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例年、名璋高校の文化祭は九月の第二土曜、日曜に開催される。九月の第二週はほとんど授業がなく、木曜日には体育祭、金曜日には文化祭の最終準備と、生徒たちは年に一度の学校祭に向けた活動に専念できるようになっている。
多くの進学校がそうであるように、学校行事のスケジュールはおおむね大学受験を控える三年生への配慮を優先して設定され、三年生にとってはこれが最後の学校行事だ。つらく苦しい受験シーズンを踏ん張り、乗り越えるためにも、この一週間でめいっぱい高校生活を楽しんでおこうという意味合いも込められた日程だった。
文化祭一日目。年々残暑が厳しくなっていき、秋の入り口を隠すように燦々と降り注ぐ陽射しの下、透子はクラスメイトとともに中庭を練り歩いていた。『二年四組 マゼランと世界一周の旅』というクラス展示の宣伝パネルを掲げ、「ゴールでカステラ配ってまーす」と声を張り上げる客寄せ係だ。三つに分かれたグループがそれぞれ組まれたシフトどおりに係を分担し、交代で文化祭を楽しめるようになっている。
透子のクラスでは教室内を巨大迷路に仕立て上げ、無事にゴールできた客にはマゼランの出身地であるポルトガルが発祥といわれるカステラを記念品として配布している。千寛扮する生徒会長の真寛が提案したとおり、遊び心あふれるアトラクション性と学びを融合した展示を目指し、マゼラン一行が成し遂げた世界一周の船旅をモチーフに据えた迷路をクラス全員で作り上げた。分岐があったり、三択クイズが待ち受けていたり、諸外国の民族に襲われたりとイベント盛りだくさんの展示はなかなか好評で、廊下には常に客が列を為しているという盛況ぶりだった。
「透子ちゃん、そろそろ時間じゃない?」
隣を歩いていたクラスメイトが声をかけてくれる。午後一時二十分。一時半に三号棟の第三音楽室へ行かなければならないが、できるだけギリギリに行きたい気持ちがクラスの係を抜けるタイミングをどんどん遅らせていた。
透子はこのあと、生徒会主催の音楽会に出演する予定になっている。今年度の学校祭では『初』という冠のつく企画がいくつかあり、音楽会もその一つだ。開演時刻は午後二時、場所は第三音楽室。音楽会のタイトルは『第三音楽室のためのプレリュード』。命名者は千寛だった。
プレリュードとは前奏曲という意味を持つ言葉で、第三音楽室の利用価値を改めて考えよう、第三音楽室をこれからはもっと活用していこうという、生徒会の、主に千寛の強い意思で企画された催しだった。入場は無料だが、会場である第三音楽室には募金箱を設置し、音程が狂いまくっているグランドピアノの調律費、扉の鍵の交換費など、第三音楽室の設備管理費に対する心ばかりの募金を集める。
要するに、この音楽会はチャリティーコンサートなのだ。集まった募金でピアノを調律し、駅や空港に置かれた誰もが自由に弾いていいピアノのように、ゆくゆくは第三音楽室をそうした自由にピアノを弾ける空間に作り替えることが千寛の目標で、ピアノを通じた生徒同士の交流の場になればいいと彼はこの企画を立ち上げたときに話していた。企画書を作っている段階から透子はその話を聞かされていて、賛同者の一人として協力することになったのだった。
……というのは、実は建前だったりする。千寛の真の狙いは、透子の演奏を誰かに聴いてもらうというところにあった。
音大受験を決意して数ヶ月。夏休み中には千寛と二人でオープンキャンパスに出向くなど少しずつ受験する大学を絞り始め、日々の練習のかいもあり、かつての実力を取り戻しつつあった透子だが、本番に弱いというメンタル面の強化トレーニングだけは手つかずのままだった。
父や千寛など慣れた人の前ではうまく弾けても、幼少期のように、発表の場に立てばまたきっとうまく弾けない。大学受験での実技試験でも同じことだ。見知らぬ試験官の前で百パーセントの力を出しきらなければならないたった一度のチャンスを、メンタルの弱さを理由にふいにしてしまうのはあまりにも馬鹿馬鹿しいとわかっているのに、そうなる未来しか見えない今の自分がふがいなくて仕方がなかった。
そうやって弱気になっていた透子に手を貸してくれたのはやはり千寛だった。「だったら、人前で演奏する機会を作ればいいんじゃない?」。生徒会長の鶴の一声で、千寛はあっという間に音楽会の企画を通してしまった。もちろん、透子をその主役として位置づけることも抜かりない。
クラスメイトと別れ、体育館の女子更衣室でクラスTシャツから制服の白いブラウスに着替えてリボンをつけると、透子は一人第三音楽室へと向かった。ピアノの発表会らしく、髪型は両サイドを編み込んだハーフアップスタイルに整えている。この手のセットは母の得意分野だった。幼い頃から透子や姉の髪はいつも母がきれいに結んでくれていた。
いつもは一階以外にはひとけのない三号棟も、今日は二階の物理室と化学室で中学生に向けた学校説明会が開かれている。セーラー服や学ランに身を包んだ中学生と階段ですれ違いながら四階を目指すと、上がりきったところで透子は目を丸くした。第三音楽室の前では、すでに多くの観客が列を作っていた。
慌てて音楽室の中にすべり込むと、グランドピアノの前に立った千寛が「やぁ」と言いながら片手を挙げた。
「遅かったね」
「ごめんなさい。遅刻?」
「いや、ギリギリセーフ」
千寛は余裕の表情を浮かべている。まるで自分はただの企画者だと言いたげな微笑みだが、彼にもこの音楽会では出番がある。透子とともに、会の最後で一台のピアノを二人で演奏する連弾を披露するのだ。
透子たちの他にも出演者はいて、吹奏楽部の三年生によるアンサンブルと合唱部による演奏が予定されている。それぞれ持ち時間は二十分ずつ、計一時間のコンサートで、演奏には必ず第三音楽室のピアノを使用することを出演条件とし、千寛が各部活動の部長に直接オファーを出して実現させた音楽会だった。
「すごいね、お客さん」
透子はかすかに声が震えるのを感じながら千寛に言った。名璋高校の生徒や教職員はもちろん、学校説明会帰りの中学生の姿も見かけた。私服の一般客は出演者の保護者だろうか。透子の両親も応援に来てくれると言っていた。
「暁先輩のファンばかりですよ」
そう透子に耳打ちをしたのは生徒会執行役員の一年生で、左腕に千寛と同じえんじ色の腕章をつけた女子生徒だった。生徒会が主催する音楽会ということで、彼ら生徒会の一年生が運営係として音楽室に控えていた。
「早い人だと、一時よりも前から並んでましたからね」
「えぇ、本当?」
「はい。一番前の、一番見やすい席をどうしても確保したいみたいで」
言われてみれば確かに、列の先頭を陣取っていたのは赤や紫などそれぞれのクラスで制作したクラスTシャツを着た名璋高校の女子生徒ばかりだった。一年生だろうか。あの暁真寛がピアノを弾くという話は瞬く間に全校を駆け抜け、案の定、暁真寛のファンを自称する女子生徒たちが第三音楽室に大挙してきたというわけだ。
「さすが暁くん……ものすごい集客力」
「やめろってば」
もともとは目立つことが好きではない千寛が恐縮して首を振る。学校では真寛を演じ続けているはずなのに、ピアノを前にすると途端に本来の自分、千寛の片鱗が頭を出してくるからおもしろい。
「なんで僕がこの会の主役みたいになってるんだよ。僕は透子に頼まれて出るだけの助っ人なのに」
「あきらめてください、暁先輩」困り顔の千寛の肩をたたきながら生徒会の後輩が言う。「あなたほど有能な客寄せパンダは他にいません」
「誰が客寄せパンダだ」
演奏の準備をしていた吹奏楽部の三年生や合唱部の面々が笑い声を上げる。和やかな雰囲気の第三音楽室の中で、透子だけがこわばった表情を浮かべていた。
ちらりと入り口を振り返る。列を為していた観客たちのことを思い出す。
まだなにも始まっていないのに、緊張で倒れそうになっていた。出番は一時間以上先で、今からこんな風では本番までとても持ちそうにない。
千寛がこの音楽会を企画した当初、千寛の出演予定はなかった。吹奏楽部、合唱部、そして透子のピアノの三部で構成されていたところを、「わたし一人じゃ演奏会を開く価値なんてない、千寛くんも一緒に出て」と透子が頼み込んで千寛にも出てもらうことになったのだ。
とはいえ、どうせなら連弾にしようと言ったのは千寛だったし、選曲も千寛が積極的に意見を出して決まった。練習だってノリノリでやっていたのに、ここに来て主役は透子だと主張する。ズルい、と透子は心の中で千寛を恨んだ。観客だって、千寛の出演がなければこんなにも集まらなかっただろうに。
「大丈夫?」
千寛に左肩をたたかれる。右耳の聞こえが悪いと知られてから、彼はいつも透子の左側に立つことを意識してくれていた。連弾でも、透子が右側に座って高音部を担当する第一奏者、千寛は左側の低音部を担当する第二奏者だ。曲によっては第二奏者がメインのフレーズを弾くこともあり、今回の二人の演奏でも千寛にスポットが当たる場面は少なくない。
「緊張してるね」
「うん……」
それ以上言葉が出てこない。他の出演者たちはどのクラスの展示がおもしろかったかなど文化祭の話題に花を咲かせているというのに、透子と千寛の間にはゴワゴワした空気が流れている。透子が緊張しているせいだ。
「ちょっと外に出ようか」
千寛が手を取ってくれる。「冷たっ」と即座にこぼれた千寛の本音のとおり、外気温が三十度を超える日だというのに透子の指先は氷のように冷たくなっていた。本番までにあたためておかないととても動かせそうにない。
生徒会の後輩に「四十五分になったらお客さん入れて」と指示を出した千寛とともに第三音楽室を出る。手をつないだままだったせいか、列の先頭にいた一年生の女子生徒たちににらまれた。吹奏楽部か合唱部の部員の保護者と思われる母親たちが「まぁ、カッコいい子」「イケメン」と千寛を見てささやく声も聞こえてきた。千寛に対する期待を肌で感じ、彼と同じ舞台に立って一緒にピアノを弾くことにだんだん引け目を感じてきた。
「わたし、やっぱり無理かも」
つい弱音が口を衝く。「大丈夫だよ」とこたえてくれた千寛の声は、真寛を演じているときのそれではなく、ちゃんと千寛自身の声だった。
「いつもどおり弾けばいいだけだ。お父さんも聴きに来てくれるんでしょ? 普段のレッスンみたいに、お父さんにだけ聴かせるくらいのつもりでいればいいんだよ」
「だけど、失敗するかもしれないし」
「バレないって、ちょっとくらい弾き間違えたって。あのピアノはもともと音がよくないんだ。なにが正しいのかなんて、聴き慣れない素人にはわからないよ」
一つ階を下って三階にやって来る。ここではなんのイベントもおこなわれておらず、一般客だけでなく生徒たちも今日は立ち入り禁止の区域とされている場所だ。
『立入禁止』と書かれた札がぶら下がるロープを二人でくぐり、千寛は透子とまっすぐ向き合って立つ。冷えきった透子の両手をしっかりと握り、澄んだ瞳で透子を射貫くように見つめた。
「自分一人が満足できる演奏を目指すだけじゃ意味がない。きみの演奏を誰かの心に響かせて、感動させてこそピアニストでしょ」
「千寛くん」
「大丈夫。僕が保証する。透子のピアノはたくさんの観客を魅了できる。絶対にね」
「でも……」
「ほら、言ってみてよ。大丈夫って」
透子の手を握る千寛の手に力が入る。
「真寛が教えてくれたでしょ。言霊は、人智を超えた神秘の力なんだって。口に出せば、願いはきっと叶うんだって」
開け放たれた窓から穏やかな風が吹き込んでくる。
言霊。生前の千寛の兄が好んで使っていた言葉だ。信じる気持ちを増幅させる、幸運を呼び込む魔法の言葉。
胸の奥でくすぶる勇気を呼び起こし、奇跡を起こす手助けをしてくれる、魂の叫び。
「……大丈夫、わたしなら」
「そう。透子なら大丈夫」
二人でいい音楽会にしよう、と千寛は笑って透子の頭をなでてくれた。千寛からのこうしたスキンシップにもようやく慣れて、不格好ではあったけれど、透子もようやく微笑み返すことができた。




