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定刻通り、午後二時から生徒会主催の音楽会『第三音楽室のためのプレリュード』が始まった。想定よりも客入りがよく、後方には立ち見の観客がいるほどだった。
会のオープニングを飾る最初の出演者は吹奏楽部三年生によるアンサンブルで、フルート、ファゴット、クラリネット、アルトサックス、トランペット、ホルン、ティンパニーと、それぞれが三年間吹奏楽部で担当してきた楽器を持ち寄って結成した小さな音楽隊といった雰囲気だった。この音楽会ではピアノとの共演が必須であったため、弾ける部員が交代でピアノの演奏を担当していた。
『ルパン三世のテーマ』、映画『となりのトトロ』のオープニングテーマで知られる『さんぽ』など、キャッチーな選曲で会場を大いにあたためた三年生たちに盛大な拍手が贈られると、主催者である生徒会を代表して、千寛扮する生徒会長・暁真寛から客席に対し挨拶が述べられた。この音楽会が催されることになった経緯や募金のお願いなど、要点を簡潔にまとめた短い挨拶だったが、客席からはあたたかい拍手が贈られた。特に最前列を陣取っている暁真寛ファンの女子たちは目をキラキラと輝かせながら千寛の演説に耳を傾けていた。
続いて音楽会は合唱部による演奏に移る。男子三名、女子十名と少人数で活動する合唱部だが、こちらも馴染みのある合唱曲『翼をください』『時の旅人』の他、近年のヒット曲であるDISH//の『猫』を混声三部合唱用にアレンジしたものを歌うなど、美しい歌声で会場を魅了した。
二組の演奏が終わると、いよいよ透子と千寛の出番である。息をするのも忘れるくらい肩に力が入ったまま、透子は司会役の紹介を受け、千寛とともに聴衆の前に立った。
後ろのほうの席から「透子!」と声をかけられる。父だった。恥ずかしげもなく「真寛くん!」と呼んでもいて、あろうことか千寛は父の声に余裕の笑顔で手を振り返している。
何人かの観客が首を後ろへ捻って父のことを見ている。ダメだ。極度の緊張に恥ずかしさが上乗せされ、透子は顔を下げたまま動けなくなった。
「透子」
凍りついたように直立している透子の左耳に、千寛の穏やかな声が届いた。その優しいささやきで我に返り、ようやく透子はおずおずと顔を上げた。
視線を左隣に向けると、千寛が微笑んでくれた。大丈夫。いつもどおりにやろう。彼のあたたかい眼差しは透子の背中をそっと押してくれるようだった。
そうだ。やらなくちゃいけない。
せっかく千寛が用意してくれた舞台なのだ。ピアノとともに生きていく道を選ぼうとしている透子のために、一歩大きく踏み出すきっかけを与えてくれた。
ここでやれなきゃ、どこへ行ってもダメな気がした。今は千寛が隣にいてくれるけれど、プロになったら一人で、あるいはバックにオーケストラを背負ってステージに立たなくてはならない。尊敬する姉のように、堂々と。
大切にしなければならない。千寛が与えてくれた時間を。千寛が隣で支えてくれるこのステージを成功させられなければ、一人でなんてとてもじゃないが戦えない――。
千寛の微笑みにうなずいて返し、透子はまっすぐ客席に顔を向けた。一人一人をじっくり見つめるように会場を見回してみると、クラスメイトや写真部の仲間たち、それから美弥がこちらに手を振る姿を見つけることもできた。
大丈夫。知らない人ばかりだけど、みんなの心をきっとつかんでみせる。千寛くんと一緒に。
二人揃って、客席に対しお辞儀をする。あたたかい拍手に包まれる中、透子はピアノの向かって右側に、千寛は左側に座った。
「いける?」
千寛から最終確認の声がかかる。こたえる透子の声にはもう、一分の迷いもなかった。
「大丈夫」
「よし。楽しんで弾こう」
二人による四本の手が鍵盤に覆いかぶさる。会場じゅうが居住まいを正し、ただよう空気が色を変える。
練習どおり、呼吸を合わせる。同じタイミングで息を吸い、完璧にそろえた互いの一音目を同時に奏でた。
千寛の奏でる軽快で正確なリズムの上に、透子がこちらもリズミカルで走るようなメロディーラインを乗せていく。ヨハネス・ブラームス作曲『ハンガリー舞曲第五番』。テレビ番組やCMなどでたびたび流されるなど、誰もが一度は聴いたことのあるメロディーはオーケストラでの演奏が有名だが、もともとはピアノの連弾のためにつくられた楽曲だ。
疾走感のある序盤を過ぎると、途端に演奏速度を落として曲が止まりそうになる。そうかと思えば再び高速でメインのフレーズを奏で出し、また極端に速度が落ちる。
速く弾いてはゆっくり弾き、ゆっくり小さく弾いては一気に速度とボリュームを上げて曲を隆起させる。こんな具合に、この楽曲は緩急のうねりがとにかく激しく、二人で呼吸を合わせないとすぐに演奏が崩れてしまう難曲だ。軽やかな指の動き、ブレることのないリズム感、ドラマチックな演奏に仕立てるための強弱のつけ方など求められる技術も総じて高く、練習では二人で何度も話し合いを重ね、ここはこう弾こう、こっちはこう、と二人なりのアレンジを考えながら完成させた思い入れの強い一曲だった。
相変わらず音の歪みがひどいグランドピアノで、三分弱という短い演奏を走りきる。最後の和音を千寛と重ね、鍵盤から指を離すと、客席から大きな拍手が寄せられた。
胸の鼓動が大きくなる。緊張ではなく、嬉しさのせいだ。まずは一曲、トラブルもなく乗りきれた。透子は客席にバレないように安堵の吐息を小さく漏らした。
二曲目はクラシックから離れ、ディズニーの名曲『ホール・ニュー・ワールド』を演奏した。千寛がアラジン、透子がジャスミン。身分の差がありながら恋に落ちた二人が魔法の絨毯に乗って見る甘い夢を、ときに大胆に、ときに繊細に、抑揚を大きくつけて歌い上げるように奏でていく。
静かに幕を下ろした二曲目にもあたたかい拍手を贈ってもらった。二人の音色にうっとりと聞き惚れた客席から丸みを帯びたため息が漏れたのがかすかに聞こえる。心に響くものがあったのなら、それ以上幸せなことはない。
次がいよいよラスト、この音楽会を締めくくる演奏となる。最後は再びクラシックに戻り、ピョートル・チャイコフスキーによって編まれたバレエ組曲『くるみ割り人形』から、大手携帯電話キャリアのCMでおなじみの『葦笛の踊り』を含む四曲を続けて演奏する。一曲あたりの演奏時間が二分前後と短い上に、どれも有名な曲なので観客はきっと「あぁ、この曲か」という反応を見せるはずだ。
左隣をそっと見やる。透子の視線に気づいた千寛がまっすぐ目を合わせて微笑んでくれる。
その姿を見て、透子はかすかに息をのんだ。透子の視線が、千寛の背後に釘づけになる。
千寛のすぐ後ろ、左肩よりも少し上。生徒会室ではじめて撮れた不可思議な影と同じように、千寛とまったく同じ顔をして笑う少年の姿がうっすらと透子の目に映る。
真寛だ。千寛の隣に、真寛がいる。
一瞬ドキッとしたけれど、そっか、と透子は柔らかな笑みをこぼした。やっぱり真寛は、いつだって千寛のそばにいてくれるのだ。
だとしたらなおのこと心強い。一人より二人、二人より三人。手を取り合って、力を合わせて、この音楽会を成功させる。心霊現象だって、正体が真寛とわかれば怖くない。
透子が鍵盤に手を載せる。一曲目の『行進曲』は透子の演奏から始まる。
タイトルのとおり、兵隊たちが足並みを揃えて行進するのに最適なテンポとリズミカルな曲調で演奏がスタートする。千寛の低音が加わると、より音楽性の増したドラマのある楽曲へと変化していく。
透子の左手と千寛の右手が限りなく近づき、ときおり交差して互いの音を奏でる。二人の奏者の距離が近いこうした演奏法こそ連弾の醍醐味で、二台のピアノを使うピアノ二重奏とはひと味違った一体感、二人で一つになれることをより深く感じられる瞬間だ。
『葦笛の踊り』、ゲーム音楽として使われることもある『金平糖の精の踊り』とスローテンポな曲を続けてしっとりと聴かせると、最後は運動会の定番曲として名前が挙がることもある『トレパーク(ロシアの踊り)』を疾走感と爽快感あふれる演奏で駆け抜け、ラストは最高潮の盛り上がりを見せた。
演奏が終わる。割れんばかりの拍手が第三音楽室に響き渡り、透子も千寛も晴れやかな笑みを湛えてピアノを離れ、観客に深く頭を下げた。
二人で立ったはじめての舞台。肩を寄せ合って立つ二人の手は、この先も決して離れることのないよう、強く、固くつながれていた。




