「ごめんなさい、勝手に撮って」

「かまわないけど、こんな姿が絵になるの?」

「もちろん。『学生のお仕事』みたいなタイトルをつけたら、それっぽくなるよ」

「なるほど。確かに、勉強は学生がもっとも力を入れて取り組むべき課題だからな」

「よかったら、もう二、三枚撮らせてもらってもいいですか」

「どうぞ。俺でよければいくらでも」

「ありがとう。わたしはいないものだと思って、自習、続けてください」

 了解、とさわやかに返して、真寛は視線を数学のテキストへ落とした。透子はそっと彼の正面へ移動し、座る真寛を正面からとらえるために中腰の姿勢を取った。

 カメラをかまえる。絞りをひねってF値を微調整し、背景のぼかし具合とピントの合った被写体とのバランスを整える。

 右手の人差し指をシャッターボタンに載せた瞬間、真寛の左手が机の上でピースサインを作った。あっ、と思ったときにはシャッターを切っていて、真寛がしたり顔になる。

「ちょっと」

「どうかした?」

「めちゃくちゃ意識してるでしょ、撮られること」

「えぇ、なんのこと?」

 真寛が真顔でとぼけてくる。透子は笑った。昨日も今朝もあんなに緊張していたのが嘘みたいに、自然な笑い声がこぼれる。

 教室内にさわやかな朝の風が吹き込んでくる。真寛が自習に戻り、透子がもう一度カメラをかまえると、別のクラスメイトが登校してきた。眠そうな顔で「おはよぉ」と言ったその男子生徒が大あくびする瞬間を、透子は逃すことなく激写した。撮られたクラスメイトは、つぶれたカエルみたいな顔と声で透子に文句を言った。

「うぇっ、なんだよ蓮見、隠し撮りか」

「ごめんなさい、朝練中で」

「見せて」

 真寛が席を立ち、透子のすぐ隣に歩み寄る。体温が一気に上昇するのを黙殺しながら、透子は今撮ったクラスメイトの写真を背面モニターに映し、真寛に見せた。口をあんぐりと開けているクラスメイトの姿に真寛は笑った。

「すごい顔だな。タイトルは?」

「『今起きたとこ』」

「ぴったりだ。いいセンスしてる」

 笑い合う二人の間を割り込むように、被写体になったクラスメイトが「おれにも見せろ」と近づいてくる。そうしているうちに次々とクラスメイトが登校してきて、何人かは透子と真寛のもとへと立ち寄り、一緒になって写真を見て笑った。

 次第ににぎやかになっていく教室の中心で、透子は真寛とともにいた。多くのクラスメイトは真寛が放つ見えない力に吸い寄せられて集まってきていたのだが、そうやって自然とできた輪の中に、当たり前のように透子も入っている。

 慣れない状況に透子は戸惑う。いつもはどうしても人見知りしてしまうから、みんなでわいわいやれることはあまりない。

 意味もなくそわそわしている透子のことなどおかまいなしに、私も撮って、とか、今年のクラス文集は蓮見さんの写真を表紙にしよう、とか、クラスメイトたちはどんどん話を転がしていく。彼らはなぜか真寛ではなく、首からカメラを提げた透子に興味津々のようだった。はっきり言って、透子は二年四組の中でトップクラスの影の薄さだ。そんな透子を真寛が放っておかなかったことが民意を動かしたらしい。女子生徒の一人からは「今日一緒にお昼ごはん食べよ」と誘ってもらった。嬉しかった。

 真寛の姿を、他のクラスメイトたちにバレないようにそっと探す。透子を囲む女子の輪から少し離れたところにできている男子の輪の中で、キラキラした笑顔を浮かべて談笑しているのを見つけた。

 知らないうちに視線が釘づけになっていて、透子は慌てて真寛から目をそらした。からだの内側からかぁっと熱いものが湧き上がって、胸の鼓動が、耳のすぐ横で鳴っているかのように大きく聞こえる。

 このドキドキからも目を背けていたくて、透子はクラスメイトたちの会話になんとか交ざり、うなずき、相づちを打ち、みんなと一緒になって笑った。そうやって気をそらそうとがんばっているのに、頭の片隅では真寛が微笑み続けている。

 考えないようにしようと、透子は固く目を瞑った。考えない、考えない。呪文のように自分に言い聞かせていると、誰かに右肩をたたかれた。真寛だった。

「蓮見さんってば」

「はい! あ、えっと……ごめんなさい」

 驚きのあまりしどろもどろになりながら謝る。またやってしまった。きっと何度も呼ばれていたに違いない。

 真寛は怒っていなかった。それどころか、心配そうに透子を覗き込んでくる。

「大丈夫?」

「はい、もちろん」

「そう。だったらいいんだけど」

「えっと……わたしになにか用事でしたか」

「そうそう。もしかして、俺になにか話があったんじゃないかなって思ってさ。だからわざわざ早い時間に登校してきたのかなって」

 すっかり忘れていた。例の心霊写真の話をするために、通勤ラッシュの苦行を耐え抜いたのだった。

 だが、時すでに遅し。始業五分前の予鈴がちょうど鳴ったところだった。それに、こんなにもわいわいがやがやうるさい教室で「心霊写真が撮れました」なんて話ができるはずもなかった。真寛になにか悪い霊が取り憑いているとか、透子は霊能者らしいだとか、根も葉もない噂が一瞬にして全校に流れてしまいかねない。

「ここじゃ言いにくいこと?」

 真寛が気づかってくれる。透子はこくりとうなずいた。

「あまりいい話じゃなくて」

「悪い話か。昨日の新聞部の取材の件?」

「うん。わたしの撮った写真のことで」

「写真? わかった。じゃあ、またあとでゆっくり」

 真寛が言い終えると同時に本鈴ほんれいが鳴り、透子は真寛にうなずき返して自らの席に着いた。

 リュックの中にひっそりと収まっているあの写真に写る影が、授業が始まっても、透子の頭から離れることはなかった。「心霊写真なんて」と、真寛が笑い飛ばしてくれればいい。

 そうだ。幽霊なんて。

 ましてや、まだこの世界にいる人の霊なんて、いるはずがないのだから。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ