1-3.
「ウブだね、透子ちゃん」
暇を持て余した高齢者たちや放課後の学生たちで店内はよくにぎわっていた。チョコレートサンデーの生クリームをパフェスプーンですくう美弥が、ニヤニヤと嬉しそうに透子を見た。
「顔赤かったよ、暁くんと話してるとき」
「そんなこと」
「ない? 嘘だね。緊張してるの丸わかりだったよ」
いいわけをするまでもない。なんなら今日の取材に同行することが決まったときから緊張しっぱなしだった。昼休みに第三音楽室でばったり出会ったことは予行演習にはならなかった。あの暁真寛の写真を撮る。そんなプレッシャーから解放されることは結局最後までなかった。
「同じクラスなんでしょ、暁くんとは」
「はい。でも、今日まで一度も話したことがなかったので」
真寛どころか、透子はほとんどの男子と言葉を交わしたことがない。男子に限らず、他人と話をすること自体あまり得意ではなかった。
今ごろになって、どっと疲れが押し寄せてきた。全校生徒からの憧れ、あるいは学校側からの期待さえも背負う人の写真撮影をまかされたのだ。新聞部の発行する学校新聞は生徒だけでなく教職員にも配られるので、少しでもいい写真を提供しなくちゃと余計に気を張ってしまった。シャッターを切る回数もいつになく多かったような気がする。
美弥におごってもらったミルクレープを一口頬張る。生クリームのほどよい甘みが口いっぱいに広がったけれど、同時に妙なほろ苦さも舌先に感じた。よほど疲れているらしい。
「しかし、本当にカッコいいよね、暁くんって」
美弥はぱくぱくと景気よくパフェの山を崩しながら、うっとりと目を細めた。
「あたし、名璋にかよい始めて三年目だけど、暁くん以上のイケメンにはお目にかかったことがないよ。完璧。なにもかもが。『天は二物を与えず』っていうことわざ、あれ、嘘だよね。天は彼に二物も三物も与えてるもん」
「わかります。まぶしいですからね、あの人。真正面からは見られない」
「そうそう。それでいて、ミステリアスとまでは言わないけど、どことなーくワケありっぽい感じもしない? 影がある、っていうか。ほら、あの子って誰に告られてもカノジョを作ろうとしないでしょ。それもさ、ひょっとしてなにか理由があるんじゃないかって思うんだよね。あたしのジャーナリストとしての勘がそう叫んでる。間違いない」
美弥は熱弁を振るったが、最後のほうは透子の耳にほとんど届いていなかった。
「影」
気にしたこともなかった。
透子に見えている暁真寛は、いつでもどこでもキラキラしていて、学年や男女を問わず誰にでも優しくて、彼の周りを友人が囲んでいない瞬間なんてないという、少女漫画のヒーローのような人気者だ。彼のまとう影の存在に気づいたことはないし、そもそも、そうした繊細な部分に気づけるほど真寛をじっくりと観察することが人見知りしてしまう透子にできるはずもない。
ただ、今の透子は違う。思い当たる節が一つだけあった。
さっき聞いた真寛の言葉が耳の奥で蘇る。
――ほんとだ。上手に笑えてる。
おそらくは無意識のうちに口から転がり出た言葉だろう。あれ、思ったよりうまく笑えてるな、と笑った自分を久しぶりに鏡に映して見てみた感想をつぶやくように。それはまるで、本当は上手に笑うことのできない人間なのだと自分を評価している人のように。
考えすぎかもしれない。けれど、あの一言を思い返した分だけ、そうした裏があるのではないかという疑念が大きくなっていく。自分勝手に。本当のことなんてなにも知らないくせに。
そうだ。彼のことなんてなにも知らない。今日が初対面みたいなものだったのだ。それをわたしは、なにも根拠なんてないのに――。
「透子ちゃん?」
美弥が「大丈夫?」と覗き込んできた。透子は慌てて取り繕うように笑ってうなずき、ミルクレープを口に運んだ。生クリームの甘みも、クレープ生地から漂うたまごの風味も、ぼんやりとしか感じられなかった。
「ねぇ、さっきの写真、もっかい見せてよ」
いつの間にかパフェを食べ終えていた美弥の要求にこたえ、透子は愛用しているデジタル一眼レフカメラを美弥に手渡した。美弥が取材直後に写真を見たがるのはよくあることで、これも彼女の新聞部の活動の一部だ。彼女は透子の撮った写真を純粋に楽しみつつ、同時進行で、記事の内容を頭の中で組み立てる。どんな記事に仕立てようかと、彼女の頭は今もフル稼働しているのだ。
「いつもながら、本当にいい写真を撮るよねぇ、透子ちゃんは」
写真をじっくりと見つめながら、美弥はしみじみとつぶやいた。気恥ずかしい気持ちもありつつ、褒めてもらったときにはいつも素直に「ありがとうございます」と返すようにしていた。
透子の写真の一番のファンは、実は美弥だったりする。写真部の活動の一環として毎年参加しているフォトコンテストで、去年透子の提出した作品が入選しなかったことに誰よりも怒っていたのは美弥だった。透子も美弥の積極性や人懐っこさに憧れており、先輩後輩の関係でありながら、二人は互いに尊敬し合えるよき友人でもあった。
熱心に写真を吟味している美弥の向かい側で、透子は握っていたフォークを皿の端に置き、下げた視線をあと二口ほどのミルクレープに落とした。今日は褒めてもらえる機会に二度も恵まれたのに、どうしてか気分は晴れなかった。
第三音楽室でのできごとを思い出す。何度弾いても重くなりすぎてしまう『ラ・カンパネラ』を、真寛は手放しに褒めてくれた。本当はもっと軽やかに、その上で苦しみや悲しみの激しい感情を表現しつつ、音の粒の一つひとつを際立たせた高い技術で観客を魅了することを求められる楽曲なのだ。透子の演奏はただひたすらに重苦しいばかりで、どうにも感情的になりすぎる。メロディーラインにまったく合っていないわけではないが、たとえばコンクールで高い評価を得ようと思うとかなり難しいだろう。
実際、透子がコンクールに出ていた頃の成績は、悪くはないが、ずば抜けてよくはなかった。優勝を飾ったことは一度もない。いつだって、あと一歩のところでてっぺんを逃し続けてきた。
原因は自分でもよくわかっていた。うまく弾こうと気負いすぎて失敗するのだ。譜面どおりに弾けないことは論外だが、そうではなく、表現の部分で思いどおりにならないことばかりだった。
舞台に立つとひどく緊張して、自分のピアノを見失ってしまう。頭の中が真っ白になって、自分が今ここでなにをすべきか、掲げてきた目標はなんなのか、それさえもわからなくなる。
わたしはピアニストに向いていない。そう強く感じた中学生の頃、透子はピアノをやめた。趣味として続けることや、父のように音楽教師になる道をすすめられもしたけれど、今のところどちらを選ぶつもりもなかった。どちらも、なりたい自分の理想像からは大きくかけ離れている。
「透子ちゃん、これ」
カメラで写真を見ていた美弥が、唐突に表情を変えて透子にカメラの背面モニターを見せてきた。透子はミルクレープの皿をテーブルの脇へ寄せ、やや身を乗り出してモニターを見る。
「ここ。誰か写ってない?」
美弥が見せてきた写真は、インタビュー中の生徒会長、真寛のソロショットだった。
透子は思わず息をのんだ。真寛一人が被写体であるはずのその写真には、美弥の指摘どおり、真寛の背後にもう一人、うっすらと人影が写り込んでいた。
その影はどう見ても、真寛本人に他ならなかった。
「ねぇ透子ちゃん、明るい部屋で普通に撮影してても、こんなヘンな写真、撮れちゃうものなの?」
「いや、ここまで派手にブレることは……」
透子は美弥からカメラを受け取る。市場に出回っているデジタルカメラのほとんどに標準搭載されている手ブレ補正機能は基本的に使わない透子だが、カメラの構え方などを工夫して、できる限り手ブレが起きないよう細心の注意を払って撮影に臨んでいる。それでもブレてしまうことはどうしても避けられないとはいえ、この一枚のブレ方は異常だ。
ブレたというより、真寛が二人写っているように見える。画面中央にはっきり写る真寛と、その後ろに寄り添うようにたたずむ半透明の真寛。よく見てみると、二人の真寛の表情は少し違うし、ポーズも一致していない。美弥のインタビューに応じる真寛は穏やかな笑みを浮かべていて、背後の真寛はその姿を心配そうに見つめている。そんな写真だ。
カメラを握る手が震えた。喉に嫌な渇きを覚え、生唾をのみ込む。
「透子ちゃん」
美弥がいつになく真剣な表情で言った。
「これ、心霊写真だよね?」
「ははっ、そんな、まさか」
「じゃあ透子ちゃん、この一枚になにか手を加えた?」
「いえ、なにも」
「ほらぁ!」
美弥はいよいよ椅子から半分腰を上げた。テーブルについた両手がガタン、と派手に音を立てる。
「絶対やばいやつだよ、これ! めちゃくちゃはっきり写ってるじゃん!」
そのとおりだ。通常の撮り方をしていたなら、ここまで大きくブレた写真が撮れるはずはない。
だから、この一枚は。透子は首を大きく横に振った。
認めたくない。小説でも映画でも、ホラージャンルは苦手だ。自らシャッターを切って撮影した一枚が心霊写真だったなんて、どう転んでも受け入れることなんてできない。受け入れられない。
「で、でも」
透子は入店時に提供されたコップ一杯の水を半分ほど喉の奥に流し込むと、必死に反論材料を探し、美弥に意見した。
「暁くんの後ろに写ってるの、どう見ても暁くん本人ですよね? 心霊写真なら、生きてる暁くんが写るのっておかしくないですか?」
「うーん、確かに」
ストンと腰を下ろした美弥は、難しい顔をして腕を組んだ。
「じゃあ、やっぱり透子ちゃんの写真の撮り方に問題があっただけ?」
「その言い方は解せないですけど、悪いのは百パーセントわたしでしょうね。こんな風にヘンになってるのはこの一枚だけみたいですし、連続でシャッターを切ったタイミングが何度かあったので、ブレちゃったんだと思います」
「そっかぁ。まぁ、普通に考えたらそうだよね。このご時世に心霊写真なんて、ねぇ?」
ですよね、と透子も美弥に倣ってカラカラと笑う。真寛の言葉ではないが、この引き攣った笑みはとても「上手に笑えてる」とは言えない。
それはともかく、一昔前ならいざ知らず、いろいろなことがデジタル化された現代で心霊写真の存在を本気にする人はごく少数だろう。心霊写真現象のほとんどは写真の現像時におけるなんらかのミスが原因だと明らかにされているし、フォトショップなどのデジタルソフトを駆使してねつ造できることも今や一般常識だ。
カメラを胸に抱くようにして、透子は静かに背面モニターを伏せた。
この写真が美弥のつくる新聞の記事に使われることはないだろう。削除して、最初からなかったことにすればいい。
頭ではわかっているはずなのに、透子にはどうしても、この一枚を今ここで削除してしまうことができなかった。なぜだかわからないけれど、見えないなにかに肩をつかまれているような気がしてならない。
一度プリントアウトしてみよう。現像したらやっぱり写っていなかった、なんてオチが待っているかもしれない。それならそれでいい。そうじゃなかったときは――。
どくん、どくん、と心臓がやけに大きな音を立てて跳ねる。
足先からじわじわと這い上がってくる恐怖と、ほんの少しの好奇心、それから、先ほどまで目と鼻の先にあった真寛の美しい微笑が、透子の腹の中でぐるぐると渦を巻いて混ざり合う。
一刻も早く家に帰って印刷しよう。透子は残りのミルクレープをかき込むように平らげ、美弥とともに店を出た。
地下鉄で三十分をかけて家に帰り、流れるように「ただいま」と誰にともなく挨拶をして、まっすぐ二階にある自分の部屋へと駆ける。パソコンとプリンターを立ち上げると、さっそくくだんの写真をプリントした。
「嘘でしょ」
プリンターから吐き出された一枚を手にした透子は、そうつぶやかずにはいられなかった。
現像された真寛のソロショットにはやはり、背景を透過したもう一人の真寛の姿がはっきりと写し出されていた。