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スワップ・スナップ  作者: 貴堂水樹
最終章 二つの願いが重なる場所 〈千寛〉
27/33

1-1.

『なぁ、千寛』

『うん』

『俺、やっぱり医者になることにした』

 真寛の話はいつだって唐突に始まる。今日もそうだ。RPGのテレビゲームを二人で協力して遊んでいる今、真寛は突然将来の話をし始めた。

『えっ、そうなの』

目を丸くすると、真寛は『うん』と胸を張って答えた。

『だって結局さ、人間の病気を治すのって人間だろ。俺はそういう人になりたい』

『ふぅん。でもそれって、遠回しに父さんの仕事を否定してるってことにならない?』

『ならないだろ』

『どうして』

『ならないって。父さんの開発した医療機器を使いこなせる医者に俺はなるんだから』

 なるほど、そういう理屈か。父と同じ研究者ではなく、臨床医として最新の医療機器と向き合っていこうというわけだ。

『これまで誰も治せなかった病気を、父さんの作った機械と、医療現場で鍛えた俺の腕で治す。これこそ理想的な未来だろ』

 二段ベッドの上の段から、真寛が白い歯を見せた笑みを向けてくる。いかにも真寛らしい考え方だ。自信に満ちあふれた目をして大きな夢を語る同じ顔を見ていると、自分がいかにちっぽけな人間かということを嫌と言うほど思い知らされる。

 薄暗い部屋の中で、真寛は堂々と宣言した。

『父さんの夢は俺が継ぐ。俺が医療に携わる大人になる。だからおまえは、おまえのやりたいことをやればいい』

『僕のやりたいこと』

『ピアノの先生。なりたいんだろ?』

 真寛以外には誰にも話したことのない夢。親でさえ知らない、ささやかな願い。

『でも、僕には……』

『なれよ、絶対。おまえなら、なれる』

 がんばれ、と真寛は言った。

 このときはっきりとうなずいて返せなかったことを、今でもずっと悔やんでいる。


「真寛、起きてるかい?」

 祖母の声がぼんやりと聞こえ、あぁ、またあの日の夢を見ているなと気づいた。千寛は布団の中でもぞもぞとからだを動かし、首をもたげて祖母に「おはよ」と言った。

「いいのかい、時間。もう六時過ぎてるよ」

「うそ」

 しまった。久しぶりに寝過ごした。慌てて布団から飛び出し、千寛は制服一式のかかったハンガーを片手にドタバタと階段を駆け下りていく。六時半には家を出ないといつもの電車に間に合わない。

 母方の祖母の家での暮らしには、千寛自身が定めたルールがいくつかある。まず、朝は必ずトイレと玄関の掃除をしてから出かけること。ゴミ出しと庭の手入れも千寛の仕事だ。いつも祖母が先に寝てしまうので、夜の戸締まりも千寛が気をつけてやらなければならない。

 その代わり、食事の支度はすべて祖母がやってくれる。六年前の火災事故以来、火に対する恐怖が付きまとって離れなくなってしまった。祖母が千寛を気づかい、ガスコンロからIHクッキングヒーターに変えようかと声をかけてくれたが、家に置いてくれるだけでもありがたいのに、そこまでしてもらうことはできなかった。祖母がキッチンに立つ間、千寛は逃げるように自分の部屋など別の場所へと避難している。それで十分だった。

 祖母の家で暮らし始めた当初、祖母は千寛に「お手伝いはなにもしてくれなくていい」と言った。祖母なりの、家族を失った千寛への心づかいのつもりだったようだが、千寛は頑として受け入れなかった。家族四人で暮らしていた頃もゴミ出しは千寛の仕事だったし、玄関掃除は真寛の仕事だった。庭の手入れは二人で父を手伝っていた。一度終えた子育てを再びやらなければならなくなった祖母の苦労を思えば、たったこれだけの家事分担でも少なすぎるくらいだ。

 けれど、今日だけは祖母に甘えざるを得ない。手早く洗面と着替えを済ませた千寛は、居間に入るなり、朝食の準備をしていた祖母の背中に頼み込んだ。

「おばあちゃん、ごめん。トイレと玄関の掃除、まかせていい?」

「もちろんだよ。はい、朝ごはんとお弁当。お味噌汁、熱いから気をつけて」

「ありがとう。いただきます」

 箸を持ち、熱いと注意された味噌汁を吐息で冷ましながら一口飲む。あと三年で八十歳を迎える祖母の料理の腕前は、亡くなった母と同じでピカイチだ。

 まだ小さな子どもを相手にしているように、祖母は千寛に対していつまでも過保護だった。孫とはいえ、自分で産んだ子でないなら所詮は他人の子だ。祖母はあくまで母親代わり。祖母と孫という関係がそれ以上のものになることのないまま、あっという間に六年が過ぎた。

「なにかいいことでもあったのかい」

 かき込むように純和風な朝食を食べ進めていると、向かい側に座って一緒に食べていた祖母が嬉しそうに千寛の顔を覗き込んできた。

「なんで」

「最近、ようやく楽しそうな顔をするようになったからさ」

 ようやく、という言葉が胸に刺さる。透子や戸部に言われたように、祖母の目にもずっと無理をしてきていたように映っていたのか。

 そんなことはない、と言えば嘘になる。簡単なことではなかったし、あまりの苦しさに涙がこらえきれない日もあった。

 それでも、真寛として生きることをやめるわけにはいかなかった。やめてしまえば、高波のように押し寄せる罪悪感に飲み込まれ、生きることすらあきらめていただろう。

 生きなければならなかった。どれだけ苦しくても、さみしくても、真寛の分まで、真寛の人生を生きなければならない。それこそが真寛につないでもらった命の使い道なのだと強く信じた。信じることで、家族のもとへ行きたいと願うことをやめられた。さみしさと悲しみで心が壊れそうになっても、真寛の笑顔が生きる力を与えてくれた。

 いつだって千寛は、真寛の存在なしにはうまく生きられない少年だった。真寛の友達が千寛の友達にもなってくれたし、苦手なことは真寛が代わりにやってくれたり、手伝ったりしてくれた。死に別れた今でも、真寛に頼りっぱなしの人生だ。真寛になりきることで、ようやく普通の生活が送れている。

 透子の見解とは少しズレがあるけれど、真寛が透子の撮影した写真に写り込んだ理由には、いつまでも真寛に頼って生きている自分を一喝する目的もあったのではないかと千寛は考えていた。この六年間、俺の生き方、考え方に学んだことを、そろそろ自分自身の人生に落とし込んでもいいんじゃないか。今のおまえになら、一人でもたくましく生きていけるんじゃないか。

 ピアノの件に限らず、真寛は千寛の生き方そのものについても伝えたいことがあったのではないかと、透子にもらった写真を見ながら千寛は思った。自分の夢を追い求めながら、同時に他人の幸せも叶えてやろうと、目配り、気配りを怠らない。それこそが真寛の理想の生き方だった。命を落とした今でも、真寛は千寛の幸せを一番に考えてくれているのだ。

 箸を置き、口の中を空にする。閉じたまぶたの裏に、真寛の存在をはっきりと思い描く。

 そんなに僕自身の人生を生きてほしいのかい、きみは――。

 真寛が笑顔でうなずいてくる。ゆっくりと目を開け、千寛は笑みとため息をこぼした。

「医学部に行くの、やめることにしたんだ」

「えぇ?」

 唐突な千寛の告白に、祖母は目を丸くした。

「どうしたんだい、突然」

「僕、本当は音楽をやりたいんだ。その気持ちに、どうしても嘘がつけなくなっちゃって」

 ここ数週間、友達と遊びに行くと言って週末は家をあけていた。実際には遊びに出かけているわけではなく、透子の家へ出向き、透子の父からピアノを教わっている。

「やっぱり好きなんだ、ピアノが。音楽が。父さんには申し訳ないと思うんだけど、僕、大学では音楽について勉強したくて」

「音楽って……そりゃあんた、音大に行きたいってことかい?」

「うん。難しいのはわかってるんだけど、もうすでに受験対策も始めてて」

「音大……」

 祖母の目がまんまるになっている。当然だ。医学部から音大へのシフトチェンジなんて前代未聞だろう。祖母の家には、千寛にあてがわれた二階の一室にさえ楽器の一つも置いていない。まさか孫が音大へ行こうだなんて言い出すとは思いもしなかったはずだ。

「そうかい」

 けれど祖母は、千寛の意思を否定しようとしなかった。

「それなら、ピアノを買わないとね」

「え?」

「音大に行くんだろ? 受験でピアノを弾くんじゃないのかい?」

「おばあちゃん……」

「いいねぇ、ピアノだなんて」

 祖母は嬉しそうに微笑んだ。

「昔から、モーツァルトは健康にいいって言われているからね。おばあちゃんも、真寛のピアノでもっと元気になれるかもしれない」

 食卓の空気が和む。千寛の気持ちに精いっぱい負担がかからないよう配慮してくれた祖母の気づかいに心があたたまる。

 祖母はこの六年間、千寛扮する真寛のことを優しく見守り続けてくれた。選ぶ道を否定されたことは一度もなく、たくさんの応援を傾けてくれた。優しいおばあちゃんだ。

「ありがとう、おばあちゃん」

 祖母はニコリと笑うと、「ほら、遅刻するよ」と千寛の背中を押してくれた。千寛は祖母の作ってくれた朝食をできるだけ味わって食べ、どうにかいつもどおりの時間に家を出た。

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