2-1.
七時二十五分に高校の最寄り駅に到着する地下鉄を降り、地上階にある改札を抜けると、券売機の前に透子の姿を見つけた。透子の乗る反対方面の電車のほうがこの駅には二分先に到着する。別に待ち合わせをしているわけではなかったのだが、透子は毎日同じ場所で千寛が現れるのを待っていた。学校までの十分弱、二人でゆっくりと歩く朝の時間を楽しむのも、ここ最近の二人の日課になっていた。
「おはよ、千寛くん」
透子の素朴な笑顔を見たら眠気が飛んだ。鎖骨の下あたりまで伸ばした黒髪は細くしなやかで、背丈に見合った小さな顔につぶらな瞳、口まで小さいところが少食な彼女をよく表している。いかにも日本人らしい派手さのない美を透子からは感じるのに、ピアノを弾かせると驚くほど力強い、男性奏者顔負けの演奏をこなしてみせるのだからすごい。普段の彼女とピアニストとしての彼女のギャップに日に日に惹かれていくのを肌で感じながら、千寛は透子との毎日を過ごしていた。
「大丈夫?」
駅から一歩歩道へ出て、朝の陽射しを浴びた途端、透子が心配そうに千寛の顔を覗き込んだ。
「疲れてる?」
千寛は両眉を跳ね上げた。一目見てわかるほどの疲労感が顔に出ているのか。思わず頬に手を添えてしまう。
「そうでもない、と言えば嘘になるんだけど」
「忙しくなってきたもんね、文化祭のこととか」
「まぁね。実は今朝、寝坊した」
「ほんと?」
「ほんと。ダメだね、金曜は。からだが気持ちに追いついてくれない」
心は常に動き続けていたいと願うのに、からだは休めと訴えてくる。せめぎ合う二つの気持ちにどう整理をつけるべきか、千寛は電車に揺られながら考えた。休めば休んだ分だけピアノがヘタになるような気がするし、休まないといつか倒れてしまう気もする。明確な答えが出ないまま、高校の最寄り駅についてしまった。
「たまにはサボっちゃう? ピアノの練習」
透子がめずらしく意地悪な顔をして、千寛の悩みを吹き飛ばすように言った。
「大丈夫だよ、一日くらい弾かなくたって」
「でも」
「うちの部室に、ボロボロだけどソファがあるの。起こしてあげるから、三十分くらい眠ったら?」
写真部、新聞部、文芸部、映画研究部が合同で使っている多目的教室のことを言っているようだ。確か、何年か前にどこかの教官室で使われていたものが古くなったので捨てようとしていたところを引き取ったのだったか。物持ちがいいのは悪いことではないが、なんとなくそこで一眠りしようという気にはなれなかった。
「だったら音楽室で寝るよ」
「音楽室の机で?」
「うん。透子のピアノを聴きながら寝る」
快適な眠りを導いてくれそうなクラシック音楽はたくさんある。ショパンの『ノクターン』あたりがいい。夢か現か、覚醒した状態で聴いていてもその境界があいまいになるほど、あの曲のメロディーには現実離れした美しさがある。
「責任重大だなぁ」
透子が自信なさそうにつぶやく。
「良質な眠りを誘う演奏……できるかな、わたしに」
「できるよ」
言葉だけでなく、彼女の背中を本当に手で押してやる。
「透子ならできる」
「そうかな」
「うん」
できる、やれると強く思うことで、実現可能性を高めることができる。真寛に学んだことだ。言霊の力を侮ってはいけない。できないと最初からあきらめていては、なにを為すこともできないのだ。
駅から校門まで、ゆるやかな上り坂が続いている。中腹で勾配がやや急になり、そこを越え、再びなだらかな坂になったあたりで透子が「そういえば」と唐突に話題を変えた。重要な連絡だった。
「お父さん、明日は夕方まで用事があるからレッスンはできないって。謝っておいてって言われた」
「そう。わかった。こちらこそ気をつかわせてしまって申し訳ないな」
「でも、うちに練習しに来るのはかまわないって。千寛くん、家にピアノがないでしょう」
そうなのだ。週末に透子の家へ出向く最大の理由は、ピアノに毎日触れることができるようになるからだ。家で練習できない千寛にとって、学校がない休日にピアノを弾くためにはレッスンに出向く他に方法がない。透子の父もそれをわかっているからこそ、嫌な顔一つせず千寛を自宅へ迎え入れてくれていた。
「そのことなんだけどね」
しかし、今朝の祖母との会話で状況は変わった。
「おばあちゃんがピアノを買ってくれることになりそうなんだ」
「えぇ、ほんと!」
「うん。音大に行きたいんだって話したら、じゃあピアノを、って」
透子の家のようにグランドピアノを置くスペースも財力もないが、アップライトピアノという箱形のものが一台あれば自宅での練習には十分だ。それでも安い買い物ではない。一台五、六十万円という世界だ。高齢の祖母がそれをわかって言っているのか定かではないので、実際に買ってもらえるかどうかは楽器店で実物を見てから祖母に判断してもらうつもりだった。
「よかったね、千寛くん」
透子が誰よりも嬉しそうな顔で笑った。
「これでおうちでも好きなだけ練習できるじゃない」
「まだ買うって決まったわけじゃないけどね」
「嬉しいなぁ。千寛くん、いよいよ本当に現役で音大に受かっちゃいそう」
千寛の指摘はまるっきり無視し、すっかり上機嫌になった透子は今にもスキップを始めそうなくらい軽やかな足取りで千寛の右隣を歩く。彼女の右耳の聞こえがよくないことを知って以来、意識的に彼女の左側に立つようにしているのだが、それでも聞いていないのだから、どうやら彼女には根本的に人の話を聞かないところがあるようだ。




