3-6.
千寛の髪が風になびき、野球部か、あるいはテニス部か、朝練の声が遠く窓の向こうから聞こえてくる。
千寛の瞳が、揺れ動く心を映すように少しずつ色を変えていく。透子からそらされた視線はやがて、二人がそれぞれこっそり弾きに来ていたグランドピアノに注がれた。
「ピアノの先生」
静かに、少し自信がなさそうに、千寛は自らの夢を語った。
「ピアノの先生になりたかった。かよってたピアノ教室の先生に憧れてたんだ。それで」
「素敵。叶えようよ、その夢」
「でも、僕には音大になんて」
「お父さんがね」
この話をしたときの父の顔を思い出しながら、透子は千寛に切り出した。今日話すべき本題のうちの一つだ。
「本気で音大に行きたいなら、特別にピアノの練習を見てくれるって。土日なら時間があるから、いつでも習いに来てくれていいって言ってるの」
「お父さん? きみの?」
「うん。うちのお父さんも音大卒で、今は高校で音楽の先生をやってるの。音大受験の経験があるから、役に立てると思うって」
と、こう話すと立派な父親のように聞こえるが、実際のところ父は自分も音大のピアノ専攻だったということを千寛に自慢したいだけなのだ。「すごいね、お父さん」と誰かに言ってもらえることが父のなによりの喜びで、蓮見家でよく聞く「すごいね、お姉ちゃん」の代わりになれることを、父はいつでも、今でも夢に見続けている。褒められて嬉しそうにしている子どもみたいな父を見るのが透子は好きだった。だから千寛には、遠慮なく父を頼ってほしいと思っている。
「もちろん、無理にとは言わないよ」
戸惑いを隠しきれない千寛に、透子は一歩身をひいて言う。
「どうしても音大に行けっていう話でもないの。それだけがピアノを続けていく方法じゃないから。でも、真寛くんだけじゃなくて、他の友達にも心配されてるんだってことは知っておいてほしいかな、千寛くんには」
「他の友達?」
「戸部くんが言ってたの。真寛はがんばりすぎだ、このままじゃ壊れちゃうって」
「明人が?」
千寛は気づいていなかったのだろうか。戸部は真剣に千寛のことを心配していた。
戸部だけではない。美弥もそうだった。気づいている人は気づいているのだ。千寛の背後にただならぬ影の存在があることに。
「わたしもそう思う。真寛くんとして生きること、自分とは違う人格を演じ続けることにはやっぱり無理があったんだよ。これまでのことは今さらどうにもならないし、暁千寛が戸籍上故人として扱われることは変えられないけど、せめて、せめて千寛くんが千寛くんらしく、千寛くんの性格のまま、千寛くんの進みたい道に進むことくらいは、考え直してもいいんじゃないのかな」
千寛が本心から医学部へ進みたいと思っているのならそれでいい。でも、真寛のためを想うがゆえに無理をしているのなら、それは真寛の気持ちにも反することだと透子は思う。真寛はそれを伝えたくて、透子の撮る写真に現れた。真寛が千寛のことをよくわかっているように、千寛もまた、真寛の気持ちを察することができる人であるはずだ。
千寛の細いため息が音楽室に溶けていく。午前八時十五分。校舎の中にいても、窓の外に人の気配が増えていくのを感じる。
「どうしたらいいのかな」
手渡した写真に目を落とした千寛がつぶやく。
「真寛がいなくちゃ、僕はうまく生きられない。真寛の皮を借りることでようやく一人でもなんとかやってこられたのに」
「一人じゃないよ」
透子も同じように、千寛の手もとの写真を見た。
「千寛くんのそばには、いつも真寛くんがいてくれる。困ったときはこれまでみたいに、真寛くんが知恵や勇気を貸してくれるよ」
「そうかな」
「うん。それに……わたしも、いるから」
頬に熱を帯びるのを感じる。それだけではない。両肩にもあたたかい感触が走ったような気がした。
真寛だ。真寛が透子のそばに立ち、背中を押してくれている。
熱い気持ちと、大きな勇気が湧いてくる。千寛の目をちゃんと見て、透子は胸に秘めた想いを伝えた。
「わたしは本当のことを知ってる。ほんの少しだけでも、あなたの力になりたいの。だから千寛くん、わたしのことも頼って。あんまり役に立たないかもしれないけど、悩みを聞くことくらいはできると思うから」
家族こそ失ったけれど、千寛は決して一人じゃない。透子がいる。真寛も見守ってくれている。一人では弱くても、誰かと支え合うことができれば、人はどこまでも強くなれる。
「千寛くんと、真寛くんと、わたし。三人で、千寛くんの夢を叶えようよ」
できることなら、千寛にピアノの道をあきらめてほしくなかった。一度あきらめた者にしかわからない、心の奥深くでくすぶり続ける小さな小さな後悔の念との闘いを、千寛にもこれで終わりにしてほしい。
叶わない夢もある。けれど、追いかけるのをやめるより、叶わないとわかるまで追いかけ続ける人生のほうがきっと楽しい。千寛の憧れる、どこまでも前向きで自信家な真寛ならきっとそう言うだろうと透子は思う。
ずっと困ったような、つらそうな表情を浮かべていた千寛の顔に、ようやく笑みが戻ってきた。彼の中で、ひとまず心の整理がついたようだ。
「一つだけ間違っていることを教えてあげようか」
「え?」
「さっき言ったでしょう、僕は真寛として生きる今を案外楽しんでるって。あれだけは本心なんだ。嘘じゃない」
千寛は歩き出し、細く開けていた南側の窓を閉めた。「そうなの?」と透子が言うと、振り返った千寛は「意外?」と訊き返してくる。
「そりゃあ最初は大変だったよ。真寛がやってきたことは僕の知らないことばかりだったんだから。でも、真寛として生きてみて気づいたことがたくさんあった。誰も前を歩いていない、自分が先陣を切って道を踏み固めていくっていうのは、なににも代えがたいスリリングなおもしろさがあるんだってこととかね。生徒会の仕事だって、学校の裏事情に詳しくなれたりするところなんかはけっこう楽しいし。思いのほか、いいことばかりだったんだよ。成功体験を積み重ねることで、自信も度胸もついたしね」
「じゃあ、医学部に行こうと思ったのは?」
「それは別」
二人で一緒に音楽室を出、ゆっくりと階段を下りながら千寛は続ける。
「なんで医者なんだって、こればかりは何度も真寛を恨んだよ。僕、病院は苦手なのに」
「えぇ、そうなの?」
「そうだよ。うちは父親が医用工学っていって、医療機器の研究開発をしている大学で研究者として働いていたから、真寛はその影響を強く受けて医学の道を志したみたいなんだけど、僕は父さんの仕事にまったくと言っていいほど興味がなくてね。仕方がないから腹をくくってこれまで勉強してきたけど……」
三階と二階の間の踊り場で、真寛は静かに足を止めた。
「きみに言われて、本当の気持ちに改めて気づいたよ。僕はやっぱり、ピアノを続けたいんだって」
千寛の口からようやく本心がこぼれ落ちた。このときを待っていた。
ピアノを弾きたい。ピアノが好き。
透子と同じ、音楽に対する前向きな気持ち。
透子は笑顔でうなずいた。
「続けよう、ピアノ。もう一度、ちゃんと向き合おう」
「きみと一緒に?」
窓から差し込む光に当たるとわずかに茶色がかって見える千寛の瞳は、吸い込まれそうなほど美しかった。じっと見つめていることは難しくて、透子はそっと視線を下げる。
「一緒にがんばろうよ、透子」
頭の上から、千寛の声が降ってくる。顔を上げると、すぐ目の前に千寛の端正な微笑みがあった。
「僕は透子と一緒がいい。二人でなら、がんばれる気がするから」
名前を呼ばれる。蓮見さん、とではない。透子、と千寛が呼んでくれる。
嬉しかった。からだじゅうがあたたかい喜びの感情で満たされていく。
透子がこくりとうなずくと、千寛は笑みをより深くし、透子の右耳にすぅっと顔を寄せてささやいた。
よく聞こえない右耳に、千寛の声が染み渡る。常時聞こえている鈍い耳鳴りを超えて、千寛の声だけがはっきりと透子のもとに届く。
――ありがとう。
心からの感謝の言葉を透子に残して、千寛は階段を下り始めた。その足音は、気配を消すように歩く千寛のものではない。真寛の立てる、自信に満ちあふれた堂々としたメロディーが、少しずつ透子から遠ざかっていく。
これでいい。真寛の力を借りながら、千寛はこれからの人生を自分らしく生きていける。
透子はスカートのポケットからスマートフォンを取り出し、父にメッセージを送った。
〈今週末、真寛くんをうちに連れてくるね。レッスンよろしく、蓮見先生!〉
必要以上にはりきりそうな父の顔を思い浮かべ、透子はかすかに声を立てて笑った。わたしもがんばらなくちゃ、と自分を奮い立たせもした。一年以上のブランクを埋めることは決してたやすくない。
教室に戻ると、千寛はさっそく多くのクラスメイトに囲まれていた。その中には戸部の姿もあって、いつもどおりの朝の教室の情景だ。
少なくとも高校生活を送る間は、真寛として生きることを千寛はやめないかもしれない。生徒会長としての務めを果たし、勉学に勤しみ、おそらくは来年度の卒業式で卒業生代表として答辞を読むことになるであろう暁真寛を、千寛は見事に演じきるだろう。
今はまだ、透子だけが知っていればいい。本当の彼の姿を。どちらかというと後ろ向きで、人前に立つことが苦手で、自分になかなか自信を持つことのできない男。それが本当の彼、暁千寛なのだと。
もともと器用な人だ。透子の前ではときおり本性を見せたりして、うまく気持ちに整理をつけながら進んでいけるに違いない。戸部に気づかわれたときのように、周囲に心配されるようなことも少しずつ減っていけばいい。
始業五分前の予鈴が鳴る。リュックの中身を整理していると、千寛が透子の席へやってきた。
「ねぇ、昼休みにピアノ教えてよ」
「え?」
「ほら、やるって決めたら急に練習しなくちゃいけない気持ちになっちゃって」
千寛の、真寛を演じているときとは違った色で輝いている瞳を見て、透子はついおかしくなって笑った。ピアノが弾きたくてうずうずしていることが顔に出ている。千寛は本当にピアノが好きなのだ。あるいは透子よりもずっと。
「いいけど、わたしもこのゴールデンウィークに練習を再開したばかりだから、教えられるほどじゃないんだけど……」
「いいの。それでも僕よりずっとうまいんだから」
「え、透子ちゃんってピアノ弾けるの?」
一つ後ろの席の女子生徒がさりげなく会話に交ざってくる。「めちゃくちゃうまいんだよ」と千寛がさらに目を輝かせて返した。
「プロの演奏を聴いているような気持ちになるよ、透子のピアノは」
「へぇ、すごい! あたしも聴いてみたいなぁ」
「暁も弾けるの、ピアノ」
また別の女子生徒が絡んできて、千寛は「少しだけね。これから透子に習おうと思ってる」と答える。会話は一気に盛り上がって、いつかの朝のように透子はその中心にいた。
ピアノはいつから習っていたのか、音大には行かないのか、あの有名な曲は弾けるのか。あちこちから飛んでくる質問の嵐の一つひとつすべてに答えながら、透子は胸にくすぐったさを感じてたまらなかった。
ピアノが原因ではない。千寛がことあるごとに「透子」と呼んでくれることが嬉しくて、自然と頬が緩んでしまう。
本鈴がなり、担任教師が教室に姿を見せる。窓から差し込む初夏の陽射しはまぶしく、透子の机に光と影のシャープなコントラストを描く。
透子の座る列の一つ後ろ、四つ右隣の教室中央。担任による朝礼に真剣に耳を傾ける千寛の横顔をそっと見やる。
この目には映らないけれど、満足そうに微笑む真寛が千寛のすぐ後ろにいるような気がしてならない。千寛には大好きなピアノをあきらめてほしくないという真寛の願いは、どんな形であれ、どうにか叶いそうなところまで来た。
ありがとう、真寛くん。透子は心の中で真寛に大きな感謝を伝えた。
透子の視線に気づいた千寛と目が合う。
微笑むと、千寛も微笑み返してくれた。




