2-2.
「透子はやっぱり、お姉さんと同じ大学へ行くつもり?」
一口に音大と言っても、国立の芸術大学から私立の音楽大学までいろいろある。学部、学科もまたしかりで、演奏家を目指すコースはもちろん、たとえば作曲家を目指すコース、その中でも映画などの映像コンテンツにおける音楽制作を専門に学べるコースなどを設けている大学もあり、試験科目も大学によって特色があるため、本気で受験を考えるなら早いうちに詳しく調べ、ある程度の的は絞っておかなくてはならない。
「行かないよ」
透子はさっぱりとした口調で答えた。
「むしろ、お姉ちゃんと同じところは嫌。じゃあどこへ、っていうのはまだ決まってなくて、この人のもとで学びたいなって思える先生のいる大学が見つかったらいいなーって思ってるくらいかな、今のところは」
うなずきながら、透子はひとまず演奏家の道を目指すつもりなのだなと察する。それだけクラシックが好きなのだ。情熱を注げるものとすでに出会えている彼女をうらやましいと思う人もいるだろう。クラスメイトの戸部明人なんかはきっとそうだ。彼はよく「やりたいことも行きたい大学も見つからない」と嘆いていた。
「千寛くんはどうするの?」
今度は千寛のほうが質問された。校門がすぐ目の前に迫っている。
「行きたい大学、見つかってる?」
「全然。今はまだピアノの基礎を作り直すことで精いっぱいって感じ。それに、僕の場合は特待生制度があるとか、奨学生としてかよわせてもらえる学校とか、そういうところじゃないとやっぱり難しい気がしてて」
医学部にせよ音大にせよ、なぜか千寛の選ぶ道はどれも金銭面での負担が大きいところばかりだった。六年前の火災事故で千寛が相続した家族の遺産は相当な額があるらしく、祖母はさりげなくそのことを匂わせながら「学費のことなら心配いらないよ」と言ってくれてはいたものの、一般的に高額な学費がかかることが知られている進学先を選ぶ以上、少しでも家計の負担にならないような道を選択できるに越したことはない。家庭の事情で夢をあきらめざるを得ない人がいる中、希望する未来を自由に選ばせてもらえる環境にいるだけでもありがたいと思わなければならない。
「でも、そういう学校もあるんでしょ?」
透子は努めて純粋な好奇心といった風に尋ねてくれる。「あるよ」と千寛は素直に答えた。
「私大だけど、特待生入試をやってくれるところがいくつかあった。ただ、僕の場合は音高出身じゃないし、コンクールなんかでの実績もないから、小論文と面接だけでどこまで勝負できるか」
「奨学金を借りられるところは?」
「それはどこでも同じだよ。特に僕は両親ともいないから、無利子で借りられるものもあるしね」
「だったら、今は純粋に千寛くんの行きたい大学を探すのがいいんじゃない? お金のことはひとまず脇に置いておいて」
まぁね、とあいまいに返しながら、そういうわけにはいかないんだと心の中だけで思う。多額の金をかける以上、中途半端なやる気や憧れだけでは進学できない。透子とは違い、千寛にはプロの演奏家になるつもりはないのだ。むしろ奨学金を借りたほうが勉強に熱も入るだろうし、最初からそれを念頭に置いておけば学部選びもより慎重になるはずだと判断した部分も少なからずあった。
「実は一つ、気になっている専攻分野があってね」
「ピアノ関係で?」
違う、と千寛は首を振る。
「いくつかの大学で、音楽療法っていう分野を学べることがわかったんだ」
「音楽療法?」
「そう。音楽を利用して心やからだの障害に対する機能回復を図ったり、認知症の進行を予防したり、子どもの心身の発達を支援したりする、病院や介護の現場で実際に取り入れられている治療法があるんだって」
へぇ、と透子は関心を示す相づちを打つと、すぐに「あっ」と声を上げた。
「それってもしかして、真寛くんの……?」
「そうなんだ。真寛は医者になるのが夢だったでしょ。形は少し違うけど、僕が音楽を通じて医療の道に進めたら、僕たち二人の夢が同時に叶うんじゃないかなって思ったんだよ」
特定の大学で、特定の単位を修めることで得られる音楽療法士という資格があれば、リハビリテーションの一環として音楽療法を取り入れている医療現場でその知識をいかすことができるという。これなら音楽と医療を両立させることが叶い、ほんの少しだけでも、真寛の願いに近づけるような気がしたのだ。
「素敵」
青々とした葉のきらめく桜の木の下で、透子は葉の隙間からこぼれてくる朝の光に目を輝かせ、声をうんと弾ませた。
「真寛くん、きっと喜ぶよ」
「だといいんだけど。ただ、音楽教育を学ぶ道もまだ完全には捨てきれなくて」
「もともとの夢はそっちだもんね。ピアノの先生になること」
「うん。きみのお父さんに話を聞かせてもらって、学校で音楽を教えるのも悪くないかなって思い始めてもいるし」
ピアノが好き、という気持ちから派生したさまざまな想いの芽が、それぞれの方向に枝を伸ばし始めている。大学に入ってから選び直せる進路もあれば、入り口の時点で他の選択肢を切り捨てなければならない道もある。演奏家になりたいと願う透子とは違い、千寛にはまだどのような形で音楽と生きていこうか、しっかりと見定めることができなかった。
「こういうとき、真寛ならどうするかな」
校舎に向かって歩き出しながら千寛はつぶやく。昔からそうだったわけではないが、ここ数年、こうして真寛の考え方に頼る生き方がデフォルトになっていて、今もつい真寛のことを頭に思い浮かべてしまった。といっても、そもそも真寛は迷っている姿をあまり見せたことがなく、直感で生きているようなところのある男だったから、たいして参考にはならないかもしれない。
ねぇ真寛、きみはどう思う――。
今日もすぐそばに彼がいてくれることを願い、心の中で尋ねてみる。そうだな、俺なら――。
「オープンキャンパスとか、行ってみたら?」
真寛から回答を得るよりも早く、透子が一つの案を出してくれた。
「実際にかよってる先輩の話を聞けば、大学選びのヒントくらいはもらえそうじゃない? 訊きにくいかもしれないけど、お金の話を教えてくれる人もいるかも」
「確かにね。調べてみるか、オープンキャンパス」
「資料も一度見てみない? わたしもまだ、具体的にどこの大学にするのか決められてないし」
昇降口から二号棟の校舎へと入り、靴箱でスリッパに履き替えながら、透子はどんどん話を先へと進めていく。
「家からかよえる範囲にどんな大学があって、どういう学部でどんなことが学べるのか。どの先生が教えてて、どんな制度があるのか」
「そうだね。けど、うちの高校に置いてあるかな、音大の資料なんて」
進学校というだけあり、二人のかよう名璋高校の進路指導室には大学受験をはじめとした進学に関する資料が大量に収められている。教室は二つの空間に分かれ、扉を入ってすぐ手前の部屋が資料室、その奥、一枚の扉で行き来できるもう一室は三年生だけが利用できる自習室になっている。
「あるんじゃないのかなぁ」
透子は根拠なくそう言ったわけではなく、理由に心当たりがあったようだ。
「ほら、うちの高校って吹奏楽部が強いじゃない。顧問の浅田先生、昔はプロのトランペット奏者だったらしいし、素質のある教え子に音大進学をすすめることもあると思うの」
「なるほどね。探してみる価値はありそうだな」
答えながら、やっぱり賢い子だなと千寛は靴箱にローファーをしまう透子の横顔を見つめる。
彼女は聡明だ。頭の回転は速く、洞察力にも優れている。右耳こそ難聴を患っているが、ピアニストらしく耳もいい。引っ込み思案な性格が足を引っ張っていなければ、あるいは彼女も真寛と同じようなリーダータイプの人間にもなれただろう。
だからこそ、彼女に惹かれるのだろうなと思う。真寛ほど自信家ではないけれど、知的で冷静なところは真寛とよく似ている。大事なところで足を踏ん張れるような、根っこの部分にブレない強さを感じるところも。彼女が気づいているかどうかはさておき、そうした性質はおそらく彼女の姉ともよく似ているのだろう。プロのピアニストとしての地位を確立しつつある現役音大生、蓮見明穂と。
「千寛くん?」
靴を履き替えた透子が、不思議そうに首を傾げてこちらを見る。ちゃんと視線が重なると、あぁ、やっぱり、と思ってしまう。
まだ下駄箱の前にいる透子に、千寛は足音を立てずに歩み寄る。北側からしか光の入らない薄暗い昇降口で、千寛は透子の頭を撫で、しなやかな髪を右耳に軽く引っかけた。
静かに顔を近づける。驚いて目を大きくする透子の唇をそっと奪う。
二人分の呼吸が世界から消える。たった二秒の甘い交わりは、言葉にして伝えるよりもダイレクトに、愛する人へ愛を届けた。
「……!」
顔を真っ赤にした透子に向かって、千寛は立てた左の人差し指を自らの口もとに寄せた。
「学校についたら、その呼び方は禁止だよ」
暁千寛。両親からつけてもらった本当の名を名乗っていいのは透子と二人きりのときだけだ。透子にだけは真実を知られてしまったけれど、亡くしてしまった大好きな双子の兄、暁真寛としての生活が終わることはない。
僕は――俺は、真寛。
そうやって生きていくことをやめたいとも、やめようとも思わなかった。真寛の力を借りていたほうがなにかと生きやすいことを知ってしまった。
さっきのキスがよほど響いたのか、下駄箱に寄りかかって打ち震え始めた透子の姿に千寛は笑う。
「ほら、練習行くよ、透子」
「いや、あの……ちょっと、今日は無理です」
「えぇ?」
なに言ってんの、と無理やり彼女の手を引いて歩く。耳まで真っ赤にしてついてくる彼女を見てまた笑う。
これまでこっそり使っていた第三音楽室は、今では音楽科の教師に正式な許可を得て使用している。ついでに生徒会からの要望として、壊れた扉の鍵の修理について進言しておいた。「僕らみたいに悪巧みをするヤツらが今後出てこないとも限りませんから」と言うと、女性の音楽教師は笑っていた。直すつもりはないのだろうなと千寛は笑みを返しながら思った。
なんとか透子をピアノの前に座らせる。まだ照れた顔をしていて、それはそれでいじらしさがあってかわいい。
「この前、明人に訊かれたんだ。おまえら、付き合ってるのかって」
ピアノに一番近い席の椅子を引きながら千寛が言うと、透子の表情がまた一段と強張った。
「な、なんて答えたの」
「透子に訊いてみたら、って言った」
「えぇ? わたし、なにも訊かれてない」
「だろうね。僕がそう言ったらあいつ、『なんだよ、結局付き合ってるってことだろ』って言ってたから」
実際、付き合うとか付き合わないとかいう話を透子としたことはない。
だから、今しようと千寛は思った。
「そういうことでいいよね、透子?」
こういうときだけ、うまく真寛が憑依してくれる。透子に選択権を与えない問い。絶対的な自信があるからこそ為せる物言い。
ピアノの音色に惹かれたことが始まりだった。真寛の写り込んだ写真を通じて彼女の人柄を知っていくにつれ、蓮見透子という女性そのものに心がすぅっと吸い寄せられていくのを感じて止まらなくなった。
自分と真寛のために一生懸命になってくれる彼女のひたむきさが嬉しかった。優しく寄り添ってくれる気持ちが嬉しかった。
彼女のかかえる苦しみに、自分も寄り添ってあげたいと思った。気づけば彼女のことばかりを考えている自分がいた。
それが答えだ。ずっと、透子のそばにいたい。
透子がうなずいて返してくれる。千寛は満足な笑みを浮かべ、ショパンの『夜想曲第二番』をリクエストした。
朝を迎えてまだ数時間の第三音楽室に、透子の奏でる美しい夜の情景が広がっていく。見上げれば濃紺の空に星が瞬き、街を彩るのは家々の窓から漏れ出す淡い明かり。
しっとりと耳に、胸に響き渡る幻想的なメロディーに、千寛は机に載せた両腕の上に頭を預け、目を閉じる。まぶたの裏では真寛が微笑み、透子が楽しそうにピアノを弾く姿が描き出される。
長い間、ずっとひとりぼっちだと思っていた。けれど今はもう、そんな風には思わない。
情緒あふれる、歌うように紡がれる上質なピアノの旋律が、二人きりの第三音楽室に満ち満ちる。
透子の音と、かけがえのない存在を感じながら、千寛の意識は透子の見せる夜の向こう側へと溶けていった。




