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スワップ・スナップ  作者: 貴堂水樹
第三章 同じ音色 〈透子〉
25/33

3-5.

 千寛の右手が静かに離れる。世界が音を取り戻す。風の音も、窓の向こうから聞こえてくる運動部の朝練の音も、両耳ならちゃんと聞こえる。右耳だけでも、まったく聞こえないわけではない。

「誰にだって、隠しごとくらいあるものでしょ」

 強く抑えられていた左耳を、千寛は優しくさすってくれた。

「いろいろな事情があって、本心とは違う方向に進んでしまうこともある。きみがピアノの世界を離れようと思った本当の原因は、お姉さんがピアニストになったからじゃない。右耳の不調が、一番の理由なんだよね?」

 そうだと答えても間違いではなかったし、やっぱりお姉ちゃんの存在が最大の理由だよ、と言うこともできた。どちらでもかまわない。透子の心は一度、修復不能と思われるほどに折れた。

「わたしも、小学五年生の頃だった」

 奇しくも暁家が焼失したのと同じ六年前、当時十歳だった透子は原因不明の高熱に見舞われ、三日間、自宅のベッドの上で死線をさまようような体験をした。原因が判明したのは熱が下がってからのことで、右耳に閉塞感があることに気づいて耳鼻咽喉科へ駆け込むと、耳の病気が発覚した。

 難聴の程度は中等度と高度の境目あたりだと医者には言われた。聴力は完全に失われてはおらず、しかし左耳なしでは音を拾うことが簡単ではない状態だった。症状はその後も回復することなく、現在に至る。

 ショックだった。耳がいいことは透子が自慢できる数少ないことの一つだった。かよっていたピアノ教室で、音楽の知識と理解を深めるために受けたソルフェージュの授業でも、音の聴き取り訓練ではいつも満点だったのだ。絶対音感も持っている。

 左耳は聞こえていたし、手足には異常がなかったことから、ピアノを弾くこと自体は問題なくできた。しかし右耳には常にボーッという耳をふさいだときに鳴る鈍い低音が響いていて、その音に邪魔をされて自分のピアノの音を百パーセント感じることが難しかった。

 悔しかった。どうして自分がこんな目に。運命を何度も呪い、部屋にこもって何度も泣いた。

 やめたくなかった。姉のようになれないことなど最初からわかっている。

 ピアニストにはなれなくていい。それでも、ピアノとともに生きていきたかった。

 右耳のことは家族以外には誰にも話さなかった。ピアノの先生にも伝えなかった。自分自身が認められないことを、周りに先に納得されたくなかった。

 ほとんど左耳だけで音を聴き、透子はピアノを弾き続けた。勘を頼りに練習し、コンクールにも参加した。

 結果はかんばしくなく、右耳のせいにしようとしたこともあった。そうじゃないことなどわかっていた。そもそも技量が足りていなかったから優勝できなかった。それだけだ。

 バランスがうまく取れないことが一番の原因だった。からだの左側で鳴る音のほうが、右側で鳴る音よりも大きくはっきりと聞こえるせいで、強弱のバランスが理想の音と微妙にズレてしまう。

 補聴器を使うことも検討された。だが、透子はどうしても受け入れられなかった。耳が悪いのにピアノをやっているのかと周りに思われることが許せなかったし、恥ずかしいことだと思ってしまった。日常生活にたいした支障がなかったことも、透子が補聴器を頼ろうとする気持ちにブレーキをかけさせた。

 出口のない迷路に迷い込み、袋小路にぶつかった。昔のように、純粋に姉の背中を追いかけていた頃には戻れない。これ以上の成長もきっとない。

 高校受験を控えた中学三年生の頃、心の折れる音が右耳の奥ではっきりと聞こえた。これ以上、ピアノを弾くことはできない。理想を追い求めることはできない。

 やめると決めたら、あとは簡単だった。自宅にある防音室に足を運ぶことをやめ、受験勉強に没頭すればいいだけだった。両親からは音楽科のある高校を受験するようすすめられていたが、透子があまりにも清々しく「普通科の高校に行きたい」と言ったせいか、強く引き留められることはなかった。

「簡単だと思ってた。ピアノの前に立つことをやめれば、ピアノのことを考えずに済むようになるだろうって。お父さんのすすめで写真も始めた。楽しかったし、新しいことを覚えるのは嫌いじゃない。だけど」

 ダメだった。美弥の取材に付き合って、この学校のあらゆる場所をくまなく調べて回ったとき、第三音楽室の扉の鍵がかからなくなったまま放置されていることを知ってしまった。誰にも弾かれない、その存在さえ忘れ去られてしまったようなピアノが目の前に現れた瞬間、無理やり抑え込んできた感情が堰を切ったようにあふれ出した。

「弾きたかった。やめたくなかった。たとえうまく音を聞き取れなくなっても、ピアノを嫌いになることなんて絶対にない。美弥先輩には内緒で、何度か一人でこのピアノを弾きに来た。楽しかった。誰にも聴いてもらえなくても、ピアノが弾けるだけで幸せだった。でも、その気持ちさえ嘘だったんだって気づかせてくれた人がいた」

 顔を上げる。千寛とまっすぐ視線が重なる。

「嬉しかったの、千寛くんに褒めてもらえて。わたしの『ラ・カンパネラ』を聴いてもらえて。わたしのピアノじゃ誰も感動させられないって思ってたけど、千寛くんは、千寛くんだけは求めてくれた。わたしのピアノを聴きたいって言ってくれた。それが、嬉しくて」

 心の底から湧き出す感情は止まらなかった。ピアノが弾きたい。なにを為すこともできなくても、ただピアノを弾き続けていたい。もっとうまくなりたい。もっと勉強したい。

 誰かに聴いてもらいたい。わたしのピアノを。わたしの音を。

 音大に入りたかった。もともとそこが一つの大きな目標でもあったのだ。姉のようになれなくても、大好きなピアノを堂々と続けられる場所。それが音高、音大という選択肢だった。音高はあきらめたけれど、音大だったら、まだ間に合うかもしれない。

「はじめてわかったの。自分の気持ちに正直でいられることがこんなにも幸せなことなんだって。千寛くんがわたしに教えてくれたんだよ。そして、真寛くんはきっと、そのことをよく知っている人だったんだと思う」

「真寛が」

 そうだよ、と透子はうなずく。千寛のほうがよほどよくわかっていることのはずだ。

「あなたが演じていた真寛くんはそういう人だった。自分を信じて、自分の信じたことを信じて、ただ前だけを見て進める人。正しいと思ったことを、自分のやりたいことをやりきれる人。カッコいいよね。憧れちゃう気持ち、わたしにもよくわかるよ」

 どんな状況でも強くあり続けることができたからこそ、真寛は多くの人の期待や関心を集めた。堂々とした立ち振る舞いに目を奪われ、周りの人のことを十分に考えられる懐の広さは人々の心を惹きつけ、強くつかんで離さなかった。

 真寛だからできたことだ。誰にでも叶えられる理想ではない。

 だからこそ真寛はもう一度千寛の前に現れたのだ。千寛が無茶を押しとおし、かなりの無理をしていることに気づいていたから。千寛が本当にやりたいことをあきらめてほしくなかったから。幼い頃に思い描いた千寛の夢を知っているのは、真寛だけだったから。

 真寛の想いは、透子が代わりに受け取った。言葉を持たない真寛に代わって、透子が千寛に問いかける。

「教えて、千寛くんの本当の気持ち。真寛くんと生きていた頃、千寛くんはどんな夢を叶えたいって思ってたの?」

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