3-4.
ピアノこそ、千寛の計画の唯一の綻びだった。二週間前のあの日、第三音楽室で千寛演じる真寛と出会わなければ、透子は今でも千寛を真寛だと思い込んだままだったに違いない。
千寛はピアノが好きだった。ピアノを弾くことが好きで、熱心に練習に励んでいた。真寛を演じていたときの千寛が語ったことは、彼の本心だったのだ。透子の前で弾いた『乙女の祈り』は、早々にピアノ教室をやめてしまった真寛には弾けるはずのない演奏だった。
「そうじゃなくちゃ、あなたがこの音楽室でピアノを練習する理由はないはずだもん。真寛くんとして生きる道を選んだなら、ピアノが好きじゃなかった真寛くんのように、あなたもピアノから離れなくちゃいけなかった。だけど、あなたにはそれができなかった。ピアノが好きで、本当なら毎日弾いていなくちゃ落ちつかないくらい好きだったから。名璋高校に入って、この第三音楽室の扉の鍵が壊れていることを知ったとき、無理やりふたをしてきたピアノへの想いがあふれて止まらなくなった。もしかしたら中学校でもそうだったのかもしれない。あなたは一人で、みんなに隠れて音楽室を訪れては、大好きなピアノを弾いた。その瞬間だけは暁真寛としてではなく、暁千寛として生きていた」
「別にいいだろ、それくらい」
透子の言葉を遮るように、千寛はやや声を張る。
「真寛だってピアノを習っていたんだ。小学校に上がってすぐにやめたのは事実だけど、今の僕の周りにそのことを知っている人はいない。誰かにバレたってよかったんだ。趣味でたまに弾いているだけ。やましいことはなにもない」
「そういうことじゃないの」
言い訳をする千寛の声を、今度は透子が遮った。
「そうじゃないの、千寛くん。あなたがピアノを弾くことを責めてるんじゃない。あなたのピアノへの強い想いこそ、真寛くんがわたしの撮った写真に写り込んだ理由だと思うの」
「真寛が……?」
本当のことはわからない。真寛に真意を問うことはできないし、想像の域を出ないことではある。
けれど透子には確信があった。真寛には、千寛に伝えたい想いがある。
「真寛くん、千寛くんには千寛くん自身の夢を叶えてほしいんじゃないかな。千寛くん、本当はピアノを仕事にしたいと思っていたんじゃない?」
だからこそ真寛は、透子の撮る千寛の写真に写り込んだ。透子と千寛をつなぐものがピアノだったから。生徒会長なんて性に合わないことを千寛にやらせたくなかったから。真剣にピアノと向き合う千寛の姿を、千寛が自分自身の夢を追い続ける姿を、ずっと見守っていたかったから。
「……勝手なことを言わないで」
千寛の目もとを、吹き込む風になびいた前髪が覆い隠す。口もとにはかすかな怒りがにじんでいるのが透子にもわかった。
「そんなの、きみが勝手に考えてるだけでしょ。真寛のことなんて、きみはなにも知らないんだから」
「そうだよ。でも、だったらどうして、あのときあんなことを言ったの?」
「あのとき?」
透子はブレザーの右ポケットに入れてきた二枚の写真のうち、一枚を千寛に手渡した。この音楽室で千寛がピアノを弾いているときに現れた真寛の写った一枚だ。
「その写真を見たとき、千寛くん、『どうしてそんな顔をするの』って言ったよね。その気持ち、わたしにもわかるよ。その写真に写ってる真寛くん、すごく嬉しそうに笑ってるもん」
最初に生徒会室で撮れた真寛の影は、美弥のインタビューに応じる千寛の様子を心配そうに見守るような表情だった。しかし、二回目にこの音楽室で写真に写り込んだ真寛は、集中してピアノを弾く千寛を幸せそうな目をして見つめている。この姿こそ、本来の暁千寛だということを彼は知っているからだ。寝ても覚めてもピアノのことばかり考えていた幼少期の千寛こそ、真寛が生きてほしいと願う千寛の姿なのだと透子は思った。
「やめてくれ」
手にした写真を強く握りしめ、千寛は喉を締めつけるような声で言った。
「僕は真寛として生きるんだ。真寛の夢を、医者になるっていう夢を叶える。そう決めたんだよ」
「よく考えて、千寛くん。真寛くんはきっと、あなたにこれ以上嘘をついてほしくないんだと思う。その気持ちが強いからこそ、写真に写り込んだんだよ」
「嘘なんてついてない。僕は真寛として生きる今に満足してる」
「お願い。本当の気持ちを隠さないで。一人でかかえ込まないで」
「きみにだけは言われたくない! 大事なことを隠しているのはきみも同じだろう!」
ついに千寛が怒鳴り声を上げた。心臓を大きく跳ねさせた透子と距離を詰め、右手を透子の左頬に添える。
「まさか、僕が気づかないでいるとは思ってないよね」
千寛の右の人差し指と中指が、透子の左耳を強くふさぐ。透子の世界が、およそ八割の音を失う。
「きみの右耳に、僕の声はどのくらい届いてる?」
水に潜っているときのように、千寛の声がぼやけて聞こえる。これ以上小さく声を出されたら、聞き取れない言葉も出てきそうだ。
千寛だけではない。あえて指摘しないだけで、美弥もおそらく気づいている。
透子の右耳の聞こえがよくないことを。その事実を隠して生きていることを。




